大学の近くにある,ありふれた飲み屋街。
ダチ同士で安く済ませたい,お気楽で量だけはある小汚い居酒屋から,
狙ったあの子をガンバってみたい小洒落たショットまで。学生を当て込んだその場所は不景気と
いえどそれなりに賑やかだ。
4月のこの時期,浮かれ気分の学生は入学したての新入生に,おおかたはこの場所で酒の味を教える。
人生のどうでもいい,大体はどうしようもなくバカで稚拙でくだらない,でも最高に愛おしく輝くほんの一時期。
それが終わるときに振り返ることがあったら,少しの寂しさと郷愁を持って,本当に楽しかったと答えることのできる時間。
そんな時間を些細な−でもタマに何事にも換えられないほどの大事さが混じっていたりしてやっかいな−コトを積み重ねて過ごしていく。
そんな他愛もない,おはなしのひとつ。
少女が喧噪の中を一人足早に歩いていく。あまりご機嫌よろしくない感じの,苛立ったような早足。
「オイ待てよ!」
そんな彼女を追って酔客を避けながら駆けてくる少年が一人。
少女は青年の声から逃げるようにつかつかと歩いていく。少年はふっと苦笑すると,さらにスピードを上げて少女に駆け寄る。
「待てったら!」
ビクン,と体を震わせて足を止めた少女は,一瞬考えるように間をおいた後,少年の方を向き直る。
「何かご用でしょうか?相沢先輩」
いきなり鋭い視線でにらまれる。口調に声に,話したくないんですカラーがにじみ出ている。
「何か用かって,いきなり出てくからびっくりしたんだぞ」
少女ー天野美汐の肩に手を掛けたまま相沢祐一は話す。日々のタバコと少なくないアルコール,なにより急なダッシュのせいで息は切れ切れだ。
「別に何もありません。………私のような偏屈な後輩のことなどお気になさらずに,楽しい時をどうぞ!」
極力感情を抑えたつもりの声で一気にまくし立てると,くるっと向きなおり駅の方へと歩を進めようとする。が,祐一は掴んだ肩を離さない。
「離してください。終電に間に合わなくなります」
無言で美汐のもう片方の肩に手を回した祐一は,力を込めて,ぐるん,と自分に向きなおらせる。
「どした,美汐。何かヤな事でもあったか?」
祐一は美汐の瞳をのぞき込むように話しかける。行為の強引さに似合わない,実に優しげな声で。美汐はあいかわらず祐一と視線を合わせようとはしない。でも,そのからだは小刻みに震えている。
「………美汐………?」
祐一は美汐の表情を落ちた前髪の間からのぞき込もうとする。ほんの一瞬だけ目線が合った。
「………お願いだから………離してください………。………きょうは,もう,ほ……っと……いて……」
綺麗な瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちてくる。言葉は涙で濡れるように途切れ,俯いたままの喉元から,微かに,えぐ,と嗚咽が聞こえる。
(…………あー,泣かしちゃったなあ)
と心の中だけで呟くと,バツが悪そうな表情のまま,祐一はそっと美汐の肩を抱いて路地の隅へ歩いて行く。美汐は特に抗うこともせず,祐一の体に身を預けていた。
BEDLESS NIGHT SLIDER−美汐さんの朝帰り−
数時間前。
「かんぱーい!!」
相沢祐一と天野美汐は,二人の所属する大学の学科のゼミ主催の新歓コンパに出席していた。祐一があの北の街から駅でさらに5つほど向こうの大きな街にある大学に進学したのが去年の春。そして今年,後を追うように天野美汐も同じ大学,同じ学科に入学してきた。
美汐の成績ならもう1,2ランクレベルの高い他の大学,もしくは最も偏差値,就職率共に高い学科にも問題なく進学できるはずだったのだが。
『この学科でないとやりたいことが出来ませんから』とはときどきガンコな彼女の弁。
あいかわらず素直な物言いの出来ない彼女に苦笑の祐一であったが,もう2年のつきあいになる彼女の性格は,祐一も充分承知しているつもりなので悪い気が起きようはずもなかった。
そんなこんなで大学の入学手続きから教科の選択のアドバイス,果ては通学路の案内から近所の穴場紹介などこの3週間ほどはほぼ毎日一緒にいた。高校時代に比べ,何となく笑顔でいてくれることが増えたように思え,祐一はそれだけで何となく幸せな気分になったりもした。
「コンパ………ですか?」
学食で焼き魚定食の漬け物に箸を伸ばす手を止め,美汐が聞き返してくる。
「ほ,ほんは」
「もう,祐一さんお行儀悪いですよ?口にものを入れたまま喋らないでください」
