――なぁ、こんな話を知ってるか?
――何、藪から棒に?
――この学校にはバレンタインを台無しにする男がいるらしい。
――……ただのモテない僻みじゃないの、それ。
――そう言われると二の句を継げないんだが……あくまで又聞きだ。伝承でも聞いてるつもりでいてくれ。
――……まぁ、わかったよ。
――去年の2月14日、放課後のことだ。ある女子生徒が意中の男子生徒にチョコレートを渡そうと、渡り廊下で待っていたんだ。
――去年て……伝承でも何でもないじゃん。ただ噂じゃん。
――その男子生徒が部活を終えた男子生徒が、いつもそこを通ると知っていたからなんだが……ある不都合が起きた。
――うん、無視すると思ってたよ。
――その男子生徒が訪れる前に、大柄の男が現れた。するとその男は突然女子生徒に襲いかかり、チョコの入った箱を奪ってしまったんだ。
――……随分ワイルドな追い剥ぎだね。
――男は乱雑に封を開けると流し込むようにチョコを貪り、飲み込み、蹂躙し、立ち去った。その場には泣き崩れる女子生徒と甘い香りが残されたらしい。
――残り香と一緒にされても泣くから。女子生徒。
――ちなみにその後、のうのうとやってきた男子生徒はその女子生徒を発見し介抱、数日後晴れて付き合うことになったらしい。
――まさかの結果オーライ!?
――しかし『バレンタインデー』という特別な日を壊したことには変わらないだろう? それにこの日、この男と同一犯だと思われる事件が複数件あったらしい。
――いやもう、噂でも何でもないよね……事実じゃん、ただの。
――それからその男は真しやかに、こう語られるようになったんだ……。
――……僕に聴かせてる意味、あるのかな。
リトバス☆漢祭
〜危急存亡・バレンタインクラッシャーを追え〜
闇に包まれた廊下に足音が響き渡る。辺りに人影はない。つまりこれは自分の足音なのだろうと思う。
身体の周りに篝火が灯され、渦巻いているように熱を感じ、じわりと汗が滲み出る。手足が水に浸かっているように重い。胸の鼓動が速い。身体中が酸素を欲していることに気付き、大きく息を吸った。本音を言えば水が欲しいが、今はどんなに欲したとしても手に入らないだろう。我慢することにした。
窓の外を見た。2月の夜は空気が澄んでいるからだろうか。満点の星空の中、薄雲に浮かぶような月が見えた。少しだけ欠けた月はまるで自分の姿を見ているようで、何だか少しおかしかった。
「――足りない」
思わず口にしていた。
2月も中旬を迎えようとしている月はほとんど満月に近く、ほんの少しだけ欠け落ちたように足りていない。だがそれは己の身体も同じだった。
確かな身の充実を感じる。水分こそ得られていないものの、地を踏み締める感覚、強く握り締める掌――熱い血潮が体内を走る感覚は心地良ささえ感じ、籠る熱を排するかのように息を吐いた。
しかしこの身体は欠けている。だがこれほどに感覚が研ぎ澄まされていようと、それが何なのかはわからない。いやむしろ、研ぎ澄まされているからこそ欠けているということに気付けた、そう言っても過言ではない。
この身体は足りていない。今は少しの違和感でしかないこの感覚も、いずれか顕著になっていき、この身体をじわりじわりと染み入るように蝕んでいくのだろう。途端に一抹の不安が過った。
身を包んでいた熱気が冷え始め、流れ出る汗が冷たいものに変わっていくのがわかる。一層闇が深くなっていき、辺りを包む。月が陰ったのだろうか。月明かりのない廊下は先が見えず、足音が途絶える代わりに胸が大きく鳴ったのがわかった。
己が足りていないことへの強迫観念か――それとも闇の訪れへの恐怖なのか。自分ではわからない。
代わりに走ることにした。鼓動を誤魔化すためかもしれないし、恐怖を紛らわすためなのかもしれない。もしかするとそれらを信じることができず、ただ逃避しているだけかもしれない。走っている、ただそれだけが事実として自分の中にあった。
さほど廊下は長くなく、駆ければあっという間に扉に辿り着いた。ドアノブに掛けた逆の手で腹部を押さえる。そこには刺さるような痛みがあった。早く、早くこの場を去らなくては――!
