灼熱の太陽がグラウンドを炙る。
 ちっとも爽快なんかじゃないのは,一刻叩きつけられた夕立というには早すぎる雨のせい。
 土の校庭の上は湿度と温度がウナギノボリで,本日のメニューたる長距離走を強要される学生達を痛めつけるのに容赦がない。


「あー,クソ暑いなあ!なんでまた大学生にもなって体育とかやんなきゃなんないんだよ!俺たちのガッコって体大だったかぁ?」


 卒業以来切らずに延ばし放題の髪を束ねた,でもトレードマークの癖毛だけはシッカリと太陽を指さす青年,北川潤が,2度目の10周を終えて高校以来の腐れ縁の悪友の横にばたっと腰を下ろし,ぼやく。


「御説同感だが出なきゃ単位もらえねえコトぐらいわかんだろが,ああ,北の字よ?」


 先の組で回らされ,ただでさえやる気のないところへもってきて至極ごもっともな不満を暑苦しく並べ立てやがるこの友人に,面倒くさそうに答えるやはり長髪を束ねた上半身裸の青年,相沢祐一。


「運動とかにしたって,せめてバスケやらサッカーやら娯楽性の高いモンがフツーじゃないの?」


 凍らせて持ってきたはずのスポーツドリンクは,わずかに氷が浮く程度に溶け,ボトルの下の方とかは既に少々温めでさえある。
 噛み潰さない程度の強さでストローを口に含み,手櫛を通しながら北川は容赦のない太陽を仰ぎつつ吐き捨てるように言う。


「やかましいてめーが教職取るべってゆーからキツい体Bに振り分けられたんだべが!ちったあそこんトコ反省せえ反省!」


「だー,このくそあちいのに絡むんじゃねーよまったく!」

…確かに授業内容で確認する一般カリキュラムの体育は,チャラい単なるスポーツタイム。それならまだナンボかはマシなのだ。


「なんだよ振ったのはおめーじゃんあぢー………………」


 ごろんと剥げた芝生の上に突っ伏したままの二人。
 また少し湿度も上がったようだ。


「………モウやめね?」


「賛成………………」


 理不尽な暑さは斯様にヒトを苛立たせるものだが,疲労感と徒労感は二人をはじめバテ切った野郎どもを無言へと追いやる。

 眩しすぎる陽光に遮られる澄みきった北の青空に,雲は白く流れ去っていく。

 暑い夏は始まったばかりだ。










HOT LIMIT-夏の夜空と舞さんと−










 −屋内球技場の中は,山際のロケーションとドライな空調のおかげでかなり快適だった。

 女コの体育Aはバスケットであり,グラウンドで憤る北川の言葉そのまんまのプレイタイムだった。
 指導教官は審判に回り,見目華やかな女コ大生達の単なる鑑賞者と化している雰囲気ありありである。

 高校や中学時代の経験者−中には国体の選手候補や別競技のモノホンの代表まで混じっている−がアタマをつとめながらの結構真剣なプレイは,


「………うわー,あのコ凄いねー………」


 たった一人の女のコによって演出されたモノといって良かった。


「………でも確か,別に中高と部活してないってハナシじゃなかったっけ?」



 コート外で一休み中の,また違う組の女のコ達が話題の主を見て囁きあう。


「………うーん,話したこと無いからわかんないけど」


「………あまり人と話してること自体見たこと無いけどね」


 そのコは常に他人の動きよりも数歩先を進む。
 女のコにしては長身の,スポーツ用のサポートインナーで押さえられていてもハッキリとわかるそのグラマラスな肢体が,独特のリズムのドリブルで他のプレイヤー達をかわしながら次々とショットを決めていく。
 

「…わ,わ!」


「………!」


その動きは,美しく長い黒髪を従えて,まるで鵺のようにしなやかであった。


「…くっ!!」


「しまった!横!」


 少女は,複雑な軌道にさらにフェイクを織り交ぜつつ,目の前の一人だけ明らかに動きの違うオレンジのビブスのショートカットの女のコを,それでも鮮やかにかわしてボールをもう一度リングに叩き込む。


「あー,女バスの国体候補が止められないってのもなんか凄いね………」


 一呼吸付いたその黒髪の女のコの体操服で包まれたカラダが,リングの下でくるっとコートの内側を振り向く。ほんの一瞬遅れて,根元で束ねる長い髪がふわっと続く。

 ぴー!


