「−いちばん最初に乗せてくれるって言ったじゃない?」


「…………………………………………………………」


−ソウデスネ。タシカニソウイイマシタ。


サイドのタンカラーのくたびれかけた本革のシートで,普段の彼女にも似合わない,フレアの裾をぎゅっと押さえて,ぷう,と頬を膨らませて拗ねる仕草。
ウッドのステアリングを片方の手だけで操り,少年は困ったふうに空いた手で頭を掻く。


ドコでボタンを掛け違えたのか,本日のプランは狂いっぱなし。クルマのウインドシールドは湿った風から二人を守ってくれている。でも,暗く沈んだ,鉛のようになってしまった空模様は,多分サイドの彼女のココロと一緒。


(………とりあえず,ヤネ出しといた方がいいかな?)


ちら,とバックの幌と低さを増した雨雲を気にしながら,心の中のため息とともに少年はそんなことを思うのだった。










Private Storm −香里さんの長い一日−










−数時間前。


「………遅いわね」


自分たちの住む北の街には梅雨,というモノがない。テレビを点けても6月のこの時期,天気予報は曖昧な曇り空やぼんやりした晴れの日が多い。今日のような,今にも雨が降り出しそうな感じの湿った曇り空はむしろ珍しい方といえた。

駅前。普段なら改札を抜けて大学のある別の街へと向かう電車に乗り込んでいる時間帯に,今日はロータリーのそばのコンクリの駅舎の壁際で,待ちぼうけをさせられているちょっとご機嫌ナナメな香里さん。


「自分から誘ったクセに」


腕時計を好まない彼女がトートから取り出したクラシックな懐中時計は,そのプレゼント主との約束の時間から30分以上経過したことを教えてくれる。


『あんまり高いモノじゃなくて,ゴメン』


春というには寒すぎる季節に,はにかんだ彼からキスと一緒に受け取った2つ目のバースデイプレゼントは,それから手放せない日常の一部。けれど,今このときは不安と焦燥を掻きたてるイライラの種。

あまりこういった待ち合わせで遅刻することのない彼だけに,気になって仕方のない香里であった。


『………………………………………………………留守番電話サービスセンターに接続します』


(ああもう!こんなときくらい携帯持っててくれたらいいのにっ!)


−どうせムダだと知りつつも,携帯に電話を入れてみて,聞き慣れすぎた自動音声。


一向にこの種のモノに興味を示さない,サマヨエル蒼い弾丸な彼にそれでも何とか鈴を付けたくて,懐中時計のお返しに携帯電話をプレゼントしてみたものの(当然使用料の口座名義は彼のもの),自分の携帯の着信履歴にその名前が表示されたのはそのときの一度っきり。あとは妹やら親友,両親とマチガイ電話くらいだった。

せっかく彼専用の着信音を設定してみても今のところついぞ聞く機会はない。

彼はけっして出てくれないワケじゃない。そもそも携帯を持ち歩かないのでお部屋で単なる固定電話と化しているのである。加えて基本的に電話をかけるという習慣そのものが欠落していると判断するしかない,ある意味天然記念物な彼に,香里はただただ苦笑するしかないのだった。


(それでもこんなときぐらい電話の一つでもよこしなさいよね!)


これってそんなにナイモノネダリかなあ,とひとりごちながら,香里はコンクリの駅舎にとん,と体をもたれかからせつつ,いまだ来ない待ち人の性癖について心の中でここにいない誰かに向かって愚痴ってみるのだった。










「うおーい,せんせのタマゴ♪明日ドライブ行こーぜドライブー♪♪どーらーいーぶー♪♪♪」


彼,−相沢祐一が気持ち悪いくらい上機嫌だった昨日の午後。

バイト代が出る日でもないはずなのに見るからに浮かれバカな祐一に,教育学部の学食の前のベンダーで紙のコップを取り出しながら,怪訝そうな顔で彼女,−美坂香里が答える。


「ナニ言ってんの,あなたクルマなんか持ってないでしょ?」


バイトを増やしたわけでもないのにいきなりつきあいの悪くなった恋人を問いつめて,


『実ハ免許取リニ行ッテマス。』


と,イタズラ敢行中を母親に見つかって叱られた子供のごとくバツの悪そうに白状させたのがつい先日のこと。決して教習所の授業料は安くはなく,自分が把握している祐一の懐具合も潤沢なものではないはずだった。


「………誰かから借りるの?」


こくん,と紙コップから淹れたてのホットミルクティを飲みながら,上目遣いに祐一を見つめるペイルブルーのワンピースにうっすらメイクのポニーテールな香里さん。

単純にデートのお誘いが嬉しいのか心なしか頬が赤い。

祐一は『うわやっぱスッゲエカワいい♪』というコトバをなんとか飲み込みつつ,エヘン,と長身を反らしてニカッと笑う。


「へっへーん。実はクルマ買っちゃったよん。………って,おりょ?」


Vサインでも出しそうな勢いの祐一に,香里は軽く眉間を押さえて目を伏せる。『目眩がしたわよこのバカ』とでも言いたげに。


「……あなたね。こないだ貸してあげたお金まだ返してもらってないのよ?ビンボーなのは分かってるけど,どしてそんなに考え無しかしら?もちょっと計画的にお金使いなさい!ってあれほど言ってるわよね?だいたいあなたは………」