◇
「うおおおおおおおおお腹減ったああああああああああああああああッ!!」
――ということで。
◇
「――そんなわけで昨日は大変だったんだ、これが!」
「それはこっちの台詞だよ!」
隣の席に座って大笑いしている真人に、僕はそう突っ込んだ。僕らの目の前に立ち、話を聞いていた小毬さんとクドは苦笑いをしている……その表情のわけは明白。僕らの話の内容があまりにも突拍子もなく、あまりにも馬鹿げていたからだ。
そう、昨日は大変だった……夕食後にトレーニングに出た真人は消灯時間を過ぎても帰ってこず、仕方なしに僕は床に着くことにした。そして聞こえた、あの叫び声。
『うおおおおおおおおお腹減ったああああああああああああああああ……!!』
飛び起きるというのは、正にああいうことを言うのだろうと思う。獣の雄叫びに似たそれは真人が言うに、校舎を出たところで叫んだものらしい……それが僕の耳に届いたということは、寮生のほとんどが耳にしたということではないだろうか。
「あれ、真人くんの声だったんだ……」
「わふー……びっくりしましたー」
……やっぱり聞こえてたらしい。
その声で真人が戻ってくると思い、起きて待っていたのだけど――それからがまた大変だった。
『理樹! 大変だ!』
もう深夜だというのに、真人は足音を殺すこともせずドタバタと廊下を走り、そう叫びながら戸を開けた。
『真人……わかったから静かにしてよ。もう深夜――』
『腹が減ったんだ!』
……僕はその時、自分の耳を疑った。しかし何度反芻しても聞き間違えには思えなかった。面倒なことになりそうな予感はしていたけど、仕方がないので訊き返すことにした。
『真人……今なんて?』
『オレは腹が減ったんだよおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!』
物凄く案の定だった!
最初の叫び声は遠かったし、人によっては犬の遠吠えか何かだと思って気付かない場合だってあっただろう。しかし今度は寮内だ。初めは両隣の寮生、次は同じ階、その次は上下……安眠を妨げられた生徒たちは寝惚け眼に怒りの表情を浮かべ、僕らの寮室に殺到してきたのだった……。
「――というわけだ!」
「いや説明したの僕だから! さも当然のように手柄を奪わないでよ!」
またもや隣の席に座って大笑いしている真人に、僕はそう突っ込んだ――しかしこの話をしていると、周りからの視線が痛い。流石に二度目は女子寮までは届かなかったらしいが、男子寮は爆心地だ。中には真人のせいで睡眠不足だ、という男子生徒もいるに違いない。当然僕もその一人だけど。
「というか、お腹減ったんなら自分で作りなよ……」
僕の場合、睡眠不足の主な理由はそっちだったりするけど。きっとこの学校の寮で、あんな深夜にフライパンを振るったのは僕が初めてだろう……実にどうでもいい称号を手に入れてしまった。
「はっは、腹いっぱいでぐっすりだったぜ!」
……視線の鋭さが二割増しになった気がする。
「でも……井ノ原さん、お夕食は頂いたのですよね? ならどうしてそんなにお腹が空いてしまったのです?」
「うーん……あとそんな時間まで何してたのかも気になるよ?」
話を聞いて疑問を持ったのか、僕も訊きそびれていたことを二人が訊ねた。うん、こういう時のクドと小毬さんの無邪気さには救われる。
その言葉に真人はきょとんとしながら答える。
「何って……さっきトレーニングって言ったじゃねえか。それでカロリー使い過ぎちまったんだよ」
「「…………」」
今度は僕らがきょとんとする番だった。
「冬場は寒いからなー、よく身体を温めねえと。それでこの時期はつい動き過ぎちまうんだよなー」
口軽めに真人が言葉を続ける。が、僕らは二の句が継げない。開いた口が塞がらないというのは、正にこのことを言うのだろう。ちなみに"僕ら"というのは、僕ら三人のことだけではない。今の話に聞き耳を立てていた昨夜の被害者一同も含まれる。
「…………」
――ただ一人を除いて。
◇
昨日より少しだけ満月に近付いた夜だった。
廊下に甘い香りが立ち込める。ドアの隙間から灯りが漏れているのがわかった。間違いない、この香りはあの教室から漂ってきている。
足音を殺し、ゆっくりとその教室に近付く。闇の中にいたせいか、遠くからでもプレートが読めた。なるほど、この甘い香りの正体がわかる。歩を速めた。
――それを手に入れるために。
◇
「バレンタインクラッシャーが現れたらしいな」
一限目終了後の休み時間、いつものように窓から降り立った恭介がそう言った。
"バレンタインクラッシャー"――それは数日前、恭介が僕に話した伝承……いや噂に出てきた、追い剥ぎ男の通り名だ。今回の情報が間違いでなければ、バレンタインクラッシャーは実在することになる。
「……って、まだバレンタインには早いけど」
「昨日の夜、家庭科室で作ってるところで襲われたらしいな。直前の放課後とかは混むし」
「……なるほど」
この学校の生徒は寮生が大半を占める。既製品ではないものを渡したいのであれば、学校の施設を借りるしかない。それが例え虚偽の申告や無断だとしてもだ。
そう考えるとそれを見越して現れた犯人……バレンタインクラッシャーは、意外に頭の良い人物なのかもしれない。いややってることは頭の悪さを露呈するかのようなことだけど。やってることは小さ過ぎ、そしてその割に被害が大き過ぎる。ハイリスクローリターンってやつだ。
しかしそうだとしても、これは事件に間違いない。例え小さくても、人を傷付け、自分の欲を満たしている人間がいる限り、これは公にすべきものに違いない。
