ココは,北の街の郊外の,どこにでもありそな一軒家。

「♪」

早春の日差しが柔らかく入り込む,よく掃除の行き届いたキッチン。
テーブルの上には,標準的な家庭の夕食には過ぎる豪華さの食材と,綺麗に磨き上げられた食器に調度品の数々。

「…さて,そろそろ下ごしらえを始めましょうかね?」

微かに弾む,キッチンの主の声。

「♪♪」

−艶のある青みがかった長く美しい髪を三つ編みにまとめた,ブラウスに膝上スカート,カーディガンにエプロン姿。
彼女は,鼻歌交じりな軽やかなステップと鮮やかな手さばきで,テーブルの上の食材を,味も見栄えも信じられないレベルの料理の素へと変えていくのであった。

「♪♪♪」

普段は笑みを絶やさない,ソレでいて思慮深く知的なたたずまい。かてて加えて,女子大生の娘がいるとはとても思えないほどの美しい容貌とプロポーションを持つ彼女が,軽やかに,楽しげに,舞い上がらんばかりの勢いでクッキングをする様子は,もし彼女を妻とできる幸運な男がいたならば即座にベッド直行,イヤその場で抱きしめてコトに及ばんこと必至な愛らしさと言えよう。

「…んーんんんーんーんんんー♪」

ちら,と時計を見やる彼女。

(…この分なら,間に合いそうですね)

とは言っても,包丁を握る手の速度が緩まるわけではない。ソレはもう,あり得ない速度であり得ない曲芸を見ているかのような見事な手際で,テーブルの上に味に違わぬ見事なビジュアルの料理の数々がディスプレイされていくのであった。

「♪」

彼女のご機嫌には訳があった。

本日は土曜日。

かつて同居していた姉の息子。優しげな容貌と長身,ソコにいるだけで人を楽しませる何か特殊な才能を持った甥っ子が,週に一度,大学のある離れた街から帰ってくる日なのである。

『おかーさーん,今日は鍋が良いなあー♪』

『はいはい。おまかせでいいかしら?ちょっと挑戦してみたいのがあるんだけど?』

『おかーさんのは何でも美味しいから期待してるよー!』

『ふふ,行ってらっしゃい』

(でも,ローストダックメインで組んじゃいましょ。確か好物だったはずだし♪)

いつもよりもはるかに豪華な夕食を当て込んだ,まだまだ色気より食い気な我が娘のリクエストに盛大に答えながらも,何でも美味しく食べてくれる甥っ子の方に重点を置いてしまう彼女だった。

(…さて,と。久々だからあまり薄くは作れなかったわね)

ぷるるー。

「…あら?」

リビングの端っこにある電話の呼び出し音が鳴ったのは,そんな彼女が本日の鍋に使う予定のハモに包丁を入れ,ダシに通せば綺麗に牡丹状に開く飾り細工を終えたそのときのことであった。





Bring It On -Another Way-





「…はい,もしもし,水瀬です」

電話を手に取り,一呼吸おいて穏やかな声のご挨拶。

「………」

しかし,電話の向こうは無言であった。

「…もしもし?」

「…はぁ…はぁ…」

怪訝に思い,注意深く耳を傾けてみる受話器の向こうはなにやら怪しげな荒い息。

「…あの,変態の方ですか?」

…娘に比べて世間慣れしてる分,この手のコトについては察しの早い水瀬家の家長であった。。

「…はぁ,はぁ,い,今,どんなパンツはいてんの?って,ち,違います秋子さん!祐一ですっ!貴方の甥の相沢祐一ー!」

しゃがれ気味で息も乱れているが,ついつい入るノリツッコミの声のトーンには確かな聞き覚え。…それは確かに,甥っ子である相沢祐一のモノであった。

「…あの,下着ならライトブルーのショーツですよ?」

「…んなコト誰も訊いてません!オレは変態じゃないんですってば!」

「今流行りの?」

「どーも!どこからどう見てもハードゲイでーす!」

「ソレあと一年早かったらエッジなネタだったんですけどってやっぱり変態じゃないですか!」

「し,しまった!ついうっかり乗っかってしまったって違うー!」

「どうせこの下りも本になるときには風化してるんでしょうねえ…」

しみじみ

「確かにそーなのでカットした方がいいかと思うんですがこういうネタもどうかと思いますおっけーい!」

腰振ってる(瀕死)


