えさ
水が湧き出る。山の上から流れる。色々あって海へ出る。一つのサイクルである。
針をつける。餌をつける。振りかぶる。川へ落とす。一つのサイクルである。
「祐一」
「何」
「わたし飽きたよ?」
「……」
渓流釣りである。
爽やかな水のせせらぎが響き、木漏れ日もゆるやかな林の中、相沢祐一とその従妹であり恋人である水瀬名雪は、渓流釣りという地味ながらも高尚な遊びに興じていた。
だが、基本的に釣りというのは魚が上がってこそ愉快な遊びなのであって、早朝から奇跡的な起床を見せた名雪の努力もむなしく、この日は一匹のマスもかかってはいなかった。
故に、「飽きた」という言葉も従妹の口から平然と出てくる。
「お前な、釣りっていうのは待つものなんだぞ? 自分との戦いだ。それをお前、飽きたとか言うなよ」
「だって朝から居るのに全然まったく微塵も釣れないもん」
手ごろな大きさの石に腰を下ろし、自分の腿に両肘を立てて、その上に乗せた顎を無理やり開きながら名雪は文句を言う。祐一としても面目ないことこの上ないのだが、如何せん釣れないものは釣れないのだ。おまけに、やっているのがフライフィッシングともなれば最早責任は誰にあるのか明白極まりない。
ロッドを捻り、あたかもそこに餌があるかのように川面を舞わせ、落とす。無常にも流れていくフライ。
「名雪」
「なに?」
「飽きた」
「えぇー……」
申し訳なさは勿論ある。釣り立ての魚を食わせてやると豪語してから、胃に入ったのは行きがけに買った菓子パンだけなのだ。だが、こうも見事な坊主だと最早謝罪するしかない。
川から目を逸らすように名雪に向き直ると、スナック菓子の袋へ手を入れる彼女の姿。目が合うと、ちょっと唇を尖らせてから肩を竦めて見せるだけだ。
「ごめん、無理」
「む、無理って祐一……」
「っていうかさ、魚ってフライブン回しただけで本当に惑わされるのか?」
「わたしは知らないよ」
「餌つけて投げた方がいいような気がしてきた……」
「これつける?」
モリモリと油脂分たっぷりのスナック菓子を咀嚼しながら、袋を掲げる恋人。
この際何でもよかった。
「よし、やる」
「えっ、ウソ」
「発想の転換だ!」
言うが早いか、祐一は名雪から袋ごとスナック菓子を奪うと、小さめのものを針に突き刺した。ロッドを捻る。舞い上がるスナック菓子。
少し間を置いてから、ぽちゃ、と油菓子は川へ落ちた。同時に、離れた所で魚が、ぱちゃ、と跳ねた。
「だめだね」
「……駄目って言われると俺が全てを否定されているようで切ない」
「敗残の味だな」
「美味しいよ」
結局、近くの売店で思い思いに食料を買い込むことにした。ごく普通の味しかしない御握りを片手に、祐一は背を丸める。対して名雪は苺の入った何かであろう食べ物にご満悦の様子だった。
「いや、本当はちゃんと魚を食わせてやりたかったんだけど」
「ううん、いいよ。そういう気持ちだけでも嬉しいし」
「優しくしないで!」
「あはは」
笑いながら、名雪はスニーカーを脱いで裸足になった。浅瀬を選び、恐る恐る川へと足を進めていく。
「冷たくて気持ちいいよ」
「そうか」
「魚も居るよ」
「そりゃ居るだろ」
言うが早いか、サーモンを狩る熊の如き姿勢で川へ手を突っ込む名雪。無論奮うワケがない。
「あ、逃げられた」
「竿使って逃げられるんだから手掴みは無茶だって」
「祐一もおいでよ、気持ちいいし」
サーモンハンティングには飽きたのか、手招きをしながら名雪が上体を捻る。と同時に、足元がぬかるんでいたのか、バランスを崩した。スローモーションの世界。
直後、ばしゃんと大きな音と水しぶきを上げて、名雪は大自然の子と化していた。呆然と川の流れに尻餅をついている姿は、聊か彼氏バカの過ぎる祐一にとっては可愛らしく映る。
「冷たくて気持ちよさそうだな」
「うー……タオル、持って来てたっけ……」
「小さいのなら」
リュックから出てきたタオルの、言葉通りの小ささに、名雪は項垂れた。
「これじゃ流石に風邪引いちゃうよわたし」
「脱いじゃえよ。他に誰も居ないし」
「……うん、そうする」
辺りを改めて見回し、僅かな葛藤を経てから、名雪はシャツとジーンズを脱いだ。見覚えのあるブラに視線を奪われつつ、申し訳程度のタオルとびしょ濡れの衣類をトレード。祐一は、なるべく日の当たりそうな枝にそれをかけてやった。
「寒くないか?」
「ちょっと」
「着とけ」
「うん」
祐一が手渡したボタンダウンをさらっと羽織ると、それはそれでインモラルな水瀬名雪の完成だった。寒い所為か機嫌は悪そうだし、唇は尖らせているが。
「エロいな」
「祐一がいけないんだよ!」
「俺の所為かよ!」
「祐一がポンポン釣ってくれてれば今頃あったかいお魚食べてデリシャスって言ってたんだよ!」
「いや……それはそれとして名雪はやっぱりぼちゃっと行ってるような気がする」
「そんなにマヌケじゃないもん、わたし」
むっとしたような顔を見せてから、名雪はすばやく川に片足を入れた。
何をする気か読めた瞬間には、祐一も同じように全身に水を浴びていた。名雪が、水をかけてきたのである。
「あっはっは」
「ブッ飛ばすぞ」
「バカにした罰だもん」
自ら巻き上げた水で、羽織ったシャツすら濡らしながらも、名雪は胸を逸らした。そんな彼女の、透けてしまっている下着や、太陽を跳ね返す水滴が、言いようもなく祐一の感情を駆り立てる。
奪うように、貸したばかりのボタンダウンを脱がした。驚いた顔の名雪に、自分のそれを近付ける。
「え、ほんき?」
「俺はいつでも真剣だとも。釣りにしたって何にしたって」
「……魚じゃなくて祐一が釣れちゃったね」
「何なら竿も使うがいいさ」
下品なジョークを口でふさいで、名雪は笑った。
遠くで魚が跳ねた。一説には、魚が跳ねるのは足りない酸素を補うタメとも言われているが、こう熱い水面ではそれが適ったかどうか、怪しいものである。
END