「犯人の情報とかはないの? 今度は作ってる途中だったんだから、顔ぐらいは」
「いや……残念ながらその時は教室から離れていたらしい。理由は本人の希望により伏せておく」
そこまで言っちゃうと、言っても言わなくても同じような気もするけど……まぁ、僕が聞かなかったことにすればいい話だ。真人辺りなら気にせず訊き返しそうだけど。
「ただ暗がりの廊下を徘徊する男は見たらしい……それが犯人なのかはわからないが」
恭介はそう言い、小さく笑う。何故恭介が笑みを浮かべたのかは、付き合いの長い僕ならわかる。不謹慎だと怒られるかもしれない。でも仕方がないことだな、と思う。それは何故か――それは実に簡単なこと。僕も笑っていたからだ。自分が抑えきれていないことを、どう咎められるだろうか。
「恭介……その男の特徴は?」
「大男なのは確からしいが……何せ暗がりで後ろ姿だ。そこまで当てにはならないだろう」
犯人への憎悪――嫌悪感――嘲笑――侮蔑――呆れ――そうした感情は確かにある。それはどんな犯罪者相手にも言えることだろう。もちろんどこか理解すべき部分もあるだろうけど、概ねはそうした感情が先行する。
でも僕らは笑い合った。子供のように、いつものように、何か悪戯を思い付いたように、唇を端を吊り上げて笑い合った。話している内容も、また口調も、真面目そのものだというのに、身体の奥から染み出てくるそれは表情に現れ、互いに伝わった。
大切な思い出を潰されてしまった人には大変申し訳ないと思う。でもこれは僕らの本能のようなもので、抗いようのない事実だ。悪癖だと言うこともわかってる。けれど僕と恭介が共有している思いは一つに違いなかった。
「放課後、皆を集めておくよ」
「ああ、よろしく頼む」
――ああ、面白くなってきたなって、そう思っているんだ。
◇
他人からすれば下らないことだと思う。しかし毎日のように馬鹿馬鹿しいことをやっている僕らからすれば、今回の一件は素晴らしいミッションに違いなかった。それに今のリトルバスターズは昔と違い、決定的に違うことがある。
「――それは許せませんっ!」
教壇の上に立った恭介が去年、そして今年の事件について一通り話すと、いつもはストッパー、もしくは巻き込まれる側の小毬さんが、そう語気鋭く立ち上がった。そしてそれに同調するように他のメンバーも立ち上がり、それぞれの意見を言い合い始める。
「……上手くいったみたいだね」
「ああ、何だかんだで"女の子"だからな」
リトルバスターズの、昔と今の違い……そう、それは男女比だ。結成した頃は鈴一人しかいなかった女の子も、今となっては男性陣よりも多い。決定権こそ恭介にあるものの、現在の構成になってから女性的なイベントが増えたのも確かだ。
バレンタインデーは女の子の味方だ。公的に好きな人へ想いを告げることをバックアップしてくれる、年に一度の大切なイベント。つまり逆に言えば、バレンタインデーの敵は女の子の敵――つまりバレンタインクラッシャーとは、女の子の敵ということになる。
「皆で協力してバレンタインクラッシャーを捕まえましょー!」
……特にお菓子大好きっ子の小毬さんはそれが顕著で、親の仇に復讐を企ててるんじゃないかと思えるぐらいに燃えている。バレンタインクラッシャー、ある意味恐るべし。
「去年から続いているということは、犯人は二年か三年――そして大柄の男だ」
冷静になれと言わんばかりに、恭介が溜息混じりで言った。
恭介の情報によると、昨夜事件に遭った女生徒は女子の平均程度。その子が大男と言うのだから少なくとも180cm前後はあるだろう……もちろん見かけた大男が犯人とは限らないし、何しろ真っ暗の廊下だ。見間違いということもある。
しかし――それが通じるほど、この世は甘くなかった。
「確か謙吾少年は180cmを越えていたな?」
窓際の柱に寄り掛かっている謙吾に、そのすぐ傍で席に着いていた来ヶ谷さんがそう訊ねる。
「ああ、春の検診では180cm丁度――」
……と、そこまで言ったところで謙吾は急に黙り込む。そして俯き、脱力し――その場に倒れ込んだ。
「――連れて行け」
来ヶ谷さんがそう言うと小毬さんと葉留佳さんが謙吾の両手を掴み、ずるずると引っ張って廊下へと向かって行く……ってちょっと待った!
「け、謙吾!? 来ヶ谷さん何したの!?」
ようやく思考が状況に追いつき、声を出すことができた。それでも尚謙吾は引きずられて行くし、来ヶ谷さんも優雅に乱れた髪を整えている。そして整え終えてから、一言。
「――峰打ちだ」
「それ場合によっては死に至るから!」
容赦なさ過ぎる!
と突っ込んでいるうちに小毬さんと葉留佳さんの姿はなくなり、当然引っ張られていった謙吾の姿もなくなっていた……きっと気が付き次第、拷問染みた取り調べが始まるのだろう。というか、二年と三年の大男全員に同じことをやるのだろうか……。
「……さて、次は真人少年だな」
その言葉が紡がれたとほぼ同時、自分の席に着いていた真人は飛び上がるように立ち上がり、身構えた。目に見える抵抗の意思。
「へっ、同じ手なんて喰うかよ……オレを謙吾なんかと一緒にするんじゃ――!」
……と、そこまで言ったところで真人は急に黙り込む。そして膝が折れ、脱力し――その場に倒れ込んだ。
倒れた真人の後ろから現れたのは西園さん……そしてその手には、見慣れない機械。
「――連れて行って下さい」
西園さんがそう言うと鈴とクドが真人の両手を掴み、ずるずると引っ張って廊下へと向かって行く……ってちょっと待った!