「…そっちの方が趣味だったんですか?」

「ちーがーうー!オレはノーマルです信じてー!!」

「ちなみにブラはお揃いのフロントホックですが…」

「…あああああ,だからそんなシークレット情報訊いてませんですってばあふぅ…」



何が狙いかさっぱり分からない美しい水瀬家の家長に,電話の向こうの少年はなにやら違う意味で悶絶気味のご様子。というか語尾から察すると何かが切れてしまったっぽい。

「…冗談ですよ♪って祐一さん?祐一さん?!」

意外とただごとではない祐一の様子に,秋子は若干不安に駆られ呼びかけてみるも返事はない。

「…祐一さん」

繋がったまま切られていない携帯。呼びかけても,答えはない。

「…祐一さん…」

どう考えても,何かあったとしか思えない。

水瀬秋子は,受話器を静かに置くと一つ長い深呼吸をし,一転,急ぎクローゼットへと向かうのだった。





ソレに先立つこと,ちょこっと前。





「………」

肌寒いどころかな結構な寒さが,まだまだ残る春先の,人の体温だけが熱源らしい熱源といえる,ココ北の街のとあるアパートの一室。

マナーモードの解除された携帯電話の,聞き慣れた大きめボリュームな着信音で,相沢祐一は目を覚ました。
倦怠感と頭痛に少々目眩を覚えながら,祐一は鳴りやまないソレを手にとって着信ボタンを押す。

「はい,もしもし」

どうもしっくりこない喉元の感触に不快感を覚えながらも,極力声を落ち着けつつ話し出す祐一。

「ようやく出てくれましたね。…相沢さん?相沢さんですか?」

「…俺は多分俺だと思うが。…何だ,お前,天野?」

ディスプレイの発信者名を確認するのを忘れて,うっかり電話に出ちゃったオノレを軽く呪いながら,怪訝そうな電話の主−年齢はいっこ下ながら同じ学科のゼミ生であり,入学時に単位の修得をさぼったが故に現在ほとんどの講義の聴講を同じくする女のコ−に,いかにもだるそうに返事をする祐一。

「なんだじゃありませんよ相沢さん。今日は『マークされてる教授だから』って遅れそうなら電話しろとおっしゃったのは貴方ではありませんか?」

「…あ,たしかに。…そだな」

「先ほどからどうも様子がおかしいですね。…ひょっとして,お風邪でも召されましたか?」

「あー,う,そ,そんなことはないぞ?多分」

そう言いながらも,どうも喉が痛い。
自分で思ってる以上にヒドイ声なのだろうか。

「そうですか。それならば良いのですが。…ところで,3限目が始まりそうなのですが,よろしいのですか?前回までで欠席は2度のはずでは?」

「あう」

さぼりデフォルトなぐうたら気味の祐一とは違い,まじめに受講を続けている,頭の回転も記憶力も人並み以上な彼女−天野嬢の記憶に頼ることもない。−4ストライク即アウト制を採用している3限の福祉社会論は,すでにもう2回もさぼっちゃってることは,駄目学生なら誰もが持つ「あと何回休むことができるのかカウンター」により明らかなのであった。
故に今回休むと,次回の欠席で単位は即不可という厳しい事態に直面することになる。
出席さえしてれば単位をもらえる楽勝な講義故に,ココでの不可リーチは,不測の事態に備えて極力避けておきたいトコロの祐一である。

「…あ,しまったすぐ出…おわっ!」

あわててベッドから跳ね起きた瞬間,もつれる足。
いつもならバランスを何とか取ってリカバーのはずが,本日に限って踏ん張りが効かない。
結局そのまま部屋の隅にばったりこ。

「…あたた」

うーむこれは。

「げほ!」

思い切り咳き込む。どうやらホントに風邪をひいてしまったようだ。

「どうなさいました?」

冷静なトーンの中にも,若干心配げな色の天野の声。

「あーその,なんでもない…」

突っ伏しながら体調と体力と相談しながら適当な返事をする祐一。

「ほんとに,大丈夫ですか?」

体を起こそうと試みるも,どうもうまくいかない。天野の携帯越しのその声さえ,耳鳴りのように響いてくる。

「…すまね,天野。遺憾ながら風邪ひいたっぽい。名誉ある撤退を選択するのでセンセによろしくー」

「…相沢さん,相沢さん?!」

ぴ!