「…くっ!」


 試合終了のホイッスルは,そのとき鳴った。


「………………」


 女のコは,コートの隅のスポーツバッグの上に無造作に置いてあったタオルを掴むと,額を伝う汗を拭う。うっすらと浮いた汗がウェアをそのグラマラスな肢体に艶めかしく貼り付けている。


「…あなた,凄いわね?」


 弾むような声に振り向くと,先程の,俊敏な動きが印象的なオレンジのビブスの女のコが,缶の表面に滴の浮いた,冷えたスポーツドリンクを片手に佇んでいた。


「はいこれ。動いたあとはこーゆうのに限るわ」


 遠慮がちにとまどう女のコに,強引にそれを握らせる。


「…ふふ」


 きょとん,と目を丸くしたその女のコに,国体選手候補と謳われるその女のコはにこっと微笑む。


「………良かったら,名前を教えてくれない?」


 黒髪の女のコはスポーツドリンクの缶と,その女のコの顔をちろちろと見比べる。

 幼げな雰囲気を残した,快活そうな愛らしい丸顔。その屈託のない明るい表情は,どこか太陽のような笑顔の,自らの親友を連想させる。


(…佐祐理に,似てる…)


−ほんの微かにだが,笑って。


「………舞。川澄舞」


(…あ,可愛い)


 女のコは,そんな舞のはにかんだような表情を見て微笑む。舞は少し照れたように,また口を開く。


「………これ,ありがとう………」










「と,いうことで今日は飲みに出ようぜ?」


 うってかわって冷房の良く効いた,学科のホールのロビーの片隅で,微妙に座った目つきの北川。


「脈絡無えなアイカワラズ」


 のんびりとタバコをふかしながら,素肌に直なYシャツの祐一。


「こんだけ暑くてしかも大汗かいたんだ。こんなときゃビール美味いぜ?」


「…順番逆だろ会話の。まあイイやそいつはさんせー」


 暑さや湿気で不快なら,それだけ染みいるそのウマさ。今時珍しくもないけど,時期も同じくタバコとその味を覚えた,まだ未成年のイケナイ二人だった。


「…そんなあなたに耳寄りの」


 急に耳を寄せてひそひそ声の北川。こんな時のヤツのオーラは。


「なんだ北さんそんなイイ顔で」


 思わず何だか期待しちゃうぴんく色。


「実は今日教育のおねーちゃん達と約束を取りつけてあるのですよコレが」


 うわホントに期待ドオリ!恐るべし勝手知ったるマイブラザー,手回しヨシ手抜かりナシ!


「…ほほう?」


 思わず祐一の口元もえっちな方向に歪む。
 健全不良青少年たる二人は,ことこのことならドコまでも。


「コレがまた粒ぞろいで」


 先輩同級織り混ぜた,見目麗しきセンセのタマゴ。その中から厳選いたしましたる逸品ぞろい。


「ほほほう?」


「フリーのコばかり7人でしかも季節柄薄着でございますわよウ・ス・ギ?」


 誇らしげに胸を張る北川。さあ崇めろ!といわんばかりに。


「ほほほほう?」


 祐一の顔はさらにニヤケる。


「もうこのスケベコノコノコノ!」


 容姿もともかく,雰囲気がそれを引きつけるのか。−何故かミョーに女のコに人気のあるこの親友を抱き込めば,今日このプランはコト成れり!である。


(いよし,相沢げっと!)