「何その無駄に手の込んだフェイク!? というかそれ何!?」
再び思考が状況に追いつき、声を出すことができた。それでも尚真人は引きずられて行くし、西園さんは手にした機械をバチバチと鳴らしている。そしてスイッチから手を離して、一言。
「――峰打ちです」
「それスタンガン! 峰存在しない!」
突っ込みどころがあり過ぎる!
と突っ込んでいるうちに鈴とクドの姿はなくなり、当然引っ張られていった真人の姿もなくなっていた……って同じパターンだよ。もう無事を祈ることしかできないよ……。
そして教室に残されたのは四人。そのうち二人の視線が、教室前方――つまり教壇の上に立つ恭介と、その前に座る僕に向けられる。その目は獲物を見つけた肉食獣。胸の鼓動が大きく波打つ。冷たい汗が頬を流れる。そして喉の渇きを感じた。
でも大丈夫だ。謙吾と真人は明らかに大男だけど、僕らは細い方だし、お世辞にも長身ではない……生まれてから、初めて自分の身長に感謝した。それはとても悲しいことだけど。
「ふむ……恭介氏は見方によっては長身に見えそうだな」
なにその無差別。
「わたしたちも、なるべく手荒な真似はしたくありません……」
バチバチしながらじゃ説得力がない。
西園さんは教室の後方、そして来ヶ谷さんは真ん中ぐらいに位置している。だから恭介は僕さえ見捨てれば逃げることだって可能だろう……もちろん捕まった時のリスクを考えたら、最良の策とは言えないけど。
「はは……」
恭介が笑った。小さく、思わず漏れて出てしまったように。
そうだ、恭介は僕らのリーダーなんだ。僕なんて及ばない域にいる、絶対的な策士だ。こんな暴力なんかに屈服せず、この場をやり過ごせる策を見つけたに違いない――!
「――俺は自首する」
「弱っ!?」
しかも自ら被疑者になってるし。
「流石恭介氏、賢明な判断だ……貴公に敬意を称し、手錠は掛けずに連行しよう」
いつ逮捕状が出たのだろうか。
来ヶ谷さんがゆっくりとこちらに歩み寄る。一歩、また一歩と恭介に近付き、その隣に立った。恭介は寂しそうに笑い、こう呟いた。
「……今まで楽しかったぜ、理樹」
今から絞首台にでも向かうのであろうか。
そして恭介は一度も振り返ることもせず、教室を去った。扉から出て行く時に、背を向けたまま手を振って――うん、きっとそういうシーンなら感動できたんだろうな、と思う。敵も味方も突っ込みどころが多過ぎる。そんな数分間のやり取りだった。
教室には僕と西園さんが残される。多くの犠牲は払ったものの、一応これで一件落着なわけで、いつも通りに接してもいいはずだ……西園さんの手にはまだスタンガンが握られてるけど。なにそれ怖い。
「はは、今回に限っては身長が低くて助かったよ……」
苦笑いしかできない。本当に怖い時は笑ってしまうらしいけど……なるほど、今の僕はそれに近いのかもしれない。
すると西園さんは奥歯に物が詰まったような……いや、少し困ったような表情を浮かべる。そして首を傾げ、こう答えた。
「……直枝さんはあげる側ですよね?」
「そこ!? そこで見逃されたの!?」
――そんなわけで釈然としないものだけが残った、バレンタイン二日前の放課後。
◇
『酸素が美味い』
『当たり前が一番幸せだよな』
『生きてるって素晴らしい』
――以上、証拠不十分により解放された被疑者三名によるコメントでした。
そんなわけでリトルバスターズ女性陣の乱心から数時間後、三人は無事(?)に解放され、僕らは再びこの四人で、この場所――僕と真人の寮室に集まれたことに喜びを覚えた。
「俺たち……古参メンバーだよな……?」
そして哀しみを覚えた。男尊女卑――レディファースト――もはやそんな言葉は死語なのかもしれない。
「許すまじ、バレンタインクラッシャー……!」
「あ、ここで本筋に戻るんだ」
でも八つ当たりにも見えるのは何故だろうか。
それはさておき、夕食を終え、入浴時間帯である午後八時現在。昨夜バレンタインクラッシャーが現れた時間まで、そう時間はない。一応小毬さんたちも可能な限り巡回したりもしているようだけど、それでも全てがカバーできるわけではない。
「これだけ騒ぎになってれば、現れない気もするけど……」
昨夜の事件は既に多くの生徒に知れ渡っている。元々噂されていたところにリトルバスターズ女性陣の呼びかけも相まり、特に女子生徒は警戒心を高めている。ターゲットもいないのに現れるなんて、どうぞ捕まえて下さい、と言っているように思えてしまう。
しかし僕のそんな意見に、窓際に腰を下ろしていた謙吾が異を唱えた。
「普通はそう思うだろうな……だが、だからこそ裏をかいてくる可能性もあるんじゃないか?」
その意見にも一理ある。それにそもそも、昨夜バレンタイン数日前だというのに現れたというのも裏をかいた行動の一つだ。ここで大胆不敵に行動を起こしてきても何ら不思議はない。