正直天野の返事は聞いちゃいなかった。

同じ高校の出身と言うことで入学以来交流の深まった二人ではあった(と,言うか一方的に祐一がちょっかいを出し続けているうちにソレに天野嬢が慣れちゃった,というのが真相に近い)が,生来の生真面目さ故にだらしないことに手厳しい彼女はこういったサボりに近い祐一の行動について基本的に批判的なのであった。

結構はっきりとキツいことを言う彼女が,「憎めないんだけどダメな先輩」であるところの祐一に対してお説教モードにはいることも,昨今決して珍しいことではなくなっているのであった。

ソレが故か,黙って彼女のお説教を受け続けると,死にそうなカラダに鞭打っての出席を強要される羽目になることが想像に難くない祐一は,即座に携帯を切りマナーモードに切り替えるとベッドにずるずると這い上がる。

…なんというか体中が異常に重い。
体をごろん,とベッドに横たえつつ,祐一は深い深いため息をつく。
…おそらく意外と面倒見の良い後輩からであろう,先ほどからブルブルうるさい携帯のバイブは放りっぱなしで,片手で目を覆い体中を襲う不快感の対策を考える。

「…服,着よ」

昨晩と言うには遅すぎる,本日の真夜中。泥のような眠りに落ちる瞬間,何でも良いから服をはおっとけば良かったかなあ,と,のたのたとベッドの横のスウェットの上下をひったくり,もぞもぞと身につける。

そりゃ,風邪もひくわけだなあ,と盛大に後悔しながら。

「…あ,しまった!」

ぼんやりとした頭に浮かぶのは,本日の曜日と,水瀬家の人々とのお約束のコト。

週に一度のプチ帰省。
進学に当たってやや離れた場所で暮らすコトになった,叔母と従妹と過ごす約束の日。
水瀬邸で過ごす日々に,何か不満があったわけではない。ただ,単純にカリキュラムが終わる時間が遅すぎて,終電に間にあわないことが多い故のやむを得ない処置。
…と,ソレを盾にしたお気楽な一人暮らしの魅力にも逆らえない祐一の,彼女たちと交わした,たった一つの約束であった。

「…んー,今日はさすがに無理かなー」

入らない足の力と,砕けた腰。熱に浮かされた頭と痛む喉。

それでも,自らの帰宅を心の底から楽しみにしてるフシのありありな二人の,残念そうな顔を想えば,なかなかに電話をためらわれる感じの祐一ではあった(天野嬢のことは基本的に心が痛まないらしい)。

(しかし,これはしゃあない…)

どんどん悪化する体調と,無事に水瀬邸にたどり着ける確率のことを考慮するに及び,祐一が携帯の発信ボタンに手をかけることにしたのは,それから数分後のことであった。










「………」

なんのことだかよくわからない秋子のボケの途中で失った意識が戻ってきたのは,受話器に手をかけてから一体どれくらい経った頃だっただろうか。

「………?」

視界の端で微かに動く影を認めた祐一は,「何事?」と上半身を起こそうと力を入れる。

「…」

その瞬間,何かがおでこから落ちるのを感じる。
…見れば,水に濡らされたタオルであった。

「…う−…」

ソレはすでに,祐一の熱に染まってじんわりと熱い。

「…あぅー…」

…奪われた体力は一向に元に戻ってくる気配は無い。ぐんにょりとベッドに崩れ落ちるしかない祐一であった。

そのとき,かたん,と台所の方から音がする。

「…?」

霞む視線で強引にソレを追ってみると,ソコには,普段見慣れぬ青みがかった長い黒髪の,スーツスカート越しのヒップから足のラインも眩しい女性が,エプロン姿で料理か何かをしている様子がぼんやりと飛び込んできた。

(…誰?)

発声しようにも,うまいこと声が出ない。どうやら症状そのものは悪化がかなり進んでいるご様子。

「…よし,と」

何事かうなずいたその女性は,普段ほとんど使われることのないガスコンロに鍋を掛けると,エプロンで手をぬぐいながら部屋の方へとぱたぱたと歩いてくる。

「…あら?」

(…秋子さん?)