「あー分かった分かった注意する!今度から無駄遣いシマセンだからゴメンナサイ!」


句読点ナシのお説教モードに突入しかける香里をとりあえず謝って制しつつ,それでも笑顔を崩さない祐一。どう見ても反省の色,無し。

でも心の底から嬉しそうな祐一を見ていると,何だか自分がバカらしくなってくる香里でもあった。


「な,だからどっか行こーぜ?明日はドライブ日和だぞ?もうキモチ日本縦断でもしちゃえそうなぐらいだ!なんかおベントとか作っちゃってさ………」


「………盛り上がってるトコ悪いけど明日予報では昼から雨よ?」


「だーいじょうぶノープロノープロ!雨なんかに追いつかれやしないってばさ。だから,な?」


あまりの脳天気さに盛大にため息をつきながら祐一を見る香里。祐一の目はダダっ子モードのそれだ。

出来の悪い子を持った母親のように,心の中でもう一度盛大にため息をついて。


「………わかったわ。だけど,お昼はあなたのオゴりよ?明日はレポート上げる予定だったんだから」


「………ぐあ,オゴリ?」


わかりやすくヘコむ祐一を見て,心の中で小さくガッツポーズの香里さん。


「………当然よ,オカネモチなんでしょ?今」


にこにこと笑いながら残りのミルクティに口を付ける。


「うっわー。ボク,バイト代入るのまだ先なんだけどなー…」


それでもドライブ確定についついゆるんじゃう頬。祐一はいじけたフリをやめて今日だけのダラシナイ笑顔に戻る。


「ま,いっか!それじゃ俺,クルマ取りに行ってくるよ。………,あ,そうそう,ハジメテのサイドはお姫様のために空けさせていただいておりますので」


仰々しく助手席のドアを開ける仕草を真似る祐一。あまつさえご丁寧に片膝までついている。


「はいはい,それじゃあんまりはしゃいで事故なんか起こしちゃダメよ?まだあたしに借金残ってんだからね?」


ぺしっと軽く祐一の頭をはたきつつ,残ったミルクティを飲み干す香里。

祐一は,よっ!と跳ねるように立ち上がる。


「うし!そんじゃ駅前に9時でいっか?」


瞳をのぞき込むように顔を近づける。後ろからちょっと押されたらキスなどしてしまいそうな距離。


「りょーしょー」


親友の母の口癖を真似つつ,おどけて敬礼のような仕草で微笑む香里。


(おし,ご機嫌リカバー成功。)


祐一は満足げにウン,とうなずく。


「じゃあな〜っ!遅れんじゃねーぞ〜っ!」


「それはあなたでしょっ!」


弾けるような笑顔を翻し,あっという間に裏門の方へ駈けてゆく祐一。あまりの素早さに,一瞬あっけにとられてしまう。


「………ばーか」


本当に嬉しそうな祐一を見送りながら,口を衝いて出る悪態とは裏腹に,くすっ,と微笑んで,退屈なはずの講義に出席する足取りも軽い香里の金曜の午後だった。










「………事故とか………じゃ,ないわよね?」


そんなやりとりを思い出しつつさらに時間が経過し,あらゆる思考のベクトルが負の方向に集まりだした頃,青に変わった信号を小柄な緑色の車が駅前のロータリーに滑り込んでくる。

つ,と香里の背が街路樹の影の駅舎から離れる。

一見して屋根のないその車の運転席には,柄にもなくサングラスなどかけているが,ドコにいようが見間違えようのない男の姿があった。


「悪ィ!香里!」


あたふたとドアを開けパークスポットから飛び出してくる祐一に,香里は無表情でゆっくりと歩み寄る。


「あの,渋滞につかまっちゃって………さ………?」


冷たい汗を背中に感じつつ,歩速を緩めながら固まった表情の香里を上目遣いに申し訳なさげな目で見つめる祐一。対照的につかつかとスピードを上げて近づいてくる香里。抱えたトートとバスケから,右手が離れる。


『殺られる』と反射的に目をつぶる祐一。


びよん。


………予想外に感じるのは柔らかい香里の手に引っ張られる自分のほっぺた。


「ホラ,やっぱり遅れた」


「……………?」


「もう,遅刻確定なのが分かってるならせめて電話ぐらいしてよね?」


いつものノリなら平手打ちにマシンガン苦情な感じなのだが,予想に反して微妙な笑顔の香里。

2.3回びよびよとほっぺたを引っ張られてから手が離れる。何か言いたげな瞳を翻してクルマに向かって歩き出す香里を,祐一はあわてて追いかける。


「………ナニよ?」


すぐに追いついてくる祐一の,顔色を窺うような視線を感じ,目線を合わせずに問い返す香里。


「ひょっとして,心配させちゃったか?………」


身長差のせいで,見下ろす格好のこのアングルからは,香里の表情はよく分からない。


「………そう思うならもっと違うことに気を遣って欲しいものだわね。………このみどりいろが,そう?」


パークスポットの祐一の車の前まで来ると,確認するように言う。


「………ブリティッシュレーシンググリーンっていうんだ正確には」


祐一は苦笑しながらも嬉しそうに,香里のために助手席のドアを開ける。


「あらありがとう。気が利くわね?」


貼り付けたような笑顔で助手席にちょこんと座り,バスケットとトートを抱えながらシートベルトを付ける香里。


「いえいえ,姫様のためでしたら」


くるっと身を翻し,自らも運転席に収まると,香里がベルトを付け終わったのを確認しウインカーを右に出す。


「んでも弁当,作ってきてくれたんだな?サンキュー♪なんだかんだ言って優しいなあ香里は♪」


香里の抱え込んだバスケットにちら,と視線を落としながら,努めて,アカるく。


「………晩ゴハンとか遊び場とか,今日のおサイフは全部祐一だからね?」


「……………」


全く表情を変えずに香里さん。


(………怒ってマスカ?怒ってますネ)