……少なくとも、僕はそう思っていた。
「――問題は実際に裏をかいているのかどうか、だな」
ベッドに腰を掛けていた恭介の、その言葉を聞くまでは、だけど。
「……恭介、どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ」
その言葉を聞き、僕は少しムッとなる。わからなかったから訊き返したというのに、何故そのような言い回しをするのか。その恭介らしいような、でもどこからしくない台詞に苛立ちを覚えた。
「ま、俺としてはそうあって欲しくないけどな」
そんなことを言いながら恭介は「よいしょ」という年齢にそぐわない掛け声とともに立ち上がり、よれた制服を軽くはたいて身なりを整える。そして「もう行かないと三年の入浴時間が終わっちまう」――それだけ言って部屋から出て行ってしまった。恭介にはそのつもりはなくとも、僕からすれば結果的に逃げられてしまったことになる。
「さて、俺も部の方でミーティングがあるんだ」
「オレも風呂の前にひと汗流してくるぜ」
そう言って謙吾と真人も部屋を去り、僕一人残される。寮生活において一人でいられる機会は少ないのでありがたい時もあるけど、何故だか今回ばかりは釈然としない。「許すまじ」とまで言うもんだから、もっと深く追求するもんだと思っていたのだけど……。
「……ま、いっか」
きっと明日になれば小毬さんたちによる今日の成果が伝えられ、皆もやる気を取り戻すだろう。そもそもその小毬さんたちの取り調べ(という名の拷問)から解放されたばかりで、あまり触れて欲しくない話題なのかもしれないし。
恭介がついさっき浴場に向かったのであれば、あと30分は二年の入浴時間にはならない。その頃には謙吾も真人も自分たちの用事を終え戻ってくるだろうと考え、僕は西園さんから借りた小説に手をやる。今日は宿題もないし、せっかくだから一人という環境を活かしたことをしよう。栞を挟んだページを捲る。
その日はとても静かな夜だった。
◇
――事件さえ起こっていなければ、だけど。
◇
「例えば私がバレンタインクラッシャーだとする」
「はい」
「今日も現れると思うかね?」
「……私見かと思いきや、質問ですか」
「それは期待に応えられず申し訳ない」
「昨日の事件は生徒の間で相当話題になっています。互いに警戒心を高めているはずです」
「ターゲットが少ないのに対し、反比例して自分をターゲットにしている人物が増えている、ということだな」
「つまり今日の見回りは犯人確保が目的でなく、抑止力としての意味合いが強い……と?」
「小毬君や葉留佳君はそうは思っていないようだがね」
「しかし真理でしょう。冷静になればわかることです」
「だからこの行為自体に何ら意味はないんだ。『している』ということを言い触らしておけばそれでいい」
「つまりわたしたちの行為は無駄だと?」
「無駄とは言わないさ。ただ少なくとも、有益ではない」
「ある意味私見ですね。ただしバレンタインクラッシャーではなく、あなたのですが」
「察しが早くて助かるよ」
「あとで怒られても知りませんよ?」
「何、可能性の問題だ。万に一つと言ったところだろう」
「その0.01%の可能性に当たってしまった時は?」
「そうだな……私の手首なり足首なり持って行くといいだろう」
「……別にいりません」
「はっは、冗談だよ。そんなことにはなるまい」
「……わたしは責任を取りませんよ?」
「その時は生爪でも小指でも差し出すさ」
◇
「小毬君……小指は勘弁してくれ……」
来ヶ谷さん、小指より説明が欲しいです。
◇
来ヶ谷さんと西園さんの言い分はこうだ。『今日は現れる確率は0.01%ほどだろうからペアでやっていた見回りをエスケープしてのんびりしてたら0.01%の確率でバレンタインクラッシャーが現れてしまったので来ヶ谷さんの小指で許して欲しい』とのこと。というか最後の行がよくわからない。
そんなわけで万全の態勢を取っていたのに関わらず、己の策……というか理論に溺れた来ヶ谷さんのお陰で二夜連続で襲撃を許してしまった。これは本当に由々しき事態であろう。正にバレンタイン危急存亡の秋――いや冬だけど。
そして危急存亡の秋なのは、バレンタインだけではない。
「小毬さんのハイテンションが仇となったね……」
「はうっ……」
放課後の教室、バレンタインクラッシャー対策……全て昨日と同じシチュエーションだ。けれど決定的に違うのは、女性陣のテンション。そしてそれが特に顕著なのが小毬さんだ。
「えっとー…『バレンタインは私たちが守ります! 皆さんもご協力下さい!』、でしたっけ?」
「うぅー……」
「や、ヤダナーこまりん! ジョーダンですよジョーダン! ……やはは」