薄く目を開いたベッドの中の祐一の前に駆け寄ってきたのは,いつもの三つ編みではなくロングのヘアを後ろでまとめた秋子の姿であった。

外出用のスーツにエプロンと言う,ちょうど「仕事帰りの彼女が着替えもせずにあなたのためにあなたののお部屋でお料理を!」という微笑ましくもうらやましいシチュにぴったりなその出で立ちは,祐一の心に何かを訴えかけてくる

「…だいじょぶですか?祐一さん」

のだが,如何せん今の祐一にはこのラインにふれる心の余裕が皆無なのであった。

(…ああ…)

…主に体調的な理由で。

「…すごい熱ですよ?もう,体には気をつけてくださいね?」

そう言いながら,秋子はろくに動けない祐一のおでこを,熱を確かめつつ軽く撫で,傍らの洗面器に張った水で,落ちたタオルをじゃぶじゃぶとよく冷やしてもう一度載せ直す。

「ふふ…」

…安心させるかのような優しげな秋子の微笑みが,祐一の心にほんわりと染みる。
台所から漂う,温かな良い香りも,空腹ながら食欲の無い祐一の胃を優しく刺激する。
『鍵もないのにどーやって部屋に入ってきたんですか?』とか,『何でそんな仕事に行くときでも着ないよーなカッコしてるんですか?』などと言った,普段なら絶対行ってるであろうツッコミもドコへやら。

(…うう)

…ただただ目の前の女神様のよな秋子の姿に感涙の祐一であった。










「…さて,おかゆが煮上がるまでの間に,失礼してちょっとお部屋をカタしちゃいますね?」

「!!」

ソレが事態の急転を告げる合図になろうとはそのとき思いもしなかった祐一が,はっきり言って散らかった自らの部屋を見渡しての秋子のその言葉に,動かない体を強引に動かして拒否の意志を告げたのは,それから数分と経たないときのコト。

祐一とて年頃のオトコノコ。

見られたくないモノとかも微妙どころか満載な自分の部屋。

「!!!!!」

なんとか必死に断ろうとするも,意思伝達が正常にいかないうえに体力低下中で動くこともままならない今の祐一では,散れた雑誌や脱ぎ捨てた洋服などをてきぱきと片づけ始めた秋子の制止は到底不可能なのであった。

「…あら?」

「!!!」

ベッドの下の雑誌の束の下からはみだしているのは,数個の黒いプラスチック製のDVDのケース。

「…あらあら」

困ったように片頬に手を当てるそのポーズで,ほんのりと頬を染める秋子さん。

「!!!!!!!」

ソレは,現実の女性では満たすことの極めて難しい,妄想の産物がぎっしりと詰まった,ある意味男の夢の箱の数々であった。

「…監禁熟女-美しい叔母の誘惑に,少年はもう耐えられない-…?」

「〜〜〜っ!」

手近なソレを手にした秋子が読み上げる思いっきりなDVDのそのタイトルに,ベッド上で突っ伏して悶絶する祐一。
…よりによって一番見つかってはいけない人に一番見つかってはいけないモノから先に見つかってしまう不運を,己が病魔以上に呪う祐一であった。

(たのんます!その下も見てやってください!その下にはオレの無実(?)を証明する「ようこそようこ13歳」とか「レ○プ女子高生輪姦白書」とか「アナウンサー,夜のマイクはどうですか?」とかそーゆーのが山のようにってイヤあっ!ソレも見ないでっ!そっとしといてっ!オレの性的嗜好を確認するのはやめてーっ!)

性癖のまともさ(?)のアピールを行おうとしてさらに墓穴を掘っちゃうことに気づいて,心の中でさらに血涙の祐一。

「…あら?」

(なんなんだ今度はー!)

「…SG体育教師褌男祭り?」

(うっそおおおおおお?!)

それはこれらのブツ(ほとんどの)の本来の所有者であるところの悪友北川がイヤガラセ的にこっそり混ぜ込んだ知らない世界のDVD。ちなみに,SGはスーパーガッチリの略だ。あとソレが染色体XYの出演者のみしか出てこない逸品であるコトは,そういうサイトでチェックしていただきたい。検索とかして。責任は一切持てないけど。

「…あらあら」

頬に手を当てて,心なしかとろんとした目つきで,頬を染める秋子さん。

「…そんな。こんなモノで寂しい夜を紛らわせるくらいなら,何時だって心の準備はできていますのに…」

(違うって言ってんだー!)