祐一は今日何度目かのため息を心の中ではき出して,あまり広いとは言えないロータリーを,出口に向かってアクセルをゆっくりと踏み込むのだった。










ものみの丘の麓にある駐車場から,そう遠くない木蓮の下で食べる香里の手作りのお弁当は,ロケーションとか贔屓目とかを考慮しなくても満足のいくデキだった。

とても幸せそうにソレをぱくつく祐一の表情は,おカンムリな香里を幾分かは和らげるのに充分なものだった。


「………ところであのクルマ,『買った』って言ったわよね?」


小さなステンレスのボトルから,薄く淹れた紅茶を祐一に手渡しながら香里が尋ねる。


「うん?」


ひざまくらをナチュラルに拒否されたのはまだまだ姫のご機嫌に角度がついたままだからだろうか。それでも寝ころびながら,満足げに祐一。


「新車じゃないってのはワカるけど,そんな安くないんでしょ?………いくらしたの?」


祐一の金銭感覚は実のところそれほど麻痺したものではない。

問題なのはむしろバランスであって,日常生活を送っていくぶんにはもうちょっと食事とかそういったところに比重があってもいいように思う香里である。

せっかくバイトで稼いだお金も,タバコ(やめるか,さもなくば本数を減らすか,せめてもっと軽いモノに出来ないかとかことあるごとに言っているのだが)とお酒と自分とのデート代とかに消えていってしまう。

身ぎれいにはしているものの,付き合いだした頃に比べてキモチどころか痩せてしまい,相変わらず笑顔なのはいいけれど血色がいい方が珍しいくらいの祐一は,最近の香里の頭痛の種の一つ。

たまに見かねて食事などを作りにいく祐一の部屋で見るものは,空いているのを見たことのないいくつかの灰皿と,部屋の隅に転がるシーバスの空き瓶。喜んでくれてるんだろうけど,基本的には何食か浮いたぐらいにしか考えていないであろう祐一を見るたびに,いろいろと心配になってしまう香里だった。


「…………聞きたい?」


「…………すっごく」










祐一と香里を乗せたクルマは,ものみの丘から遠く山際を滑るように走り抜ける。

祐一の運転は経験に比して上手いほうと言えた。意図せずに同乗者を不安にさせることがないのは褒めたっていい。にもかかわらず香里をひたすら不安にさせるのは全く別の原因であった。


「−ね,あまり遠出はやめた方がいいんじゃない?」


どんどん街から遠ざかるイキオイの祐一に香里が口を開く。


「なんで?門限までまだまだ時間はあるだろ?」


「………そーじゃなくて,にまんごせんえんのクルマなんていくら何でも怪しいじゃないの!こんな周りになにもないとこで故障なんかされちゃったらどうすればいいのよ?!」


下手に見た目が小綺麗なだけに,余計に怪しいロープライス。


「車検や名義変更手数料なんかはクルマ代に入ってないってば」


「………そーゆう問題でもないでしょ」


「大丈夫だって。別にドコもおかしくないし」


「ドコの誰が乗ってたかわかんないクルマでしょ?事故車かもしれないじゃない!」


「………むう」


………内装などにそれなりの年季を感じるものの,挙動不審な動きのないご機嫌上々の我が愛車にケチをつけられ,今度は祐一がちょっと不満げ。

黙りこくってしまった祐一に,言い過ぎなのか持論の主張を続けるべきなのか判断つきかね,やっぱり無言の香里。オープントップな車内といえど,気まずい空気は停滞中。

沈黙に耐えかねたのかどうかは知らない。祐一はタバコを取り出し火を付ける。1/3ほど灰にしたところで,無言のまま灰皿を引き出す香里さん。


「………………!」


−機嫌の悪いときは,些細なことがカンに障ることはよくある。

でも,ご機嫌なときだってこれはいい気持ちはしないだろう。


「祐一…………」


氷点下の声が助手席から聞こえる。


「ナニよコレ…………?」


そこには,数本の吸い殻に混じって一本だけ,


(……………げっ…………!)


鮮やかなパステルカラーの付いたソレが混じっていた。


(…………くそっ,あの疫病神っ…………!)




















…………今日の朝。

久しぶりに例のやる気に欠けた目覚ましに起こされ,やる気を入れてクルマで飛びだした祐一の下宿する安アパートから数えて3つ目の通りへの曲がり角。

トートを抱えた小柄な少女がひとり,前からてくてくと歩いてくる。


「………げ」


それは,祐一の同じ学科の,同じゼミの女のコだった。

くるくるとよく動く快活で愛らしい大きな瞳が印象的な,ショートの黒髪にチェックの細いリボンのワンポイント。淡色のブラウス,ジャケットににタイトなデニムのミニとニーソックスのスポーティなスレンダー。

センパイなどに言わせると「うちの学部のイチオシクラス」。………しかし,今の祐一にとっては,出来ればこのタイミングで最も会いたくないヤツでもあった。


祐一はあわてて胸ポケットのサングラスを取り出し,顔を隠し頑なに他人を装い視線を合わせないように通り過ぎようとする。

出来たらアクセルも全開にしたいところだがなにぶん住宅街で曲がり角も多い。


「あーいーざーわーくーん!」


それでも少女はクルマの運転席の祐一に気づいたのか,ぶんぶんと腕を振っている。


「………相沢くーん,シカトはひどいよ傷ついたよー?」


………大失敗。クルマを止め,恐る恐る視線を少女の方に移すと,少女は小首を傾げながら祐一を見つめている。

傷ついたー,という割にはにこにこと嬉しそうな笑顔。


(−コレだ。コノ笑顔がクセモノなんだ!だまされるな俺!がんばれ俺!折れるな俺の心!)


