-それは,春霞が街を覆い,睡魔を誘う晩春の風が身を包む季節のこと。
眠さに負けて午後の授業をバックれてしまったとはいえ,日没までにはまだまだ時間もある。
今日も今日とて指定席たる学科裏の研究用貯水池横の,無理矢理引っ張ってきたベンチの上に,用を成さなくなって久しい壊れた街灯の柱が影を落とす。
「………くわぁ………」
授業の幕間,にわかに騒がしい眼下のキャンパスをよそに,むさぼる惰眠からめんどくさそうに身を起こす少年が一人。
「………ん」
カラダをひねり,大きく伸びをする。
「あだだだだ………」
どれぐらい寝ていたのだろうか。不自然な体勢での就寝は少なからず関節だとかそういうところに結構な負荷を与えてくれる。
もっとも,この場合は好んでこの場所をベッドに選んだ手前自業自得なワケではあるが。
「………ふう………かったりい………」
チノパンのポケットをまさぐり,買い換えたばかりのジッポと共に、よれよれのラッキーストライクのパッケージをとりだす。
「………………」
めんどくさそうにその中の一本に火を点けた少年は、再び、ごろん、とベンチに横になる。
見上げる空は何処までも高い。吐き出した煙は沈み行く夕日に吸い込まれ姿を消す。それでも,北の街のこの大学に進学してからこっち,バイトと講義とあと何だっけに妙に忙しいここ数日。
久々に訪れるのんびりした時間に,相沢祐一は満足げであった。
Tomorrow Meets Resistance
本日は短期集中のバイトのラスの日である。
入りの時間は夕方で,実質的なお仕事の方はもう終わっているのだが,最後の仕上げにもう一手間が入るとのことで昨日の帰りに申し渡された超過勤務。
バイト代の即日支給と,何よりも「少々色を付けるよ」という誘い文句が,経済力に欠ける祐一の首を一も二もなく縦に振らせるのであった。
腕時計を見てみる。
4コマ目が終わったタイミングである。まだまだ入りの時間までは結構あった。
祐一は寝ころんだまま,本日のバイトの手順と,入る予定のバイト代の皮算用に没頭してみる。
(………んー,グレンを角にすれば何とかイケるか?あとタバコ減らすべえな)
頭に浮かぶのは高校のウチに親友と覚えたウイスキーとタバコの味とその対価。そしてつきあいだして一年とちょっとな恋人の笑顔。
別に仕送りの額が極端に少ないわけではない。
ライフスタイルの問題でもあるが,大学進学後一人暮らしをはじめてみると,意外となんやかやでモノイリであることが発覚。
けれどもそれを,両親の負担に直結させるほどには祐一の神経は太く出来ていないのであった。
『バイト代が出たら今度の休みにどっか遊びに行こう!』
インドアか,出ても街中お決まりコース(高校生としては至極当たり前のハナシではあるが)。
そんなデートメニューしかなかったあのころとは,ちょっとだけ違う。
まとまった金が入ったら,足の攣らないレベルで愛しのアイツを喜ばせてやりたくて,少々背伸びをしてみたい。
健全不良青少年たる祐一としては,無理からぬトコロではある。
(にしても何処にするかね?)