本気とも冗談とも付かない愁いを含んだ物憂げな視線ながら,悩ましげに膝を崩し微かに頬を染めた萌え指数→MAXの秋子さんのその申し出(?)に心の中で大ツッコミ。

「…あら?」

自然と目が行ったのかどうかは知らない。

「…あらあら」

秋子の視線の先にあるのは,丸めたティッシュが大量に捨てられているくずかごであった。

「…あんなにいっぱい…祐一さん…」

明らかに鼻をかんだだけのモノとは思えない,独身男性の部屋のソレの発する独特の匂いのゴミ箱に,なにやら涙ぐむ秋子さん。

(だーっ!ちがうー!!)

もう何かすっかり,どういう弁解も届かない遠いところにいる秋子に徒労感を感じつつも,それでも心の叫びを止められない哀れな祐一だったのであった。






「…んしょ」

ソレは,現在祐一が突っ伏しているまったく同じ部屋。

さらに時計の針を戻して,半日ちょっと前のコト。

「…んぅ!」

相沢祐一がうつぶせで壁に向かって寝こける横で。
胸に実る,形の良い大きな果実をお気に入りのブラのカップに収め,後ろ手でそのホックを留め終わった少女は,カップをくいくいと動かして胸元のシルエットを整えつつ,両足を揃えてベッドから降ろし,一息落ち着ける。

「…ん」

ブラウスのボタンをプチプチと留め,脱ぎ捨てたジーンズを拾い,足を通す。

「…えーと,ソックス,ソックス」

お気に入りのソックスの,片っぽはくずかごの横。もう片っぽはベッドの下に入り込んでる。

「んしょ,んしょ,と」

あとはウォッシュドデニムのジャケットにダウンのオーバーオールを纏えば,外出準備はおっけーである。

「…祐一,ねえ,祐一!」

ベッドに乗っかって祐一に覆い被さり,ぺしぺしと祐一の肩を叩きながら呼びかける少女。

「…んー」

起きてるのかどうかも分からない生返事な祐一。

「…ねってば!」

「…んー,香里ー,もう勘弁してくりゃれー…いくら何でももう出ないー…」

「もう!続きじゃないんだってばぁ!」

「…もう無理ー。もう勃たないー…」

「…そーじゃなくって,今日講義あるんじゃなかったのー?」

未練の残る昨晩の余韻にうっすらと朱の差した顔を,健康な男子たる祐一の股間のブツ(半機動状態)から背けつつ,少女-美坂香里は祐一の本日の日程についてツッコミを入れる。

「…んー」

寝ぼけ眼の祐一は,

「…今何時ー?」

と自分で時間を確認する労力を放棄のご様子。むにゃむにゃと口元を動かしながらの,ぽやっとした寝起きの祐一の表情や仕草が実のところかなり心にストライクな香里であった。

「んもう,もーちょっとで八時よ,はーちーじ!…行くんなら早く準備!」

が,ソレについついにやけてしまう頬を強引に引き締めて厳しめの母親のごとく振る舞ってみる。

「…んー,ボク今日三限だからもちょっと寝ゆー…」

「もう!」

「う!寒!」

ばふ!とシーツごと毛布を引きはがす香里さん。

「ソレを早く言うの!」

「…寒いー」

シーツをたぐり寄せてもそもそとその中に潜り込む祐一。もうすでに半分夢の中風味でさえある。

寝起きで急ぎな自分と,時間的にまだまだヨユーのコイツとの事情の違いはわかってるものの,眠りに落ちたのがほぼ同時なお二人。睡眠不足故にご機嫌ナナメ気味ではある香里さんだった。

「…くー」

「…全く」

手を腰に当てて,困ったもんだ風味で祐一を見下ろす香里。

「…もう」

「…んうー」

…でも,祐一の,まだまだあどけない寝顔を見てる内にどんどん和らいでくる感情。

「…しょうがないわね…」

理不尽の納得はやはり愛情以外で代えられることは無く。

「…じゃ,また,がっこでね」

「…ん」

こてん,と枕に埋まったアタマを求めに応じて横に向けた,生返事な唇に軽く触れる,柔らかい香里の唇の感触。

「…ん♪」

すでにほとんど微睡みの中に落ちていながら,はっきりと知覚できるその柔らかな感触。

「…香里ー…」

「…なーにー?」

玄関でスニーカーに足を通す,お目覚めキスの照れ隠し気味にそそくさな香里を呼び止めて。

「…今日オレ,夜は水瀬邸なー」

「あー,そ言えば,今日土曜日か」

来ても,いないよ?と言外に告げる。聡い彼女はソレで解る,と交際ン年目のらう゛ぁーず。

「…あと愛してます。彼女業務ごくろー…」

「…ば,ばか!」

「映画やドラマのような恋」なんて,全然メじゃない。聞きたい聞けない照れ屋の彼の愛のコトバ。さらりと入るはこのタイミング,な,まいらう゛ぁー。

不意の一言に染まる頬で,思い出してしまうのはゆうべこの部屋に入ってからのこと。

ついつい気合いを入れちゃった,愛情手料理クッキングから,他愛もない会話を楽しみつつのビデオ鑑賞。普段滅多にするコトのない,自ら求めてしまったキスからの,愛情劣情ない混ぜな,濃ゆい激しいラブタイム。