無理矢理おどけて見せる葉留佳さんと、そんな冗談染みた言葉にもショックを受ける小毬さん。ちなみに小毬さんは涙目。葉留佳さんは冷や汗ダラダラ。でもそんな風に言っといて、実は自分も後ろで「そーだそーだ!」とか言っていたに違いない。自分を慰めるつもりが小毬さんを傷付けてしまった、と言ったところだろう。
お陰で来ヶ谷さんの小指も無事なのだけど。
前置きが長くなったけれど、つまりリトルバスターズ自体も危急存亡の秋なのだ。それこそマニフェストを守れなかった内閣並の支持率急落っぷりで。
……まぁ、一番の問題は元々支持率がないところに拍車が掛かった、というところなんだけど。
「女子陣がこうも意気消沈ではな……やはり恭介が音頭を取った方がいいんじゃないか?」
「あー……うん、そうかもな」
謙吾の言葉に、やはり恭介はあまり気乗りしない様子だった。昨日拷問のせいかと考えていたけど、こうも歯切れが悪いと何かあるように思える。
「そうだな……昨日の被害状況、わかる奴いるか?」
「聞き込み調査と現場検証は既に終えています」
恭介の言葉に、西園さんがピッと手を上げて答える。なんか色々手慣れてるのがなんか嫌だ。現場検証って……。
それはとにかくとして、昨日の事件。被害者は一年の女子生徒で、チョコレートケーキを作るために学食を利用していたらしい。時間帯は八時半前後。勝手に使っていたらしく、ホール部分の電気は点けずにいたようで、犯人の接近に気付かず、また風貌も見ていないとのこと。
「なんだ、それじゃ全然情報増えてないじゃないか」
鈴が言いにくいことをばっさりと言い切る。どうやらこうしたイベントに疎いのは未だに改善されていないようだ。それに来ヶ谷さんにそそのかされたとはいえ、西園さんだって責任感から調べただろうに……無知が一番非情だ。
しかしそれは西園さんが一番わかっていることであり、またそれで終わらないのも西園さんであった。
「――ではこれを見て頂きましょう」
そして制服の胸ポケットから取り出したのは一枚の写真。恭介は教壇から降りると西園さんの元に向かい、その写真を受け取った。
「……なるほどな」
口調は昨日の一限目終了後のものと同じだった。しかしその口元に笑みはなく、どこか諦念……いや落ち込んでいるようにも思えた。
「ほれ」
そのまま僕に押し付けるように写真を手渡した。隣に座っていた真人と謙吾が僕の肩口から覗き込み、小毬さんたちも前から写真に殺到した。
「これは……ココアパウダーか?」
そこに写っていたのは、床一面にぶちまけられた茶色い粉――来ヶ谷さんの言葉が正しいのであれば、ココアパウダー。その真ん中には残された大きな足跡が数個。
「靴は上履きでしたが、サイズは恐らく28cm前後かと」
28cmにもなると、普通に考えれば相当の大柄だ。これは一昨日の目撃情報と一致する。
もし先に学食のおばさんに見つかっていればすぐさま片付けられていたし、生徒の間で話題になったとしても殺到した挙句に誰がどの足跡で、という事態になっていたかもしれない。
「……捜査の基本は足です」
いやこの中で一番インドアな西園さんに言われても。
「んー……でも、180cm以上の人は皆アリバイがあったのにね?」
「「…………」」
息を飲んだのは僕一人ではなかっただろう。本当にどこまで本気だったんだよ、昨日……。
しかし第一証言に確実性が生まれたところで、僕らにできることが増えそうにない。結局昨日のように注意を喚起し、見回りをするしかないわけだけど……あまり意味はないかもしれない。僕らの言葉に耳を貸す人がいるのか、そして二夜連続の事件発生に手作りチョコを作る人物はいるのかどうか。
「お話を聞く限り、皆さん手作りは諦めてお買いになるそうですー」
クドの言葉に、苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
去年の事件例は渡す直前だけど、それでも製作途中よりはずっと襲われる確率が低い。しかし年に一度のイベント、既製品でなく手作りのものを渡したい人だっていたはずだ。面白がっていた自分に少しばかりの恥ずかしさを覚える。
それに今日は2月13日。確保は無理だとしても、せめて抑止力として働かなければ当日も被害に遭う人が現れてしまう。
「ふむ……ほら、こーゆー時はあれだ」
あんまりこうした場で自分の意見を言わない鈴だけど、皆が意気消沈している中、プレッシャーを感じない存在という意味では貴重だと思えた。
「……おとりそーさ」
「「…………」」
言ってみたかっただけなんじゃないの、それ。
いくらなんでもそんなベターな手に引っ掛かるほど、相手も馬鹿じゃないと思うのだけど。
「「それだっ!!」」
と思ったけど女性陣の食い付きが驚くほどによかった。あれ、僕の感覚がおかしいのかな……。
「皆で買い出しに行って!」
「皆さんで作って!」
「……犯人を誘き出して」
「犯人をボコボコにして」