祐一が思いつく限りの遊び場の検索を脳内のデータベースに掛けたそのとき。
「てりゃ♪」
ぽこん。
おでこに感じる,音の割には少々重いその衝撃。
「あたっ!」
全然気付かなかった。
不意の一撃に祐一が頭を大きく反らせて見上げてみると,そこにはGジャンにデニムのミニ,ショートの黒髪をパステルカラーの色の異なるリボンのいくつかの房で飾った,大きな瞳が印象的な小柄な少女の笑顔。
「おはよう!おひるね君♪よく眠れたかね?」
なにが嬉しいのかは知らねど、なにかの雑誌を包んだ紙袋を丸めて両手に抱えたニコニコと上機嫌なご様子の少女であった。
「………えーと、誰でしたっけ君?」
間の抜けた表情で器用にベンチの上で寝返りを打ちつつ少女に向き直る祐一。
「ひどーい、またそーやってボケるー?」
「俺にはイキナリ人を凶器で殴りつけるよーな知り合いはいない。」
コトもないが,と心の中でだけ付け足して,ベンチの上に座り直す祐一。
「こんな美少女を捕まえてそんなノックアウト強盗みたいな言い方しないでよー!」
両手で構えた雑誌の包みをぶんぶんと振り回して抗議する少女。
「自分でゆーなよこのスッタコ女。」
なんのかんので楽しいのかしばらくは少女を弄くって遊ぶことにしたらしい祐一。
「言うに事欠いてスッタコ女はないでしょこのさぼり魔ー!」
からかうような祐一の物言いがお気に召さないのか不満げな少女。
「大体レポートも小テスも出欠表の記入もしてあげてるこの私に対してその扱いは無いよー!」
入学式前のガイダンスで顔を合わせて以来,祐一と学科が同じなこの少女は授業全般で一緒になることが多い。
決してまじめな学生とは言えない祐一の出席率の高さとレポートの高得点は,何故かいろいろと世話を焼いてくれるこの少女の貢献抜きには語れないお話でもあるのだった。
「ところで,女よ?………それはそーと何でココに?まだバイトまで時間あんでしょが?」
割とこーゆうのはバツが悪いので話題の転換を図る祐一。この少女とはバイト仲間でもあるのであった。
「いい加減名前覚えてよー!神楽坂よか…ぐ…ら…ざ…か!神様が楽しい坂ー!」
問いには答えずに不満を顔に貼り付けてそれはもう結構な声量で。
「あーわかった!わかったから!そう耳元で怒鳴んない!」
「………んもう。」
やっぱり不満げな神楽坂さん。
「今日がバイトのラスだったよな確か?」
確認をするように声を掛けながらんしょ,とベンチから腰を上げる祐一。
「ハナシそらすなー!」
その横でじたばたと面白い(祐一にとって)神楽坂さん。
「今日で金出るってのはいいよなあ」
全く気にも留めずに2本目のラッキーストライクに火を点ける祐一。
「名前ー!」
祐一の袖をぐいぐい引っ張りながら神楽坂さん。
「コレでしばらくはお互いビンボー生活からおさらばってワケで!」
神楽坂さんから微妙に視線を逸らしながら,引っ張られない方の手でデイバッグを肩に引っかける,全然聞いてない風な祐一。
「………わたしの名前ー………」
引っ張られる袖の力が弱くなる。
やべえ。
何となく頭の片隅に引っかかるその展開に,あんまりやりすぎるのもちとかわいそうになる祐一。
「さ,いくぞ?………神楽坂祐佳さん18歳。花も恥じらうお年頃なかわいコちゃん」
くるん,と向き直りニカッと笑ってみせる祐一。
タイミングをハズされた格好の神楽坂祐佳さんは,一瞬あっけにとられながらも
「………うん!」
弾けるように,笑顔で。
『生協で書籍を探す』という祐一と別れておおよそ90分。
授業の延長に伴う学生達の軽い殺意に気付くはずのない教官がめんどくさそうな足取りで教室を後にした頃,神楽坂祐佳はトートにテキストとバインダをしまう手間も惜しいとばかりに,中腰でどたばたと支度中であった。
「あ,祐佳祐佳!」
前の席のセミロングの,これまた人なつっこい笑顔の少女が,くるっと振り向いて話しかけてくる。