…口元だけで笑ってるに違いない祐一の顔を思い浮かべつつ,我知らずますます顔を真っ赤にしながら,バタン,とちょっと乱暴にドアを閉める香里さん。

「…んー」

遠ざかる香里の足音に併せて意識もゆるりと遠くなる土曜の朝であった。










(それがまずかったんだわ!)

熱に混濁しながらも原因の特定に成功風味の祐一。

(…寒いのに,オレシーツ一枚しかかぶってなかったー…)

しかも正確にはシーツを抱きしめてた部分とその周辺のみ。
情事の後故の全裸,汗とかナニとか各種体液を放出しまくって落ちた体力に,寒さもモノともせず落ちた眠りの結果のこの始末。

(と,とりあえずそーいうコトなのでそのアレなDVDの数々はアレについては関係ない!関係ないんですよ秋子さん!)

釈明するわけにはいかないティッシュの山のモトについて,仕上がりの近い鍋の中を覗きに行った秋子に心の中で絶叫する祐一。

(うう,もう,声ぜんぜん出ねえ…)

声帯がエラいコトになってるのは明らかである。…何とか意思伝達に使えそうなモノはないものか。

…ふと目の端に止まるのは,講義のノート用に買ったはずながらメモ帳代わりに部屋常備になってしまったルーズリーフと,引っ越しの時に使ってそのまま窓際に放置してあった太めのマジック。

(…仕方ない。コレで何とか意思表示を)

動ける範囲内でかろうじて手の届くソレを枕元に引き寄せ,弁解のための言い訳の準備に無駄な体力を使いつつな祐一であった。





…もいちど時計の針を戻して,場所も変わるココは祐一達の通う大学の中央広場横のベンダコーナー。

「…相変わらず世話のやける先輩ですよね…」

あどけなさの残る美貌を憂いの色に染めつつ,人混みを避けるように噴水横の木蓮の陰のベンチに腰を下ろす少女が一人。

「…ふぅ」

頬に当たる初春の風は未だ冷たいが,少女の肌を厳しく攻めつけるほどではない。手にしたカップの暖かいストレート・ティーとの温度差はそれなりに少女にとって心地の良いものではあった。

「…イリーガルな手法は,本来あまり好きではないのですが」

ゼミから拝借した印鑑で,3限目の出席印をこっそり押して相沢祐一の単位取得のために手を貸したその少女−天野美汐は軽く目を伏せ,そっと溜息をつく。

「…ほかに方法もありませんしね」

基本的にあまり人との積極的な関わりを好まない彼女の,学科内ではほとんど唯一と言っていい知り合いかつ話し相手である相沢祐一。几帳面かつ繊細で品行方正で潔癖性気味な自分と,おおざっぱでおおらかでマイペースな彼とは,全く持って違う人種であることをお互い認めるところではあるのだが,なぜか妙に平仄の合うこの先輩のことを,美汐は嫌いになれない。

何となくこのまんま放っておけないような母性本能的なその感情が違うものに育っていることについては,経験の浅さ故に気づいていなかったりもするのだったが。

「ふぅ」

風こそ暖かみに欠けてはいるが,うららかな日だまりのココは授業の合間の学生達でにぎわう憩いの場。

華やかに笑う熱帯魚のような女子大生の群れから,髭の小汚い男子学生,大学へ営業のサラリーマン等々,黙ってても人が渦を巻きつつあるベンダ前であった。





「…アレ,香里,今日はもうアガリなの?」

「…うん。家庭教師のバイト先のコが今日熱出しちゃってお休みになったんだ」

そんな中,ベンチに体を預ける美汐と木蓮を挟んだ向こう側でこのガッコの学生同士とおぼしき女のコ二人組が,ベンダ売りにしてはなかなかな香りのカップのレモンティを片手に,つかの間のティーブレイクに興じ始めた。