「バレンタインクラッシャーを捕まえましょー!」
おー、と昨日を彷彿させる気合入れをする。
ちなみに上から葉留佳さん、クド、西園さん、来ヶ谷さん、小毬さんとなっている。聞いてればわかると思うけど(特に来ヶ谷さん)。
そんなわけで僕らの同意も得ず、皆は「早く買い出しに行かないと」「何作ろうかなぁ」「犯人を八つ裂きに」「楽しみだねー」と和気藹々な雰囲気で教室から出て行く。一部殺伐としてたけど。
「俺もそろそろ部活に行こう」
「んじゃ、オレもトレーニングだな」
そのあとに続くように謙吾と真人も出て行く。昨夜に続き、何だか釈然としない取り残され方だ。一つ溜息をついて、バッグを手に席を立った。
「理樹」
しかし昨日と違い、残されたのは僕だけではなかった。その声の方へ振り返る。
「……ちょっといいか?」
そこにはやはり、複雑な表情をした恭介がいた。
◇
寮室に戻ると真人の姿はなく、窓から薄く夕陽が差し込んでいた。恭介を先に通すとドアを閉め、一応施錠しておく。
「さっきの会話の中で、一つ不自然な点に気付かなかったか?」
昨夜と同じようにベッドに腰を掛けながら、そう訊ねてきた。
さっきの会話……というのは当然バレンタインクラッシャーについてのことだろう。しかし不自然な点などあっただろうか。少なくとも僕は気付かなかった。
「どうかな……わからなかったよ」
「じゃあ一つずつゆっくり思い出してみろ。少し考えればわかることだ」
言ってくれればいいのに、と思ったけど、これは恭介のいつもの手法だ。深い同意を求めるには、自分自身で考えさせればいい。恭介はそうした誘導が得意だった。
(最初は来ヶ谷さんの失態だったかな……?)
確かに来ヶ谷さんらしくはないけど、話の筋は通っている。それに誰もがそう思っているけど、それを実行に移せるのは来ヶ谷さんか恭介ぐらいなものだろう。
(次は……小毬さんのビックマウスか)
これも特に問題はないだろう。昨日のテンションから安易に想像が付く。
(西園さんの事件報告……)
一番に考えられるのは写真の偽造だけど、周りから話を聞く限りではこれに虚偽はなさそうだ。被害者である一年のでっち上げという可能性もゼロじゃないけど、違和感を覚えるほどではない。
(アリバイ……?)
これも怪しいけど、昨日のノリ(という軽いものじゃないけど)から考えれば、多分実際に行ったのだろう。6人全員が何かを隠しているということはありえないだろうし。
「……ん?」
小毬さんは言った。『皆アリバイがあった』と。それはつまり誰かが証言してくれた、ということになる。
「……昨日、三人一緒に取り調べ受けたの?」
昨晩から恭介の様子はおかしかった。それまでのターニングポイントといえば、あの取り調べ。それと共通点があるのは、この事柄しかない。いや、むしろ気付いてみればこれしかない、と思えるほどだった。まるでパズルのピースがぱちりとハマったように、ぴったりと。
『ま、俺としてはそうあって欲しくないけどな』
恭介の言葉が甦る。そして恭介が何故そう言ったのかがよくわかる――あまりにもはっきりとしてしまったが故の、気付いてしまったからこその――否定。
「でも、どうしてそんなことを……?」
それが一番わからない。一番わかっているからこそ、それだけがわからない。そんなことするわけない、僕が、僕が一番一緒にいるからこそわかる――!
「それは直接訊いてみなければわからないが――でももう、答えは出ちまったんだよ」
恭介は寂しそうに呟いた。
◇
「バレンタインクラッシャーは――井ノ原真人だ」
◇
囮作戦はその夜、滞りなく実施された。囮部隊は家庭科室組、そして学食組で三人ずつに別れ、その傍に見張りが一人ずつ。そして二人が校舎内を見回るという形式を取ったものの……僕と恭介は知っていた。こんなこと初めから無意味だということを。
しかし無意味だと知っていても、僕と恭介は校舎を見回っていた。いや正確には見回ってなんかいない、こんなところをいくら探したって、犯人なんか出てきやしないのだから。
「まさかアリバイが成立した、ということ自体が答えだとはね……」
そう、来ヶ谷さんたちが取り調べをした180cm以上の人物全員にアリバイはあった――真人以外。しかし来ヶ谷さんたちは勘違いしてしまったのだ、真人は僕と一緒にいるものだと。食事時も、入浴時も、就寝時も。
しかし僕は知っていた。真人はいつも夜にトレーニングに出ている。そして事件が起きた時は、必ず部屋にいなかったことを知っていた。
恭介は返事をせず、ただ歩いていた。二人の足音だけがこの場を支配し、恭介の持つ懐中電灯の光だけがゆらり、ゆらりと揺れて廊下を照らし出す。こんなところに犯人なんかいやしない。あるのは――不安だけだ。
「……今思うと、かなりアホらしい事件だよな」