 スケベなくせにこの方面に鈍感気味のこの親友と違い,それなりにモテるものの自分に欠けたナニカを正確に把握している,策士な男。−北川潤は上機嫌であった。










「へえ,じゃ中高何も部活やってなかったんだー?」


 すっかり舞のことが気にいったらしいその女のコは,興味津々といった風情で更衣室でもその横に陣取りつつ,基本的に言葉少なな舞とコミュニケーションを試みる。


「………うん」


 お互いに汗ばんだスポーツウェアを脱いで,下着に手をかける。


(うわ………!)


 女のコの目に入るのは,インナーの跡がクッキリとついた素肌ながら,矯正もゴマカシも必要のない,優美な曲線とうらやましいほどの綺麗な,大きな胸の果実だった。
 無表情で無愛想ながら美しい,童顔ベースなかわいらしさも備えたお顔にアンバランスなグラマラスさのボディライン。

 女のコはかつて水着写真のモデルさんーいわゆるグラビアアイドルをやっていたことがある。
 妙なアプローチを受けることも一度や二度では済まず,スケベな視線にちやほやされるのに嫌気がさした。潮時を感じ,本来センセになりたかったこともあってフツーの大学生を選んだところである現在なのだが,かつての同業のコ達にもこれほどのボディラインの主の記憶はほとんどない。


「…あ,待ってよ!」


 思わず見とれる女のコに,気恥ずかしさを感じたのか,舞はそそくさとシャワー室へ向かう。
 正直に羨望を覚えるほどの,長い髪で隠れる舞の美しいヒップラインを目で追いながら,女のコは慌てて隣室に続く。


「モッタイナイよー?そんだけの運動神経がありながらそれはー?」


 シャワーで汗を洗い流しつつ,お気に入りのボディーシャンプーを泡立てる女のコ。


「…………」


 照れているのかスポーツの後で上気しているのかは分からない。
 ほんの少し赤らんだ,熱を帯びたカラダを,泡立てた石鹸で長い黒髪ごと無造作に洗い流す舞だった。


「舞ちゃん,今日これから予定ある?良かったら,ちょっとだけでも練習見に来てくれないかなあ」


 運動能力だけではなくて。
 そのかわいらしさと雰囲気に惹かれたのか,女のコは舞にお誘いをかけた。


「………ごめん,今日は行かなきゃいけないところがあるから」


 きゅっとシャワーの栓を戻しながら,舞は小さく,しかしはっきりと返事をする。


「…あら」


 その声色に,はにかんだような微妙な照れを感じる。


(…オトコ,かしら?)


 女のコはそんな舞を微笑ましく感じながらも,ほんのちょっとだけ残念そうに更衣室を後にした。










「………ってバカ,今日はウチの姉貴のバイトが無いや。パスパスパスパス!」


 冷静に思い出してみる。
 今日は高校来の彼女であるところの川澄舞のバイトがお休みの日なのだ。
 …家に帰ったら最後,二人きりの時はまるで子供のような彼女との,他愛もない,何をするでもなく過ごす時間が,彼女が寝入ってしまうまで続くのがここ数ヶ月のこういった日のいつものパターンである。
 つきあい始めて結構な時間が過ぎた。相変わらずそう会話の多い方ではない二人の日々。
 それでも何げにボケて加減を知らないツッコミを受けて悶絶する,爆笑続きとかじゃないけれど,笑みの絶えない楽しい舞と,楽しい距離の,楽しい毎日。