「えー,なに?」
慌ただしい所作ながら笑顔で返す祐佳。
「なに?じゃないわよー。今日の医学部の人たちとのコンパ,どうするの?一応参加ってコトになってるんだけど?」
「………あ−!」
一瞬の空白の後,思い出したように声を上げる祐佳。
「あー,忘れてたんだー?」
「ごめんっ!」
バツの悪そうに両手をあわせてぺこん,と頭を下げる祐佳。
「今日,臨時でバイトなのっ!」
忘れていたことについてはホンキで申し訳なさそうに祐佳さん。
しかし前の席のセミロングは意味ありげににやっと笑う。
「例の…………彼氏?」
相沢祐一と神楽坂祐佳は,授業にバイトに一緒に行動することが多い関係上,周りからは少なからずそういった目線で見られるコトが多い。終始マイペースにのんびりとした祐一と,いかにも楽しげで幸せそうな笑顔の祐佳。
二人並んだ空間の雰囲気は,いい感じなそれに見えるのであった。
「………そ!そんなんじゃないわよ!今日はホントに今からバイトで!」
焦る祐佳の顔は真っ赤。
彼氏という呼ばれかたには嬉し恥ずかしながら,現実には違うところである祐一の顔が,−しかもこう言うときに限って笑顔が,祐佳の頭の中に,ぽむ,と音を立ててステイするのであった。
「照れない照れない!そーね。じゃ,今回はキャンセルね?」
意味ありげな,ヤらしい感じの笑い方ながらにやにやと荷物をまとめるセミロング。
「ごめんねー?」
道具を全部しまい込んだトートを両手で抱え,もいちどぺこん,と頭を下げる祐佳。
「いーわよいーわよ!それじゃ,お幸せにー!」
「だから違う………って時間無いー!ほんと,ごめーん!」
友人のカラカイにさらに顔を赤らめつつも,押した時間に身を翻し,ぱたぱたと教室から出ていく祐佳。
「あーあ,一番人気出走キャンセルかあ………。」
教室に残されたセミロングは,少々祐佳を羨ましく思いながらもジャケットを羽織る。
小柄ながら均整の取れたスタイルに,野郎どものほとんどはすれ違いざまについ振り返るかわいらしさ。
−くるくると明るい,花の咲いたような祐佳の笑顔はおそらく医者の卵どもの心を捉えて離さないだろう。
数合わせどころかなそんな彼女を,是非連れて行って連中の反応を見てみたい衝動。それを「ライバル一人減った」という気楽な打算に置き換えて,セミロングはちょっと残念そうに席を立つ。
「神楽坂さんの彼氏って,あの背の高い?」
セミロングの横で書き物をしていた,おそらくは友人であろうソバージュが思い出したように問いかける。
「そうそう,あの,ちょっとカッコいい。本人は否定してるけどねー」
落ちた前髪で隠れそうな瞳ながら,よく見れば目鼻立ちの整った,言葉にしづらいけれど何とは無しに良い雰囲気を身に纏ったすらっとした背の高い少年。
一言二言言葉は交わしたことはあるけれど,ぶっきらぼうながら嫌な感じをさせない無邪気な笑顔の,あの。
お近づきになれたはいいが,なかなか向こうから話しかけてくることのないあたり,少々残念なセミロングではあった。
「でも見た感じベッタリじゃん。いいなあ,あーゆう人って」
何げにソバージュの少女もシッカリと見ている。ソレが何であれ,キッカケあらば祐一の横であれこれと微笑ましいその姿は,「コイスルオトメ」のソレである。本人がいくら否定しようが思いはバレバレなのだ。
黒板の転記が終わり,荷物を片付け始めるソバージュの少女。語尾はどうやら本音であろうか。
「そーゆーのが今日居ると良いわね?」
ソバージュの少女は,そういって笑う。
「ほんとに………」
暗くなり始めた窓の外を眺めて,しみじみと思うセミロングであった。
学館ロビーは授業のハネた学生達の作るカラフルな人混みの渦。
目指すお相手は,掲示板の横にひときわ高い横顔で。