そう。たしかにこいつはかわいい。だまってニコニコ微笑んでれば大概の野郎は何でも言いなりになってくれるのだろう。

しかしナニかと自分にカラみ,いちどスイッチが入ったときの暴走特急ぶりは自らとタメを張る,いや下手すると完封されかねないほどのこの少女のことが,祐一はとても苦手だった。


「何だ何か用か?もっとも用があったとしても俺はこれから可及的速やかに遂行しなければならない任務があるによってコレにて御免」


祐一が棒読みで再びアクセルをゆっくりと踏もうとすると,少女はクルマの前に出て通せんぼをするようなカッコで,まじまじと祐一とクルマを観察する。

アセる祐一をものともしない,のんびりなその様子はかつての下宿先の従妹の少女をほんの少しだけ思い出させる。


「………へー,これが相沢君のクルマなんだー」


緑色の中型のツーシーター。ソフトトップのオープンカー。

それなりに中古なのが見て取れるが,車体はぴかぴかに磨き上げられていて,持ち主の気合いとか思い入れとかそういったモノをうかがい知ることが出来る。


「そこをどいていただけると非常にありがたいのですが」


瞳を伏せたまま答える祐一だったが,少女はふんふん,と物珍しそうにリトラクタブルライトの溝をいじったりエンブレムを指でなぞったりしている。


「ふふ♪」


おもむろに顔を上げるとぱっと微笑んで。


「………ちょーどよかった!今日,今からサークルの練習なの。学校まで乗っけてってよ?」


(マッタクキイチャイネエヨブラザー。オモイッキリアクセルフミコンダロカコノヤロウ)


−イタズラっぽく笑った彼女は,ドアも開けずに。


「あ,コラちょっと待て,俺はこれから大事な用事がってオイ!」


「へへへ♪」


ソフトトップのたたまれた,オープンな車体をひらりと舞った少女の小柄な体は,すとん,とそのまま助手席におさまる。


「て,てめえ………」


「へへー♪さ,行こ?行こ行こ行こー!」


シートベルトを締めながら大はしゃぎの少女。対照的に面白いほどにしおしおな祐一。


「誰がオッケーって言ったよ〜?!」


カンベンしてくれよ,と思いっきり表情に貼り付けて祐一。


「えー?!こんな美少女が助手席にいるのよ?しかもオープンのツーシーターよ?フツーは『ラッキーだ♪』ってもっと喜んだってイイくらいよ?」


信じらんない,といった感じで,驚いたように少女。


「だからって自分でゆうかソレを。いいから降りろ速やかにとっととぱっぱと!」


一応否定はせずにめんどくさそうに手を払いながら祐一。


「………なによお。割のいいバイトも紹介してあげたしレポートも手伝ってあげたしノートだっていっつも見せてあげてるんだよ?コレぐらいのサービス,バチあたんないと思うよー?せめてこの前の夜ぐらいむぎゅ」


拗ねたような眼で自らの祐一に対する貢献を列挙し,かつ何事かを告発しようとする少女の唇を掌でふさぎながら,はあ,とため息の祐一。


今の,もとい,オールタイム,この少女をコトバで屈服させることは祐一にはできそうにはなかった。


「………分かった。正門前でいいのな?」


「ありがと。だから相沢君好きー♪」


この場の勝利を祐一からもぎ取った少女は,弾けるように笑い,じゃれるように祐一にしがみついてヨロコビを表現する。


「だーっ!だから腕を取んな腕を!シフトが動かん!」


(あい,されんだー)


心の底からイヤそうに,祐一はウインカーを右に出してポケットのタバコを取り出し火を付ける。


「……ったく,俺すんげー急いでんのに………」


ホイルスピン手前な勢いでアクセルを入れられ,急発進する祐一の車。きゅ,っと座席に押しつけられた少女は,祐一のオトナゲない態度に非難の声を上げる。


「あ,ひっどーい!横にあたしが乗ってんのよー?あの夜みたくもっといたわるように優しくソフトなの希望ー!!」


「だー−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−っ!」


祐一は何かから逃げるようにわめきつつ,大学への道をひた走るのだった。


「………あんま人前で誤解を招くよーなコトゆうなよ?」


あからさまに不機嫌な様子を隠そうともしない祐一。

運転中ということもあるが決して少女と視線を合わせることはしない。


「………事実じゃん」


豊かなキャンパスライフってやつを過ごす上で,確かに祐一は多くの部分をこの少女に助けられていて,そのことについては素直じゃないながら感謝らしきものはしている。

本来のカノジョさんは学部も学科も違う上に家庭教師以外のバイトを知らない。できるだけ学業以外に邁進したい祐一にとっては,不本意ながらもコッチ方面に強力な,学科内ではワンアンドオンリーな知り合いのこの少女に頼ることにならざるを得ない。

もっとも,女性関係についてそういった節操だけは持っているつもりらしい祐一は,『別性の親しい友人』以上のスタンスで少女に対して接することはなかったが。

この間の晩も,短期集中のバイトがハネて,慣れないアルコールに足下のおぼつかない少女を,こういうときだけジェントルな祐一が駅から遠めの少女の部屋まできっちりおぶって送っていったのだった。

それはいいのだが,ここまで執拗にネタにされるのは想像の範疇外だった−イヤ違う。それも密かに危惧してたことではあった。少なくとも祐一にとっては。


(………くっ,ヘタに仏心を出したのは大失敗だっかか?)