「…お,すると,彼とデート?」

「…そ!と言いたいトコだけど今日は彼ぷち帰省で部屋にいない日なのよ」

(…あの声は…)

ソレは,次の授業までの間,長くも短くもない中途半端な時間をどのように過ごそうか,美汐が思案に入るか入らないかのタイミング。

ゆっくりと横目で確認するソコに居るのは,容姿端麗・学業成績優秀・性格明朗で後輩一同から「あーゆう人があこがれです」と慕われポジティブな方面での各種ランキング在学中一位の名をほしいままにしていた我が高校の先輩にして,相沢祐一と目下交際中であるところ(美汐にはあらゆる意味で信じられない話ではあったが)の美坂香里の姿であった。

「3限出てたはずのに,もう携帯つながんないから多分電車よ。あのバカー」

「ふふふ。仲の良いこと結構ですこと♪」

「何よそのやらしい笑いは」

「いえいえ,ごちそうさまごちそうさま♪」

(…まさか美坂先輩,相沢さんが寝込んでること知らないのでは?)

香里が続ける級友との会話を耳ダンボで聴く美汐はふとそう思う。
…口の中に広がるダージリンの香りの中に思い出すのは,今にも死にそうな携帯の向こうの祐一の声であった。

「…ね,そんなら今日これから買い物行かない?来週からモールでバーゲンだから,下見を兼ねて♪」

「んー,それもいいかもね。でも,今日は妹とデートの約束があるんだ。ゴハンして映画だから家帰るのは門限ギリギリなの」

微かに,自分の耳が反応するのが美汐にはわかった。

−コレハ,ホントニ,モシカシテ。

「…ね,来週の月曜は?」

「あ,その日は私が彼とお出かけなの」

「…ほほー。いいなあ,緊密な交際ぶりで♪」

「…何よそのやらしい笑いは?」

「言葉通りよ」

「うう,返された。…ま,ソレはソレ,そんじゃ何時いこっか?」

「…そーねぇ…」

「………♪………」

「…?…!」

「……」

「…」





友人との会話を終えた香里が,トートをジャケットと共に抱えてその場を後にする頃,美汐の姿は既に校門をくぐり抜けていた。

形容しがたい衝動は理性とかそういったもののタガをいとも簡単にはじき飛ばせるものだなあ,といつもの美汐ならあるいはそういう風に考えてフツーに帰途についたのかもしれないが。

(…あいざわさんがおへやでひとり…かぜひいてけいたいでんわとれないくらいぐあいわるい…みさかせんぱいはこんばんいっしょにいられない…あいざわさんがおへやでひとり…あいざわさんがおへやでひとり…)

自分が何とかしなくちゃ,という思いとかいつもの世話焼きの延長だとか各種言い訳を心の中で考えてるうちに割とあっさりとバーストするあたり,美汐もまた,彼女の思う誰かにしか押せないスイッチを心の中に持つオトシゴロな少女なのであった。

「…お待ちになっててくださいね」

気の置けないがさつだけど優しい先輩への,ソレと気づかぬ,距離を詰めたい恋心。

「…あなたのことを気にかけているのは,美坂先輩だけではないのですよ」

祐一へと続くハイウエイ,いろんな意味でどれほどのミチノリかはわからない。

「今,参りますから」

そうひとりごち,キッと前を見据えるのは誰にも見せたことのない美汐の決意のヒトミであった。





「はい,できましたよ?祐一さん」

祐一が頭だけ起こしてみるソコには,鍋つかみの両手で土鍋を抱えた,エプロン姿の秋子さんの姿。ほんわりと湯気の立ち上る鍋の向こうの秋子の微笑みは,さながら天使のように見えるのだった。

(…くっ!)