友人達のからかいに赤くなる顔と弾む心を落ち着けようと,努めて平静さを装って近づいていく。
………それにしても人が多すぎる。やたらと横に長い掲示板の端っこから,とりあえず手を振って存在をアピールしてみるのだ。
「あーいーざーわーくーん!おまたせーっ………て、あっ………!」
思わず掲示板の横に身を寄せる祐佳。
(あれは………)
人混みの減った前から,ちらっと除いたソコには,「ちょっとかっこよくて背の高い」バイト仲間と,親しげに談笑する一人の少女。こちらの学部では見覚えの無い顔だ。
祐佳は思わず息を呑んだ。
(………綺麗………)
一言で言って,かなりの美人。端正な顔立ちに,華やかなかわいらしさを備え,柔らかそうなウエーブのロングヘアを頭の後ろでまとめている。
(………カッコいい………)
薄いメイクにローヒール,スタイルの良さを引き立てるような,紺色のシックなスーツ。
(………大きい………)
そしてハッキリと見て取れる,薄桃色のブラウスの前の羨ましいほどの起伏。
………それは,祐佳がこうだったらいいのになあ,と憧れる,女のコの理想像の一つの姿であった。
不意に少女と視線があった。少女は祐佳の姿を見留めると,目の前の祐一の視線を祐佳の方に向けるよう促す。
気づいた祐一は,アイカワラズもぶっきらぼうに。
「あ,おーい!何してんだ神楽坂ー!もーそんなに時間無いぞー!」
困った奴,とでも言いたげな口調ながら,それでも楽しげに声を掛けてくる祐一。実際,ホントにもうあまり時間もないコトを示す,腕時計のデジタル。
「あ,ごめーん!」
その空間に感じる気後れもナントカかき消して,祐一達にぱたぱたと駆け寄る祐佳。
「おっせーぞ!何だ、トイレか?」
全然全くいつもの調子の祐一。
デリカシーとかそういったモノを,普段の気の抜けた祐一に期待する方が間違ってるのかも知れないが。
「ちょっと,祐一!」
そんなこと女のコに言うもんじゃないわよ?な目で諭す横の少女に,バツ悪げに反省してみせる祐一。
「………あ、悪い」
特に悪びれもせず,照れ隠しに笑う。
「あの………,相沢君,こちらは?」
おそるおそる,といった感じで尋ねる祐佳。
「………,ああ,こいつは香………。美坂香里,今教育の1年だ。」
さらっと流す祐一の言葉に,香里は少なくとも表面上は表情を変えることなく祐佳の方を見つめる。
「こんにちは,美坂です。」
笑顔と軽い会釈と共に出たその声は,その美貌に似つかわしく,凛とした響きながらも明るくはっきりと。
「は,初めまして!神楽坂,神楽坂祐佳です。」
柄にもなく,緊張してるなーと思う祐佳。初めまして,と,にっこりと微笑む香里。
完璧な外向けの笑顔の奥に,微かに探るような色を感じ取る祐佳であった。
「………なにぼーっとしてんだ?」
多少妙な空気を感じながら,ぎこちない祐佳に声を掛ける祐一。
(………………)
祐佳はもう上の空,である。
それまで親しげに女の子と話している祐一の様子など見たこともなかった祐佳の前に,突然現れたこの少女。
仲を色々と詮索したくなるほど,自分に見せない種類の笑顔で香里と話す祐一に,ココロの中は動揺の嵐であった。
「……それじゃ,香里。今から俺らバイトだから!」
反応のなさも気にしてる時間帯ではそろそろ無くなってきていた。固まり加減の祐佳の肩を軽く叩き,香里に声を掛ける。
「………あ,う,うん」
確かに今は動揺している暇はないのだった。
何とか自分を落ち着かせて祐一の後に続く祐佳。
「あ,ちょっと,祐一?」
そのまま出ていこうとする祐一を呼び止める香里。祐佳も,つられて足を止める。
「ん?」
香里は,祐一の前に回り込んで,しがみつくように背伸びをする。
「ちょっと,待って」
つま先立ちで祐一の襟の曲がりを直す香里。………それはまるで,新婚の夫のネクタイのゆがみを直す若奥さんのような自然さで。
「………これでよし!と」