めっ,と咎めるように文句を言う美汐に目だけでスマン,と謝りながら右手のプラスチック製の急須に手を伸ばす。あ,と美汐があわてて急須を手にとって祐一の湯呑みにお茶を注ぎ込む。その様子を愛おしげに眺めながら,祐一は口の中のショウガ焼きとご飯をごくん,と飲み込み,湯呑みからお茶をすする。
「おう,コンパ。うちの学科の新歓」
「はぁ………」
あまり気乗りのしていなさそうな美汐だった。基本的にこいつは人見知りが激しいんだよな,と祐一は思う。
「ゼミの先輩に誘われたんだ。おまえも付き合え」
せっかく自分で考え,いろいろ出来る時間が作れたんだ。もっといろんな人に触れて,いろんな事をしなきゃモッタイナイ。
『余計なお世話だって言われちゃそれまでだけどね。』ナドと多少自分に踏ん切りをつけて,それでももうちょっとがんばって友達とかを増やしてほしいな,寄ってくる野郎はタタむけど。などと思う彼女バカな祐一だった。
「結構女の子も多いから,ダチとか作っとくと単位の取得や暇つぶしに有効だぞ?」
「………祐一さんの暇つぶしに,ですか?」
美汐の視線に冷気が加わる。あああまた何か誤解されてる,そういうつもりで言ったんでも無いのにこういうところで妙に嫉妬深い彼女に多少ヘコむ祐一。
結局怪しげな理論武装やご機嫌取りで今日の本屋さん巡りをキャンセルしてもらい,
『酔っぱらってキレイなお姉さんに誘われてもふらふら付いていっちゃダメですよ?』と去年の新歓に行く前と全く同じ事を言われ『大丈夫だろ?おまえもいるし』などと返事をしつつ,何とかコンパに同席させることが出来たのだった。
「しまった。そーいやそーだった」
祐一は己の迂闊さを悔いていた。出来るだけ美汐のそばにいてダイレクトサポートをしてやろうと思っていたのだが,新歓コンパはくじ引きで席が決まるのだ。ものの見事に5人ずれの斜向かい。30人は楽勝にいるのでおそらく会話などムリ。せいぜいご機嫌を窺うことが出来るぐらいだ。
「祐一さぁん………」
あからさまに不安げな美汐さん。まあ,それでも女の子の多いブロックに固まったのでそれほど気にすることはないのかもしれない。
祐一は『みんなが酒注ぎに回ったタイミングにでも横に陣取っちゃろ』などと気楽に考え,きちんと正座してお冷やを飲んでいる美汐に,脳天気にヤッホーなどと手を振ってみてジロリと一睨みされ,またまたヘコんでみたりするのだった。
「あはははっ!相沢君おもしろーい!!」
今日の祐一は,絶好調に絶口調だった。
もともと目鼻立ちが整った顔にすらっとした長身。話すと「カワイゲ」が標準装備でネタの品揃えに会話の機転も合格点。加えてナチュラル…ボーン…聞き上手。スターター兼ブースター。しかもターボ付き。
盛り上げるのも盛り上がるのも何か特殊な才能のある祐一の周りには,特にこういった飲み会では先輩同級生後輩性別問わず,ひとが自然に集まってくる。
(あちゃあ,マズいかな………?)
いつにもまして軽快にトークを繰り広げつつも,祐一はどうしても気になってしまう。
話の合間にちらちらと所在なげな彼女の方を見てしまうのだった。
(祐一さん………)
天野美汐は美しい少女だった。楚々とした物腰が物静かな印象を醸しだし,微かに笑うとその仕草もまた美しさに華を添える。小柄な彼女がちょこんと正座し,ちびちびとサワーを飲んでいる様子は付近のオトコどもを放っておかない。
何人もの同級生や先輩達が入れ替わり立ち替わり彼女の隣でアプローチにトライしているが,当の美汐は愛想笑いや相づちオンリー。お世辞にも会話が弾んでいるとはいえない様子だった。
野郎達だけではなく,女の子達も何人かはフレンドリーに話しかけてきてくれている。でも,どっちにしても変わらない。まったくのウワノソラ。
−美汐は祐一のことが気になって,それどころではなかったのだ。
(………あ………)
美汐は,多くの友人達に囲まれて楽しそうに話す祐一を見て,形容しがたい寂しさを覚えた。
大学生になって,一緒にいる事が多くなった。だから,気付いてしまった。いや,本当は気付いていたんだけど,考えないことにしていただけなのかもしれない。
−私が,私なんかがこの人のそばにいて本当にいいんだろうか。
祐一さんは,意地悪で,ブッキラボウ。なにをやらかすか想像も付かないし,いつだって振り回されてしまう。それでも,自分のことを見てくれているその瞳は,いつだってとても優しい。私の心をこじ開けて,色々なところに連れてってくれる。
そんな強引さが,時々キライだけれどイヤじゃない。気が付くとそれを期待してる自分がいるから。
自分と祐一の関係は,もう浅くないとこまで踏み込んでいると思う。