そんな祐一の普段からの感謝の念とかフェミニズムとかのアラワレとはまた別なところで。

思っていたより遙かに逞しく,温かいその背中と,そのときのとても優しかった祐一を,少女は忘れることが出来ないでいた。


(こんなつもりじゃ,なかったのにな………)


両手を伸ばして膝を抱え込むように座りながら,少女はちらちらと祐一の横顔を盗み見る。

どう見ても,あんまりご機嫌良さそうには見えない。


「ふー…………,」


気持ちを落ち着かせるためなのか,何本目かのタバコに火を点ける祐一。学校までは,まだしばらくかかる。


「吸…い…す…ぎ?」


少女は,ぷ,と祐一の口から吸いかけのluckystrikeを抜き取り自分の唇にくわえておもむろにすう,と吸い込む。


「あ,コラなにすんだテメエ!」


「けほっ,けほっ!よくこんなんおいしそーに吸えるわけほっ!けほんっ………!」


少女は盛大にむせかえり,目に涙を浮かべながら祐一の方をにらみつける。祐一は呆れ顔ながら視線は前から反らさない。


「じゃあ吸うなよバカ」


「う゛ー………」


誰がどう見ても,っていうレベルだと思う。少女にははっきりと自覚もある。

−俗に言う「一目惚れ」というやつだったんだろう。

学科のガイダンスではじめて出逢った祐一と,授業でバイトでイベントで。

「カノジョがいる」と聞かされて,結構ヘビーな衝撃を受けて。

それでもなんやかやと一緒にいることが多くて。
 
『スタイルも頭も面倒見も良くて,明るく美人でカワイイよ♪』祐一から聞かされるカノジョのノロケ。

実際に,何度も会ってホントにもう,イヤというほどソノトオリ。かてて加えて『高校から』のアドバンテージ。

そんなカノジョの彼な祐一を,それでも諦めきれないコイゴコロ。


(たぶんいまから,このくるまで,あのコとデート,なんだろうなあ………)


−告白なんて,どのツラ下げて。

アイシテルなんて,口裂けても言えない。

そばにいるのに会話レスなんて心がどーにかなっちゃいそう。

だからいつも,コッチのペースに巻き込んで,ムリヤリな照れ隠しのオトメゴコロ。

あの日,アパートの自分の部屋の前で,おんぶされた背中ごしに,レモンサワー10杯分のチカラを目一杯借りて無理矢理奪った祐一の唇は,誰にも言えない少女のファーストキスだった。


(せっかく今日,どこかに一緒に遊びに行こうと思ってたのに………)


トートの中の,早起きして作ったサンドイッチのボックスを眺めながら,小さな作戦の失敗を悔やむ。


(約束,してなかったもんね………。もうちょこっとだけ,ガッコが遠かったら良かったのに………)


そうこうしているうちに見えてくる大学の教養部正門。


「うおーい,着いたぞー,はいキリキリ降りるー!」


「………降りるー」


うん,と伸びをしてシートベルトを外し,ちょこんと足をそろえて車から降りる少女。

祐一はドアが閉まるのを確認するとウインカーを外に向ける。サイドブレーキを外して,ドアの向こうに一言声をかける。


「ホント急ぐから,もう行くかんな?………ってあれ?」


視線を上げると,もう少女はそこには居なかった。


(くっそー,相変わらずマイペースなヤツ。今度昼バイト2.3回代わらせちゃろ)


疾風のような素早いバックレに,祐一はささやかな報復を心に誓うのだった。


(ま,いっか,それより急ご!)


頭からツノの生えた姿が想像に難くない,香里の怒った顔を出来るだけ脳内にビジュアル化させないように気を付けながら祐一は発車のため右サイドのミラーを確認する。

−そのとき。

………ちゅっ。

頬に当たる,柔らかい感触。

祐一が思わず振り向いたその先には,いつもと変わらぬイタズラっぽい笑みをたたえた瞳の,でも,ちょっと照れるように顔を赤らめた少女の笑顔。


「乗せてってくれたお礼よ。お…れ…い!」


くるっ,と振り返った小さな影は,跳ねるようにもうガッコの敷地の中。


「あ,て,てめ………!」


恥ずかしいやら驚いたやらでプチパニックな祐一は,まだ感触の残る頬を押さえて一人毒づいてみる。

-ああ,またそっちのペースかい!

………でもそれは,全てをからかわれていることにして片付けようとする,無自覚な祐一の深い罪でもあった。


「カノジョには黙っててあげるからね〜!いろんな意味で感謝しなさいよ〜?!」




















別れ際のコトバがついさっきのことのように耳にリフレインの祐一。


「………何か誤解してるか知らんがコレは違うぞ?」


背中に盛大に冷たい汗を流す祐一。上空の雨雲と香里の声のトーンは,見る見るうちに急降下。


「……………………………………………………………何がどう,どういうふうに違うのかしら?」


視線は一点固定。見事なくらい鮮やかなリップの色の,祐一の銘柄のタバコのフィルター。


(………あう………)


まずいまずいまずいまずい。非常にマズい。明らかに動揺の色を隠せない祐一。


「………確かに,門限まではまだまだたっぷり時間あるわよ」


あからさまに焦る祐一を視線に捉え,努めて冷静を保とうとする香里。しかし,瞬間沸騰した感情を理性でねじ伏せることはなかなかに難しい。「たっぷり」を強調してとりあえず徹底抗戦を選択する。


(−待っててあげるから,上手に言い訳を考えなさいよ?ヘタを打ったら泣いて謝っても許してあげないんだから!)


そこだけは言葉に乗せずに,香里は隠しきれない,ぶんむくれた顔を祐一に見せないように,窓の外に視線を移す。あまり考えたくなかったこのバカタレの遅れた理由は,


(よりにもよってオンナがらみ?)