よっこら,と上体を起こしてベッドに座る祐一だが,体に走る悪寒がベッドから降りることを許してくれない。

「いけませんよ,祐一さん!」

「…!」

秋子は,土鍋を片付けていないこたつの上に載せると,何とかベッドから降りようともがく祐一を,支えるようにベッドへとやさしく押し戻す。

肩から胸へと触れる秋子のカラダの温かさと柔らかさ,香水かシャンプーか,そういったモノと絶妙にブレンドされた秋子の香りが,祐一の体を優しく包む。

「…はい。いい子にしましょうね♪」

よしよし,と祐一のアタマを撫でながら秋子さん。幼子をあやすようなその仕草に,若干の情けなさを感じつつも思い通りにならない体では,力無く息を付くしかない祐一であった。

「…さ,秋子特製のおかゆさんです。…食べさせてあげますね?」

言うや秋子は,ベッドの横にちょこん,と腰掛け,祐一に断りを入れて鍋敷きにした雑誌に土鍋を乗せると,細かく刻んだエビ,かに,ホタテなどの海鮮や鶏肉,卵,ワケギや野菜等のたっぷりと入ったおかゆをレンゲでひと掬いし,「ふー」とちょっとふき冷ますと祐一の口元へと運ぶ。

『イヤそんな悪いです!自分で出来ます!』

そうルーズリーフに殴り書きして秋子に示す祐一。焦り気味のせいかどうかは知らねど,発熱もあいまって顔は真っ赤である。

「あらあらいいんですよ?どうぞご遠慮せずに♪」

『ホントいいです。出来ますから!』

「…そうですか」

あくまで自分で食べると言い張る(書き倒す)祐一に,残念そうにレンゲを渡す秋子。

「………」

「あの,ホントにだいじょぶですか?」

祐一の悪寒に震える手は,どう見てもマトモにレンゲをつかめてない。も少しおかゆの粘性が低かったなら,毛布の上を著しく汚してしまっていたであろう。

「…はい♪」

半ば強引に祐一の手からレンゲを奪い取った秋子は,めっ!と悪戯っぽく笑うと,もう一度お粥をすくい取って冷まし,祐一の口元へと運ぶ。

「あい,あーん♪」

ちょっと嬉しそうな秋子に,祐一はさらに顔を赤くしてバツ悪げ。
…しかしながら,今度の秋子は,祐一から目を逸らすことをせずに,ちょっと諭すような眼差しのまま。

(…すいません)

目だけで,ちょこっとすまなそうに謝ると,祐一はためらいがちに口を開けた。





…確か相沢さんのお宅にはガスコンロ有りましたよね」

もう陽もほとんど落ちかけたそんな頃,ココは祐一の家からほど近い商店街のハズレにあるスーパー。

とりあえず田舎の二駅という結構な距離を乗り継いで祐一の家の近くまで来てみたものの,ただお見舞いに行って驚かせてやるだけでは祐一のココロに効果的なダメージ(何のだ)を与えることなんか出来そうにない。

「…それなりに品揃えは良いようですね。ソレでは参りましょうか」

ココは一つ,風邪引いた時におばあちゃんがよく作ってくれた,我が家秘伝の特効薬と,体に優しい雑炊とか。
単に口やかましい後輩としてだけではない,よくできた女のコたる自分を祐一に刻み込んでやろうとの意気込みも健気な美汐さんであった。

「地鶏のいいのがありますね。後は果物でしょうか?」

値段と品質とご相談しながら,割と多めの中身の買い物かごをレジへと持ちはこんでいく。

「はい,消費税含めまして2,450円になります♪」

「…コレでお願いします。」

「はい,それじゃおつり550円ね♪毎度ー」

にっこりと微笑む店員のおばちゃんに見送られながらスーパーを出る。

「思ったより買い過ぎてしまいましたか…」

見上げる夕日はすっかり夕暮れの色を身に纏っている。美汐は随分と寂しげになってしまった財布の中身を少々嘆きつつも,

「さて,あまり遅くならないうちにおじゃまするといたしましょうか」

買い物袋の取っ手をぎゅうと握りしめつつ,坂の上の祐一の部屋へと向けて歩み出す。

「…もし,重篤な状態ならばどうしましょうか。携帯にもあれきりお出にならないですし」

それにつけても気がかりなのは祐一の体調。普段ならガッコに行けば当たり前のように接することの出来る祐一の顔に憎まれ口。

時々そのがさつさにいい加減さがイヤだったりするけどふと見せる優しさにあの笑顔。
そんな祐一に逢うことができないのは結構寂しい美汐であった。

「…相沢さん」

少々強めの一陣の風に落ちた前髪の下で,ふとつぶやく美汐。

「…少々あざといかとは思いますが−美坂先輩。恐れながら反省の気持ちはございません」

昼間あれだけ香里の至近距離にいながら,祐一の体調について話さなかったことについて,である。そして,

「−距離,詰めさせてもらいます」

誰にともなく宣戦布告。手負いな獲物,仕留めるなら今!









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