そんなに多くはないけれど,心のうちを見せ合うようなホンキの話もする。
会話の呼吸もつかめてきた。
受験勉強だって,大学で祐一といられることを思うと苦にはならなかった。
年頃のオトコのコな祐一の求めに応じて,カラダを委ねることだって少なくなかった。
何気ないことでけんかになっても,家に帰って考えて,単に甘えていただけだということに気付いて顔から火が出そうなほど赤面して,
そんな毎日が楽しかった。
−だから,
………だけど。
「すみません。終電に間に合わなくなりますのでこれで失礼します」
美汐はそっと席を立つ。入り口の近くの女の子に微笑みながらそう告げると,もう一度だけ祐一の方を見た。
−祐一はおどけつつ会話をはずませている。楽しそうに,くるくると表情を変えて。その笑顔が,今の美汐にはとても悲しすぎた。
美汐は祐一の目を盗むように,居酒屋の部屋をそっと出ていった。
(………あーあ………)
セリフに乗せるわけにはいかない呟きだった。
祐一の目は部屋を出る瞬間の,ほんの一瞬だけ自分に向いた,泣いているようなその笑顔を目の端で捉えてしまった。
学科の奴らとのバカは,最高に楽しい。女の子たちとの他愛もない会話も,やっぱり楽しい。でも,本当に大切なものは,それと引き替えにできない何かはまた別なところにあって。
「ねーねー,相沢君,2次会ドコ行く?もうすぐ時間になっちゃうから場所決めようよ?」
「そーだよ新学期になってから付き合い悪いんだから今日ぐらいは朝まで飲もーよ!」
やるべき事は,一つ。
「………あー,すんません。ちょっと,トイレ。それと,タバコ切れちゃって………」
携帯は,切ってしまえ。
(−桜ってまだ,咲かないのな)
桜の木が植えられている。枝桜なのは気候とか緯度とかその辺のせいなんだろう。
「………みんなのトコ………戻らなくていいんですか?待ってますよ祐一さんのこと………」
飲み屋街の路地端の公園で,美汐がぽつりと口を開くまで,祐一はただ無言で美汐の肩を抱いていた。
「んー………。もうお開きだって言うから,ちょっと早く出てきたんだ」
その言葉が嘘だとわからないほど鈍くない自分が,今日だけはやけに惨めに思える。
「………みんなといるときの祐一さん,とても楽しそうだったから」
「……………………………………………………………………………」
「………………祐一さんがいると,みんな楽しそうだから…………」
「……………………………………………………………………………」
「………だから…………だか………ら………」
美汐は泣き出してしまう。思いはうまく言葉にならない。言葉に出来ない。祐一は無言のまま,ただ美汐の肩を抱いたまま言葉を聞き続けている。
「………みんなのトコ,行ってください。………私に………かまわずに。………」
「……………………………………………………………………………」
「だめ,なんです…………だめなんです。私じゃ,あんな風に祐一さんを楽しくしてあげられない………」
「……………………………………………………………………………」
「………ずっと無理させて………無理させ続けて………,いつか祐一さんが笑えなくなっちゃったら……」
「……………………………………………………………………………」
「………………私が,私なんかがそばにいると,祐一さん,きっといつか笑えなくな………っちゃ………います」
「……………………………………………………………………………」
「………だから………私とは………一緒にいない方が………いいのかなって…………私………私………!」
「………また,一人で泣き続ける気か?」
祐一は,そこで初めて口を開く。
「あー,もう。どうしていつまでも変なところで遠慮がちかねこのお嬢さんは」
両肩を掴み,優しく美汐のからだをを自分の方に向ける。涙で真っ赤な顔を,優しく,でも真剣に見つめる。
「あんまりこの相沢祐一様をナメんなよ?」
「…………………………………………!?」
驚いたように祐一を見つめ返す美汐。
「自慢じゃないが天野美汐がいなければ今の俺もココにいないんだぜ?おまえが言うように,俺が今笑えてるんだとしたら,それはおまえがいるからなんだぞ?」
「でも,でも………」
「そんなワケのわかんない,ヘンな引け目と張り合われて,しかも事前に『勝てません』って試合放棄までされちゃったら残った俺はどーすりゃいいのよ?」
「でも………」
「………俺といるのは,イヤか?」
「………そんなこと!………わたしは………わたしは………」
「いっしょに…………,いたいです………」
消え入りそうな,声。