−昨日アレから電話してない。

講義が終わって電車に乗って商店街に直行,祐一好みのメニューをあれこれ考えお買い物。

下ごしらえを済ませた後は,妹の部屋の地元情報誌で車で行けるデートスポットの物色を浮かれ気分ではじめる始末。

うっかり就寝時間をオーバータイム。あわててセットした目覚ましを一時間間違えて,おべんとのデコレーションに必要以上に気合いと愛情を込めて,それでもずいぶんと早く待ち合わせ場所に着いちゃったっていうのに。

それなのに。


「………バッカみたいじゃないの,もう!」


突然の香里の声に,ビクっと反応する祐一。


(うわあん。無実!俺無実!事実無根!不可抗力,そう,不可抗力なんだようかおりん!ボク悪いんじゃないよ?ホントだよ信じてよ!!)


事実をありのまま話したところで(一部ヘタに話すとエラいことに)火に油を注ぐだけのような気がするので,心の中で絶叫する祐一。


「…………なんとか言いなさいよ?」


(あうあうあうあうあうあうあうあう…………)


明らかに何かを隠しているふうな祐一。それ故に原因は香里にとって最大の頭痛の種,という結論に行き着くのは,スゴく簡単。

高校の時のアキラメの悪い同級生から,いつか自分の紹介してあげた家庭教師の女の子のお母さんまで祐一に色目を使う(と,香里は思っている)心当たりは両手に余る。いくつかの山あり谷あり,修羅場ラバンバをくぐり抜け,どうにか続くこの関係は。


「………あのコ,タバコ吸うの?」


「イヤだからソレはあいつのいつものイタズラって………はっ!」


しまった!と口をつぐむ祐一。焦っているのが面白いように分かる。


「……………あいつ,ねぇ……………」


(あうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあうあう……………)


嫌な汗は背中で滝を作る。自分の迂闊さにあきれて言葉もでねぇよママン。


「………朝までずっと一緒だったのかしら?」


香里の声の温度は,もう,限りなく絶対零度に近い。


ショートのストレートな黒髪の,スレンダーな祐一と同じゼミのとてもカワイイ女のコ。

初めて祐一に紹介された日,一瞬曇った少女の瞳を香里が見逃すはずもない。

四六時中祐一と一緒に居ることの出来ない香里は,虫除けと祐一のマトモな卒業(すなわち自分のライフプラン)のために,当たり障りのない牽制を十重二十重に掛けつつも,ある程度は少女の「妄動」を見逃してきた。

高校までこの種の経験がなかった割にはナチュラルに計算をした香里さんだった。

しかしそれも,祐一の心が自分の方を向いているという前提が壊れてしまえば元も子もない。

自分の思いが通じたことを確信して以来最強の敵の出現に,特に決まった相手のいなかった頃の祐一のふらふらっぷりと,話を聞く限り一段と苛烈さを増したアプローチを思うにつけ,香里の心のアラートは大きくなる一方なのであった。


「違う!ぐーぜん家のそばであってムリヤリガッコまで送らされただけなんだってば!」


「………あのコの家,全然違うトコでしょ?どうやったら朝偶然祐一の部屋の近くで会うのよ?」


(うわ,そう言えば確かにその通り!)


ホントのこと言ってるのに大ピンチの祐一。詳細なライバルデータに基づく香里の追求は容赦がない。


「………あのな,俺少なくともこーゆうときに嘘つかないの知ってるだろ?」


香里の言葉にも仕草にも表情にも負の感情があふれまくっている。こうなった香里を何か言葉でなだめる手段を持たない,それでもこういうことの誤解だけはされたくない祐一。


「…………じゃあ,最初っからそう言えばいいじゃないの!それに今ひとつ嘘付いたわよ?」


(………ああ,もう自分でも止められない。そんなつもりじゃないことぐらいは,分かってる。分かってるのよ,分かってるのに!)