祐一の顔を見上げ,にっこりと微笑む香里。
「あ,ああ,サンキュな」
柄にもなく照れてるのか,はにかんだ感じの照れ笑いな祐一。
「どーいたしまして」
くすっ,と笑う香里。バイト頑張ってね,と小さく囁く。
「………」
一連の出来事を,ドラマかなにかの中の出来事でも見ていたかのように呆然と眺めている祐佳。
「ほんじゃ,行くぞ!」
「………あ,待って!待ってよー!」
照れ隠し気味にことさら慌ただしくロビーから出ていく祐一。
祐佳は香里に軽くちょこん,と会釈をして祐一の後に続くのであった。
「神楽坂,祐佳さん………か」
残された香里は,彼女自己紹介のぎこちなさと共に,その名前を反芻してみる。
「………そう,あのコが」
祐一から時々聞かされる,同じ学科の女のコ。
今日初めて見る小柄でスレンダーなその姿は,想像していた以上に可愛らしい。
くるくるとした明るさも,多分祐一の好みなのだろう。
あれだけフツーに自分以外の女のコに接している祐一の姿を見るのは,自らの親友かつ祐一の従妹たる少女以来である。
(………やっぱり,同じ学科にしとくべきだったかなあ………)
もう,恋人として意識してから1年と少し。
思いも伝えあった。
カラダも重ね合った。
成績に少々差のある祐一と,卒業してからも少しでもそばにいたくて,大学だってココを選んだ。
ことさらに人前でべたべたすることの無かった,離れているようで近い,微妙な祐一と自分の距離感。
いろいろ踏み込んで,引いて,探り合って確かめた,二人だけの空間。
少なくとも何者かによってソレを壊されない自信は,ある。
あるはずなのだ。
少なくとも,彼女の姿を見るまでは揺らぐことの無かったそれが。
『人の気持ちなんて,そばにいることが多くなって,それがイヤじゃなければ傾いてしまう』ってハナシを耳にしたことがある。
単なる同級で,かつバイト仲間だと単純に割り切っていられない。
祐佳もまた魅力的な一人の女のコなのだ。
祐一の気持ちが彼女に移ってしまう可能性について,つい真剣に考えてしまう。
だから,なのかもしれない。ことさらに見せつけてやりたかったのだ。最初に,がつん,と。
祐一の隣は,あたしの場所なのだ,と。
照れもあるんだろう,自分からそーゆう紹介をしてくれない祐一と,話を聞く限りどう考えてもライバル候補な少女の前に。
普段どれほどクールに振る舞って見せても,恋人たる祐一の前では香里もまたフツーに恋する一人の女のコであった。
「飲みすぎもいいとこだぞ………ったく」
「………ごめんねー………」
バイトがハネた後,落ち込み気味の祐佳を居酒屋に誘い,多少は元気づけてやろうと言う,祐一のもくろみそのものはどうやらうまくいったようである。
ただ,計算違いだったのは,思ったより立ち直りが早く,それでいて実はお酒に弱かった祐佳の「レモンサワーおいしー♪おかわりー!」攻撃を阻止するコトが出来なかったことであった。
祐佳は一人住まいのアパートまでの家路を,祐一におぶられて帰宅の真っ最中であった。
(軽いなあ………)
祐一は思う。普段は騒がしくも楽しい,一緒にいて飽きないこの同級生は,それでもやっぱり女のコなんだ,と。
「おまえ,今日ヘンだぞー?」
珍しくバイト中にミスを連発,ちょっと使い物にならない気味に落ち込んでしまった祐佳の,バイト中からアフターケアまでフォローに回った祐一は,結構ホンキで心配を。
「………んなことないよー………」
アルコールがまわっているのか,頼りない背中からの,それでも安心しきっているのか,眠気にあふれる間延びした祐佳の声。
春の夜空,下弦の月の元を,ただ祐佳を背負って結構長い道のりを歩む。
「立ち入ったこと,聞いてもいいかな………?」
すっかり寝てしまったと思っていた祐佳が口を開いたのは,祐一がバランスを整えようとよいしょ,と祐佳を背負い直した拍子であった。