 …この年頃のセイショウネンにありがちな,それなりに節操無し気味な祐一だが,根っこのところは案外一本気だ。


「確かに川澄先輩こわそーだもんな。んで17分割」


 包丁とかでも充分イケそうな,昔ながらの彼女の剣舞。
 うっかりおイタがバレようもんなら,想像したくなんか無いイカス事態が待っていそう。


「ま,そこをナントカ相沢一流のトークでゴマカしてさ!」


 しかしながら北川の心に迷いはない。極上の餌無くして至高のエモノは釣れないのだ。





 舞がロビーに入ってきたのはちょうどそんなときだった。


「………ゆ………」


 年下の彼を目の端に認め,声をかけようとする。
 熱すぎるトークに突入した二人は,周りの空気の微妙な変化に気付かない。


「…」


 −舞といえども女のコ,不穏な空気をかぎ取る力はこんな時フルに能力を発揮するのだった。


「………ってゆーか舞ならフツーに尾けてきそうだ」


「………まーまー,そうゆうスリルもイイモンよ?遊ばなきゃ若いウチは?」


「どっかのフーゾクの客引きのオッサンか?オマエは」


 舞はさりげなく二人の視線に入らない観葉植物の影に隠行さながらの素早い動きで身を移し,二人の会話にそっと聞き耳を立てる。


「別に今日約束してるワケじゃないんだろ?センパイと」


「そーなんだけどな」


(………………!)


 舞の眉間にスジが走る。


「俺も夜完全に空いてるのは今日だけだかんなあ。明日からしばらくバイト連チャンだし」


 再びタバコに火を点けながら祐一。


「…ケチつけるわけじゃないけどあの人と始終一緒じゃ息とか詰まんね?」


 何げに祐一に訊いてみる北川。ほとんど表情に変化のない,美人だが無愛想な舞の姿を思い出しながら。
 ふたり並んだシルエットはともかく,普段の祐一の性格からはどういったつきあい方をしているのか北川の豊かな想像力を持ってしても想像が付かない。


「全然気になんねえよソッチは」


 照れ隠しなのか笑いながら,でも即答の祐一。


「………………」

 本心から出た言葉ながらとりあえず密かな危機回避。
 もっとも当のご本人が2完歩ほどで間合いを詰めて刀のサビに出来る位置にいるのまでは気付いてない。


「夏で薄着な開放的が俺たちの心も体も熱くするんだぜ?さあ行こう輝ける明日に!」

 北川は積極的に,男の本能に訴えるセールストークを再開する。
 響きだけでも憧れる,夏の季節のあばんちゅーる。
 アタリを取ったら逃がしたくない。出来ればそのままベッドまで!


「そりゃ大変ケッコーだが,もう香里あきらめたんかオマエ?」


 実は結構乗り気ながら,とりあえず北川ペースにやられっぱなしは嫌なのであえて北川の心の傷にフルスイングの祐一。


「…またこりゃ痛いトコを」


 いつかの告白敢行失敗撃沈。それでも未練たっぷりのこのワカリヤスイ悪友を,祐一は実際のところ結構気の毒げに見つめている。
 『なんとかいいコがみつかりゃいいのに』とは,対象者の密かな思い人であり,その告白失敗の主要因たる祐一の無自覚なエールであった。


「打てる手は全て打つのが俺のヤリ方なの!そっぽを向く高い崖の上の花より,野に咲くヒマワリのようなあのコってのもまたイイと思わないか?」


「…オマエがいいならそれもいいけどね」


 ベッドの上はともかくとして,女のコ達との恒久的なつきあいについてはご遠慮申し上げたい祐一は結構素っ気なく。


「まあそう言うなよ。そうそう,あのコも来るよ?ほらほらほら,名前今出てこないけど2年の体育科の,オマエ好みのいつか話したあのショートの!」


 …コレで「落ちろ!」とばかりに北川の言葉の直球ど真ん中。
 ソレは,サークル紹介で壇上に上ったバスケ部の,祐一モロ好みのショートカットの副部長。
 元グラドルとの噂のある,くるくると明るい,人目を引くカワイイあのコ。
 もしミスナントカがあってエントリーされたら,連は絶対外さないだろう単勝1倍台のダントツの一番人気。


「………マジか?」


 その存在だけはさすがに祐一も知っている,学内一の有名人の参戦とあっては,ココロ揺さぶられるのを男なら誰がそれを責められようか。


「大マジ!」


(よし相沢大ゲット!)