「−いちばん最初に乗せてくれるって言ったじゃない?」


語尾は,涙声。


「……………あう…………」










今にも降り出しそうな,低くたれ込める雨雲。クルマは滑るように快調に平野の縁を進んでいく。


「……………………………………………………………」


「……………………………………………………………」


沈黙が重たい。

むくれた顔を見せたくないのか,香里はあれから窓の外を眺めている。

祐一もどう話しかけていいか分からず,ただただ言葉を探し続ける無言の車内だった。


「……………降ろして。……………帰る!」


あれから十分も経ってないはずなのに,もう何時間も経過したように祐一が思い始めた頃香里が突然口を開く。


「降ろせっておまえ………」


「降りる!降りるの!早くクルマとめてっ!」


まるでだだっ子のように,祐一をにらみつけて助手席でわめき立てる香里。

暴れ出さんばかりの勢いに祐一はアクセルを緩め,香里をなだめようとする。


「危ない!危ないって!こんなトコで降りても街までどーやって…………どわっ!」


香里は突然サイドブレーキに手を掛け,思いっきり引いてクルマを止めようとする。


「くっ!」


「きゃああああっ!」


クルマのリアが滑る。祐一は香里を制止しようと左の手で香里の右手を掴むと同時にブレーキを踏み,ステアを細かく操り,何とかクルマを制御する。

スピードが落ちていたせいもあってか,クルマは何とかスピンにはいることなく,横向きにではあるが路肩に止まる。


「バカなことすんなっ!」


祐一は反射的に怒鳴っていた。真剣な瞳の祐一に,香里は一瞬,びっくりしたように目を大きく見開いた後,表情を大きく崩してシートにうずくまる。


「うっ………………,くっ……………えぐっ………,ぐすんっ………」


フレアの裾をぎゅっと握り,ぐすぐすと泣き出す香里。


「……………」


怒鳴ってしまったことに少しだけ後悔を覚えつつ,祐一はシートベルトを外すと,香里を慰めようと抱き寄せる。


「…………………っ!」


「香里…………?」


香里は肩に伸びる祐一の手をばしっ,と払いのける。俯いたまま視線を合わそうとせず,ただ泣き続ける。


「……………香里……………」


祐一は強引に香里の両肩を掴むと,自分の方を向ける。かぶりを振って嫌々をする香里だったが,祐一の腕の力に止められシートを挟んで向き合う格好になる。


「……………な………によ………,なによ…………,なによなによ!………」


泣き顔のままの香里は,祐一と目が合うと涙声で口を開いた。


「……………ひとの気も知らないで!………………久しぶりだったから………………ホントに久しぶりのデートだからすごく楽しみにしてたのよ?………………それなのに…………………」


「…………………………………」


「…………すごく,すごく心配したのよ?………………来ないから………。来ないから,連絡ないから電話したのに出てくれないし………………。何か事故にでもあったんじゃないかって,あたし………………………………………」


「…………………………………」


「…………それなのに,ほかのコと一緒だったなんて……………。あのコのほうがあたしとの約束よりも大事だなんて…………」


祐一の表情は硬い。無言で,真剣な瞳の祐一が,自分の一番聞きたくない言葉を口にしてしまう前に。


「そんなにあのコの方がいいんなら…………………いいんなら……………」


そこから,香里の言葉の続きは出てこなかった。いや,出せなかった。


「…………んっ?!…………んぐっ!」


「………………………………………」


祐一は,香里のからだを引き寄せ,自分の唇を強引に香里のそれに押しつけた。


「ん〜!…………  ……ん〜っ!!」


「……………………………………っ!」


香里は,反射的に自分の唇に合わされた祐一の唇に噛みついていた。二人の口内に,祐一の血の味がじんわりと広がる。

5秒…………10秒………。時間がすごくスローに感じられる。


「……………!」


自分と祐一の唾液と,血液の混じった口内の感覚に自分が何をしているのかにようやく気づいた香里は,噛んでいた祐一の唇を離し,手当をしようと顔をどけようとする。

しかし,祐一は逃れることを許さない。少し顔を引いた香里の唇に,角度を変えて,奪うようにキスを続ける。

片手を香里の頭の後ろに,もう片腕を腰の後ろに回し,覆い被さるように体全体で。


「………………………………………!」


「………………………………………」


「……………………………………ん…………………………………………」


抱きしめられる祐一の腕の強さと,服や唇を通してからだ全体に感じるその体温に,香里のこわばったからだはいつしか溶けて,その腕は祐一の体を遠慮がちに抱きしめていた。

ふ,と唇が離れようとすると,香里は自ら付けた傷を愛おしむように,逆にその距離を無くして続きを求める。










ぽつん,と雫を頬に感じた。祐一が長い長い口づけを終えて,名残惜しげに顔を離す。

香里の髪を愛おしげに一撫ですると,こつん,と香里の額を小突き体をどける。


「………………………………」


祐一の口元に薄く染まる血痕を申し訳なさげに見つめる香里。その瞳は,気弱げで,真っ赤なまま。


「風邪ひかれても,困る」


祐一はそう言って,ぶっきらぼうにジャケットを香里にふわ,と放り投げ,車を降りるとソフトトップのキャンバスを引き上げ,屋根を出す準備にかかる。

香里は,ただ黙って祐一のジャケットを抱きしめてその作業をずっと見守っていた。










「……………………………………………」


「……………………………………………」

くたびれたキャンバスで覆われた車内は,沈黙に支配されていた。ただ,先程までのように重苦しくもなく,手放しで楽しめるほど軽くもない微妙な静けさ。

祐一はただ山際に向け,車を走らせる。何処に向かっているかなんて,香里には分からなかった。


「……………………………………………」


あの後,特に何もしゃべる様子のない祐一を,香里はなんとなくみつめている。


(…………………キラわれちゃったかなあ…………………)


それでも,思い出すのはキスの長さと,祐一の体温。


(………じゃあ………どうして?)


香里の視線は祐一の輪郭をなぞっていく。唇のあたりで,それがいったん止まる。


(………けっこう深く……………切れてるんだ………)


祐一の唇の左側。ただでさえ暗い空に光線の加減でよく分からないが,そこだけ弱い光が窪んで見える。
………幸い強い雨もそう長くは続かず,雲の色は重さを減らし,続く雲海はところどころ途切れ始めてさえいる。


(……………ごめんね……………)


「………………香里……………?」


−不意に,祐一が口を開く。


ぼんやりとしていた香里は,祐一の呼びかけに遅れて気づく。


「……………え,…………あ…………な,なに?」


「………おまえの門限って,たしか10時だよな?」


確認するような祐一の声。


「あ……………う,うん…………」


「ちょっと,見せたいものがあるんだ。何とか間に合うようにするから,とばすぞ?」


祐一は,あいかわらずこっちの方を見てくれない。でも,それはもう,いたずらっ子のような,香里の最も愛しく思う,祐一のあの声のトーン。


「あ…………,ちょ,ちょっと…………………!」


急加速するクルマに,香里はあわててまだ雨で湿り気の残るトートをぎゅっと抱きしめる。


「………………………………………♪」


「危ないじゃないの………!………も,………もう!!」


おかしそうに口元でフッと笑う祐一に,少しだけ安心したのか,照れたような,困ったような微妙な表情の香里だった。

二人を乗せたクルマは,うっすらと射し始めた西日の方へ向かって速度を上げた。










雑な運転ではなかったが,祐一のヒルクライムは香里の寿命を少しばかり縮める効果があったようだ。祐一が目的の場所に着く頃には,香里の瞳はまた潤んでいた。

悲しいときに流す涙と,そうでないときの涙は成分が違う,という話をむかしどこかで聞いたことがある。とりあえず今のそれは前者でないことが,お互いにとって喜ぶべきことなんだろう。