「………内容によっては,答えてやらんことも,無いぞ?」
いくら軽いとはいえ,人一人を数キロおんぶして歩いてきた祐一は結構息切れ気味。
おちゃらけるかどうかを考える,そのためのフリのつもりの祐一ではあった。
「………美坂さんって,夕方会った美坂さんって,相沢君の彼女さん?」
それは,一瞬の躊躇の後,覚悟を決めたように。
「………これまたストレートな」
微かな苦笑と共に,そう呟く。
「………教えて………?」
決して荒い語気,ではない。切なげで,それでいて返答を迫るような,そんな問いかけ。
祐一の歩速が,少しだけ落ちる。
「………うん」
正直に,ありのままを。
「そ………か………」
力の抜けたような祐佳の声。
祐一とて,全くな朴念仁なワケではない。少なからず,嫌いな奴につきまとう女などいないと経験則上知っている分,彼女から受ける好意らしきものはそれなりに自覚している。
ただ,それが恋愛感情レベルまで発展していることまではあまり積極的に考えたいハナシではなく,ソコまで自惚れきれるほど自信家でもない。
何よりも今の自分には,誰よりも大事にしたい「あいつ」がいるのである。
彼女のこととか,祐一にとっては照れくさいので自分から進んで他人にするハナシではない。それに,嘘を付く理由も少なくとも祐一にはない。
それでもそれが,祐佳にとって非常にヘビーな一言であることを,当の祐一は知るよしもないのだった。
「神楽坂ってさ………」
あれからすっかり黙りこくってしまった祐佳に,祐一が声を掛ける。
そろそろ家も近く,眠りこけられてしまっても困る,というのは確かにあった。
「黙ってりゃそのナリなんだからその気になればいくらでもモテるだろうになぁ。」
フォローのつもりで発した,最悪のセリフ。少なくともことココにおいては,であるが。
祐佳は相変わらず黙りこくっている。起きているらしいことは気配で何となく分かるのだが。
「………神楽坂、好きな奴とかいないの?」
よいしょ,と祐佳のアパートの部屋の前,来る途中に預かった鍵を出そうと手間取りながら祐一。
この際色々ゴマカソウと必死な祐一は,ヤブヘビをつついてしまったことにどうやら気付いていなかった。
「………いるよぉ。好きなひとくらい」
「………え?」
よいしょ,と鍵を開けようと片手を出したそのときだった。
「………あいざわくん………」
「………んんっ!」
背中から身を乗り出した祐佳に,唇を唇でふさがれる祐一。
「………ん!んー!………た,たっ!」
突然のことに動揺し,バランスを崩す格好で横に倒れる祐一。背中から廊下に崩れる祐一に,上から抱き被さる祐佳。
「………ちょ,ちょっと………!」
既に唇は離れている。祐一の動揺は激しくなる一方だが,祐佳は祐一にしがみついたまま動かない。
「………神楽坂………」
もう一度呼びかけてみる。
「………すー………」
それはもう,安らかな寝顔。
弱い街灯と月明かりの下,子供のように無邪気なそれは,祐一の肩からあっけなく力を抜いた。
「………………」
長い長いため息をついた祐一が,部屋の中にある可愛らしいベッドに祐佳を寝かせ,風邪を引かないようにありったけの毛布と布団をかぶせて,掛けた鍵を新聞入れから落として帰宅したのは,それから30分ほど後のことだった。
その夜,あらぬ妄想に悩まされる祐一が寝付いたのは,夜も白々と明ける頃であった。
何となく寝不足な翌日の午前中,祐一はぼーっと学館前のベンチに脚を投げ出し,無料のサーバーから入れてきた緑茶をすすり,授業の始まるまでの退屈な時間を無為に過ごしていた。
頭をよぎるのは,祐佳の唇とからだの柔らかさと温かさ,それと,ハッキリと聞き取ることの出来なかったあのときの言葉であった。
「………あいつが………まさか,なあ………」