 北川はさわやかな笑みを漏らす。


「分かりました閣下,万難を排して参戦させていただきたく!」


 意味もなく恭しげに片膝を付く相沢祐一。


「うむ大儀である同志相沢よ」


 尊大に答える北川潤。


「………………!」


 ロビーの隅の観葉植物は,一瞬微かにその葉を揺らす。


「それでは6時に教養棟の前で」


「了解です閣下!」


「勝利の栄光を我等に!」


 二人は意味もなくハイタッチで別れ,それぞれロビーを後にする。


「……………………………………………………………………………………………………………………………」


 …観葉植物の影に,舞の姿はなかった。










「おーい,いるのかー?舞ー?」


 祐一の帰宅は,ちょうどそれから3時間後。北川との約束の少し前だった。

 切れた整髪料をコンビニで買い込み,調子の良くない友人の原チャのプラグの面倒を見てあげた後,着替えのために部屋へと戻る。
 舞が来てるなら言い訳を,そうでないなら書き置きの文句を考えながら開けるドアには,


「………………………」


−鍵がかかっていなかった。


「…?」


 人の気配はする。
 あまり日光を受けない立地の祐一の部屋は,朝の数時間を除いて基本的に薄暗い。


「ありゃ?」


 …ハッキリとは見えないが,小さい玄関にはちょこんと並んだ女物のスニーカー。


「…なんだ,いるじゃん。電気ぐらい点けろよ………」


 祐一は入り口横の冷蔵庫の上に荷物を置きつつ,部屋の中にいるであろう沈黙の主に声をかける。


「まーい?」


 返事のない部屋に,その名を呼びかけてみる。











「………祐一………」


 ぽつり,と返ってくるのは,元気のない,年上の彼女の声。 
 祐一は,部屋の電気を点ける。


「………!」


 そこにいたのは,部屋の隅で膝を抱えて,


「…お前…」


 腰まであった長い髪をばっさりと切り落とした,それだけでがらりと雰囲気を変えた恋人の姿。


「………どうしたんだそのアタマ………」


 近づく祐一に,突然立ち上がり抱きついて首の後ろに腕を回す舞。


「………祐一,今日は出かけちゃ嫌………」


 胸の中のしなやかな舞の体は微かに震えてる。
 今にも泣き出しそうな声に戸惑いを隠せない祐一。


「………舞………」


 腕を回す背中に,在るべきモノを感じない違和感。


「………嫌………」


 舞は,耳元で,聞こえるか聞こえないかわからないほどのか細い声で。


「………どした?………」


 祐一は,ただ舞のからだを愛おしげに抱きしめ,舞が落ち着くのをじっと待ち続ける。


「………祐一が………,」


「………………?」


「ショートのコが好きって言ったから………」


 唇が動くごとに,その小さな振動を微かに体に感じる。


「聞いてたのか………?」


−ああ,そうだった。そうなんだよ,舞は,こういうヤツなんだ。


「祐一がいなくなっちゃったら,私は………」


 いつも舞の突飛な行動にとまどわされることの多い祐一。

 可愛らしいヤキモチでは済まない,喪失への恐怖感。

 確認させられる複雑な彼女の自分への思い。

 心の中に広がる,そんな彼女の愛らしさ。

 思わず抱きしめる腕に力を込めてしまう。


「………私は,どうしたらいいかわからない………」


 首筋に感じる熱い雫。
 ボンクラな自分の頭の横の,その表情はわからないけれど。


「………ごめんな?」


 そして残る,少しの後悔。
 あのときあの場所の迂闊さと,


「…」


 失ってしまった彼女の長く美しい黒髪に。


「………祐一のバカ………」


 首に回される腕に,戻る女のコらしい力の心地よい圧迫感。


「………ごめん………」


 心にともった愛しさの火は,激しさを一段と増す。


「………バカ………」


 祐一は,優しく抱擁を解いて,その唇にそっと自らのそれを重ねる。


「………」


「………」


 重ねた唇を,そっと首筋に這わせる。
 無くなってしまった黒髪の感触にもう一度心の中で謝りながら,柔らかにベッドに崩れる舞の豊かな胸に,祐一はその顔を埋めていくのだった。