「香里,着いたぞ,ホラ。いい加減顔上げろよ?」


ずっと顔を手で覆い,暗闇の中で揺さぶられる感覚から解放されてもまだ顔を伏せたままの香里を,祐一は困ったように肩を揺する。


ぺしっ。


「あたっ!」


香里はそんな祐一の手を軽くはたく。


「………もう,すっごいこわかったのよ?横にあたしが乗ってるんだからもうちょっと気を遣って運転してよね?」


目を真っ赤にしたまま,拗ねるように祐一を睨む香里。祐一にはそれが最高に可愛らしく,とても愛おしく思えた。


「………………ぷ,………はは,はははははは!!」


不意に笑いがこみ上げてくる。


「なによ?なにがおかしいのよ?」


ワケも分からず,弾けるように笑い続ける祐一にむくれる香里さん。


「…………………いや,なん…………………なんでもない!………はは,はははははは!」


相変わらず,笑い転げる祐一に,そろそろ香里の機嫌が急降下し始めようとする頃だった。


「もう,ひど…………い…………?」


香里の言葉が途切れる。自分の後ろに固まる視線に,祐一は最後の最後に自分の計画が成功したことを確信した。


「……………せっかくだから,降りて見ようぜ?」


にやりと笑う祐一の表情は逆光でよく見えない。

香里は祐一に促されるまま,クルマのドアを開く。

祐一もあわせて,クルマから降りる。










「………………………………わあ…………………………………」


息をのむような光景というのは,そうそう滅多にみれるもんじゃない。でも,視界いっぱいに広がるそれは,おそらく今までに見たどんなものよりも視覚的,感覚的に香里を圧倒した。

連山の遙かに遠く,とぎれとぎれにみえる海。

雨の滴で洗い流された山中の清涼な大気に,切れた雲海を身に纏い,沈みゆく巨大な太陽。
   
見つめているとその中に溶かされてしまいそうな,幻想的な光彩。

言葉で表現するには,あまりにも荘厳で美しい。
   
どー言う手段を使ったところで,この大気の香りと吸い込まれるような感覚までは残すことは出来そうにない。

出来うるなら今このとき,この場所を永遠に切り取って心の中に持っていたい,そんな風景。


「………………………!」


傍らに立つ祐一の,ジャケットの裾にしがみつきながらただ立ちつくすしかない香里。

祐一は,そんな香里の肩を優しく抱き寄せる。

香里は頭一つ自分より背の高い祐一に身を預けて沈みゆく夕日を見つめている。


「……………来て,良かったろ?」


無言のままの香里。


「免許取って,クルマ手に入れたら,真っ先にここに来ようって決めてたんだ」


祐一の腰に手を回す香里。胸に頬を寄せ,ただ祐一の言葉を黙って聞き続ける。


「…………………香里と,ふたりで」


夕日を眩しそうに眺める祐一は,照れを押し隠すのに若干の勇気が必要だった。


「………………………………………」


香里にはそのことばだけで充分だった。

ゆっくりと祐一を抱きしめ,胸の中に顔を埋める。

なにもかも。………すべてが満たされていくようなこの感覚。


「………………香里………………」










ただゆっくりと時間は流れ,闇がじんわりとあたりを覆い始める頃。

祐一は優しく香里の肩に手を回し,そっと自分の体から遠ざけ,車に乗るよう促す。

一瞬名残惜しそうな表情を覗かせた後,香里は微笑んで祐一に従い,クルマの助手席へ身を滑らせた。


「ね,祐一?」


シートベルトをつけながら,香里が祐一に囁く。


「何?」


「………今日,名雪のところに泊まることになってるの」


仲の良い親友で,祐一の従妹の少女。今頃は遅めの夕食を食べて,居間のソファでくつろいでいるのだろうか。


「あ,そうなの?じゃあまり遅くなんないように行かなきゃな?」


特に気にしたふうもなく,サイドを戻してリトラクタブルを点灯し,ギアをバックに入れて駐車スペースからクルマを出す祐一。


「…………ばか」


「…………へ?」


窓の外を向いたまま,拗ねるように香里さん。クルマの操作を続けながら,いわれのない非難にワケの分からない祐一くん。


「…………名雪のトコには,行かないの。祐一が今から名雪に電話するのよ?」


携帯を取りだし,電波の状態を確認しながら香里さん。さすがにこんな山の中では通話は出来ない。


「…………なんで?」


話の流れが素で見えない祐一。思わずブレーキを踏んだまま香里の方を向く。


「だって,親とかから電話きたら,口裏合わせてもらうんだもの」


シフトを掴む祐一の手に,そっと包み込むように手を添える。


「……………今日,帰らないから……………」


「………………………………………………」


ようやく意図を悟った祐一に,はにかむように微笑む香里。

コンパネの明かりだけが車内を照らし,顔色までは分からないけれど。

ステレオから控えめに流れるコルトレーン。

訪れる一瞬だけの柔らかく温かい沈黙。





「………………………明日の百花屋,高くつくなあ……………………」









                                 
おしまい。






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