「………………………………………………………………」
「ずっと………ずっと」
ああもうカワイイなあコンチクショウ。迂闊に口に出してしまいそうになる。
………弱々しいけれど,声に力が戻っているのを感じ,安心する。
「何かの終わりがあるんだとしたら,それはおまえが俺に愛想を尽かす時さ。簡単には諦めてなんかやんないけどさ」
はは,と笑う。
「これでも,おまえにキラわれちゃったらどうしようとか,今の結構大きなお世話だったんじゃねーかな?とかつまんねーこと結構色々と考えてんだぞ?………はは,結局似たもの同士なんだよなあ,根っこじゃ」
ゆっくりと,時間が流れる。
「………………………………………」
「………………………………………」
「………私,ヤキモチ妬きですよ?」
「知ってる」
『ひどいです』と小さく呟く。声は,もう,笑ってる。
「お行儀悪いのとか,うるさいですよ?」
「それも,知ってる」
苦笑する祐一。多分直んないんだろうな。俺。
「………もうヤだって祐一さんが言っても,ずっとそばにいますよ?」
「望むところだ」
寒いはずなのに,ここだけ空気があたたかい。たとえ錯覚だとしても,それでも。
「………祐一さん」
美汐は,そっと祐一の胸に身を預ける。祐一はそっと美汐の肩を抱き寄せ,小さな顔をくい,と上げ,自分に近づけると,そっとキスをした。
「………………………………………」
「………………………………………」
「まあ,その,なんだ。アセるこた,無いよな」
祐一は鼻の頭を人差し指でぽりぽりとかきながら呟く。視線はなぜか,合わせてくれない。
「………祐一さん,もしかして,その………照れてます?」
美汐は真っ赤なままの瞳で,祐一を上目遣いに見つめる。
「バーカ」
べー,と舌をつきだしてニカッと笑い,美汐の少し癖のある髪に指を絡ませ弄ぶ。
髪を梳き透る指先と無邪気な祐一の笑顔に,甘えるように胸に顔を埋める。
タバコと自分の選んだボディソープとシトラスコロンな祐一のにおい。
不意にまた涙があふれてきた。
でも,今,心を満たしているのは,多分,嬉しさと歓び。それと,どうしようもないほどのあなたへの………。
「でも………やっぱり…………だめです……………だめなんです………」
笑ってみる。笑えてるかな。うまくいかないけど,でも。
美汐は泣き笑いの,それでも精一杯の笑顔で,祐一を見上げる。 きっとひどい顔なんだろうな。今日はずっと泣き虫さんだ。
でも,この人がいてくれるから…………いてくれるなら。
「…………あなたが,そばにいてくれなければ…………きっと…………」
………もうそれ以上何も言えなくなってしまった美汐を,祐一は優しく抱きしめる。
公園の街灯のはずれで重なった二つの影は,日付けが変わるまで動くことはなかった。
「終電,終わっちゃったぞ?」
駅の照明は落ちて,ホール前の人影はまばらだ。
「そうですね。でも,」
美汐は祐一の腕をとって,自分のそれに絡ませる。
「………今日は祐一さんのお部屋がありますから」
花のように,笑う。絡めた祐一の腕を小さな体で包み込むように抱きしめる。
「お♪オトナの発言」
ご機嫌なその様子に祐一も思わず笑ってしまう。まだ寒い4月の夜に,薄手なブラウスを通して,美汐のからだの柔らかさと温かさが伝わってくる。
祐一はポケットの中からラッキーストライクの潰れたパッケージを取り出し,残り少ないその中の一つに火をつけた。ふっ,と一息吸いこんで空を見上げる。
「さて,2駅だから結構歩くけど?タクシー使うほど金もないし」
月のない夜だった。満天の星の輝く春の夜空の下を,ゆっくりと煙がたなびいてゆく。
「平気です。………だって………,」
組んでいた腕を,不意にくいっ,と引っ張られて祐一はつんのめる格好になる。あたふたとバランスをとって,かろうじて倒れずに済んだ。苦笑しながら年下の彼女を目で軽く咎める。美汐は笑みを湛えた悪戯っぽい瞳でじっと祐一を見つめていた。
ほんの一瞬,見惚れてしまう。その声,その姿。その仕草。彼女を包む空間すべてがあまりにも愛らしくたまらなく愛おしい。
(−コレだから)
勝てない。でも,一生勝てなくてもいいんじゃないかな,と祐一は思う。
美汐はふたつの小さな掌でふわりと祐一の手を包み込む。お互い見つめ合って,どちらからともなく笑い出す。
あたたかいのは繋いだ手だけじゃなくて。
だから,
ずっとずっと,
このままでいたい。
「………ふたり,ですから」
天使のような,君と。
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