打ち消そうとしても浮かんでくる,ハッキリとしたあの感触。もう頭を振るのもめんどくさいほどの徒労感,である。
「てりゃ!」
いきなり側頭に感じる軽い衝撃。
「あだっ!」
音の割には痛くない,その衝撃を感じる方向を向いてみると,そこにはいつもの元気そうな祐佳の姿。
「………かぐ………!」
「へへへー♪」
にこにこと嬉しそうな笑顔が,2限前の,朝日というには遅い光に照らされて眩しく輝いている。
「………昨日は,ありがとうね?」
照れたようにぺこり,とお辞儀をする祐佳。
「………寝冷えして風邪でも引いて熱でもあんのか?」
照れ隠しなのか,微妙な作り笑顔の祐一。上手く笑えているのかどうか,実のトコロ自信がない。
「なにそれー,ひっどーい!」
ころころと明るく笑う祐佳。
こういう,例えるなら今時分の晩春の陽光のような笑顔に,惹かれていることを打ち消すことの出来ない自分を感じる祐一。
「あ,いやヤケに素直なんで,つい………」
どうしても,前と全く同じ,な見方は,今は出来そうにない。
「どんな女だと思ってんのよー,もー!送ってもらったんだからお礼ぐらい言うわよー?」
口調こそ不満げながら,弾けるような笑顔はそのままな祐佳。
「あ………いや………ごめん」
「………ん。素直でよろしい!」
えへっ,と笑う。
「さ?もう時間無いよ?次の三浦は出欠取るからちゃんと出ないと駄目ー?」
よいしょ!とデイバッグを背負い直す。
「あ,ちょっと,かぐ………」
呼び止める祐一を振り返りもせず,教室へ続く渡り廊下へ駆けだしていく祐佳。
「………ま,いっか」
昨日の出来事について,確認じみたことをしてみようとした自分を,軽くイマシメてみる。
「調子コキ過ぎってのも,どーかと思うよ?相沢君♪」
祐佳の口調を真似てみる。
足元では握りつぶした紙コップに印刷された子供のイラストが,歪んだ笑顔を作っていた。
それは,いつもの風景。
それは,いつもの会話。
そして,いつもの,笑顔?
祐一は渡り廊下に祐佳の影を追いながら,ふと誰もいない横の広場を見渡してみる。
………風もだいぶ暖かい。
もうじき短い春も終わる。
移りゆく季節を飾るように舞い踊る遅咲きの桜の花びらが,視界を一面に覆い尽くしていた。
まだちょっと,講義が始まるまでには時間がある。
自らの思いの方向を確かめることに,さらなる徒労感を覚えた祐一は,所在なげに胸ポケットにタバコを求め,時間まで外気に身を晒すことを選ぶのだった。
授業前のざわめきで,102号教室の中は賑やかだった。
頼まれているわけではない。それでも自分の横のスペースにテキストとバインダを置いて,もうすぐ来るはずの背の高い,意地悪で,ぶっきらぼうな,でもときどき優しい同級生のために。
「………なにも終わってない,か………」
思い出す,温かな感触。
とてもあれ以上顔なんか見ていられるはずもない。
祐一の不用意な一言に引き金を引かれたとはいえ,思いの丈をありったけ込めたキスに体力と気力の全てを使い果たした祐佳は,寝たふりするしかない状況でしかなく。
律儀に自分をベッドに寝かせ,風邪引かないように布団を掛けて鍵まで閉めてってくれた祐一に,少しの感謝と少しの失望。
頬を染める祐佳は,頬杖を付いて窓の外の中庭を見やる。
「………でもまだ,なにも始まってさえいないんだ………」
祐佳は窓の外の渡り廊下に佇む祐一に視線を落としながら,まんざらでも無さそうだった祐一の,普段はほとんど見ることの出来ない,慌てふためく様子を思いだしてみる。
「………簡単になんて,諦めてやんないんだから………」
それは,聞こえるハズなんか無い祐一への宣言。
それは,聞いてるワケなんか無い彼女への宣戦。
春の日は何処までも優しくゆらめき,流れゆく雲を照らしていた。
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