 時計はもう約束の時間を過ぎ,夕暮れの空は闇にその位置を譲りはじめていた。






















「…ふう」


 投げやりに開けた窓の向こうは,月の綺麗な夜だった。
 満月までは3日ほどだろうか。窓の外の山際に見えるそれを眺めながら,祐一は上体を起こしてタバコに火を点ける。
 随分と失ってしまったカラダの水分を,温んだペットに口を付けて補う。
 

(…いい,風だ…)


熱のこもった室内を開け放てば,それなりに部屋も涼しかった。


「祐一………?」


 激しい情事の後の,幾ばくかの寂寥感の残るベッドの上で,祐一の背中に愛おしげに指を這わせながら,


「………私にはまだ,祐一の占有権,ある?」


 舞が,ぽつん,と尋ねる。


 祐一は,窓の外から視線を戻さない。


「………」


 それが最大限の,舞の愛情の確認要求であることを,祐一は知っている。


「………バーカ………」


 祐一はそれがとても可愛らしくて,また照れくさかった。
 先ほど,言葉での返事の代わりに交わしたつもりの行為も,ほとんどの女のコにとってはその証明にはならないコトを知らない祐一でもないのだが。


「質問に答えてない………」


 舞は祐一を背中から抱きしめる。
 豊かな胸と,愛らしい唇を祐一の背中に押しつける。


「………そんなモノがあるんなら」


 祐一は,後ろ手に舞のショートの髪をなでつける。

−ああ,そんなご大層なモノがホントにあるんだとしたら。


「………祐一………」


 その体を舞の方に向けて,優しく微笑んで,


「−オマエがいらない,っていうまではな」


 祐一はそっと,舞の首筋を一撫でして,無防備な唇に口づけた。

 夏の夜空の月は蒼く揺れる。

 後ろ手に窓を閉じて舞のカラダを抱きしめる。

 合わせた唇を,もう一度首筋から這わせていく。

 熱と光を犠牲にしても,月にだって聞かせてやりたくない。


「………祐一………」


 かわいい舞の,睦言を。










おしまい。
   










同日,夕暮れのちょっと前。





「あーくそ,相沢のアホウ」


 北川は律儀にもまだ来ない祐一を待ち続けている。

 みんなはもう先に行かせた。今頃は多分いい気になって盛り上がってるだろうよこんちきしょう。

 今時珍しく携帯を持たない祐一に連絡を取ろうにも不可能で,いつ来るかもしれないバカを相手に動くことも出来ず。


「…このツケは高けえぞ」


 誘った手前無碍にはしない程度には漢な北川だった。


「…あの」


「…」


「あの?」


「わあ?!」


「…遅れちゃいました,ゴメンナサイ?」


 夏の天使は突然に。

 呼びかけられて振り向く北川の後ろには,出来れば二人きりをお願いしたくなる件のショートのバスケ部の女のコ。
 屈託無く微笑むサマードレスの彼女は,夕日をバックにたとえようもなく愛らしい。


「ワタシもみんなとの待ち合わせに遅れちゃって,その,場所とか知らないもんですから」


 はにかむような上目遣い。


「………北川潤君,だったよね?せっかくだから,いっしょに行きませんか?」


 突然の申し出にとまどいつつも,名前を覚えてもらってたことに心の中ではものすごいガッツポーズ。

(スマン相沢,友情はまた今度な!)

 颯爽と彼女を横に従え,北川はみんなの待つ居酒屋へと歩を進めるのだった。

 北川潤,ようやく季節はずれの桜に蕾が色付く,19年目の暑い春。

 祐一の見上げた月の下,北川の桜が咲き乱れることに相成ったかどうかは,また別の話である。







こんどこそおしまい。





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