それは小さな呟きだった。しかし隣に立つ僕にはやたら鮮明に聞こえた。何故かその言葉を頭の中で反芻してしまい、そして、
「……だよね」
――笑い合った。
この出来事の始まりもそうだった。笑い合って、いつの間にか深みにハマってて、気付いたら犯人は仲間で、また笑い合って……そしてここに戻ってきた。
「恭介、バレンタインクラッシャーが現れた前日のこと、知ってる?」
「? ……なんのことだ」
僕は思い出していた。真人が深夜に騒ぎ始めたあの日のこと。
真人は言っていた。『この時期はつい動き過ぎちまうんだよ』と。つまりこの一連の事件はあの日から始まっていて、あれはその予兆であったと言える。
それでも謎は残る。あのように騒いだのはあの日だけで、それ以外の日は目標まで黙って近付き、まるで獣のように素早く獲物を奪って去っていっている。何故バレンタインクラッシャーと呼ばれる者の時、真人は騒がなかったのだろうか。
「……甘いものを食べると頭の回転が速くなる、っていうだろ?」
恭介は僕の疑問に一つの理論を打ち出した。
「――食わないと止まるんじゃないか、あいつの理性」
なにその超理論。
しかし何となくわかってしまうのは何故だろう……。
「あいつは野獣だ。このまま明日を迎えれば、チョコの香りを嗅ぐだけでその全てを蹂躙し尽くすだろう」
大袈裟な。
「……それでいいのか、理樹は」
その理論と表現はとにかくとして、恭介の言っていることはもっともだ。もしこのまま明日を迎え、いつものように過ごしてしまえば……確実に真人はバレンタインクラッシャーと化す。僕の親友が、人の幸せを壊す存在に。
僕は知っている。真人がそんな人間でないことを、誰よりも知っている。超理論が事実かどうかは知らないけど、それが事実であれば、真人の全てが悪いわけじゃないはずだ。
その時、遠くで悲鳴が聞こえた。そしてそれとほぼ同時に、ケータイにメールが届く。来ヶ谷さんからだ。
『チチ キトク スグカエレ』
何故電報風。
でも、一応助けを求めているメールには違いなかった。
「真人を止める――いや、助けよう」
「当たり前だ!」
僕らは夜の校舎を駆け出した。
◇
僕らは二手に別れた。来ヶ谷さんは家庭科室の方で、あの電報(?)が助けを求めるものであれば真人はそっちを襲ったことになる。それに真人はこっちの見張りだったはずだし、香りにやられて我を忘れてしまった可能性もある――ってまるっきり獣扱いなのも難だけど。
「俺は学食に行く!」
「うん!」
見回った結果、今夜校舎にいるのは僕らだけだった。つまり真人のターゲットは、家庭科室か学食。そして家庭科室を襲ったということは、次に向かうとすれば学食ということになる。その守備を固めるためだ。
「来ヶ谷さん! 葉留佳さん! 西園さん!」
灯りが漏れていた家庭科室に飛び込むように入ると、まず強烈な甘い匂いに鼻を突かれた。床が茶色い液体で覆われており、どうやら湯煎したチョコレートのようであった。この匂いもこれが原因だろう。
「火傷はない!?」
「ああ、それは大丈夫だが……」
雑巾でチョコを拭う来ヶ谷さんが机の上へと視線をやる。そこには『業務用チョコレート』と書かれた袋があるものの、チョコ自体は見当たらない。床を覆うチョコが全てではないだろう。
「……残っていたチョコは、全て井ノ原さんが奪っていってしまいました」
「うう、高かったのにナー……」
掃除ロッカーからモップを取り出している二人がそう言った。冷静に努めているように見えるものの、やっぱり皆も思っているだろう。何故、真人がこんなことを、と……。
「お陰でおねーさんのおっぱいチョコが台無しだよ……」
「『チチ キトク』ってそういう意味なの!?」
こんな状況だというのにしっかりと突っ込む僕に、来ヶ谷さんは楽しそうに微笑んだ。
「ま、仕方がないな……真人少年にもそれなりの事情があるのだろう」
「にしても、材料もないし作り直しもできませんネ……」
「明日、皆さんでまた買いに行きましょう」
……もしかしたら僕なんかより、皆の方が真人のことをわかっているのではないだろうか。そう思ってしまうほどに、三人とも穏やかに、そして当たり前のように微笑んでいた。
「……ありがとう」
思ったままの言葉が漏れる。何故か涙が流れ出そうだった。
「そんなことより、早く真人くん捕まえてきて下さいヨ! 人里に現れたイノシシ状態なんだから!」
「……言い得て妙です」
「葉留佳くんは悪ふざけで近付いていってぶっ飛ばされる小学生Bだな」
「キビシー! そしてBってビミョー!」
「葉留佳くんのブラのカップだ」
「い、いや姉御? それはちょっと勘弁してくれません……?」
そんな女子トークに苦笑いしつつ、その場を立ち去ることにした。皆はわかってくれている。ならば僕がすべきことは、たった一つだけだからだ。
懐中電灯は恭介が持っているため、僕は灯りのない廊下を月明かりを頼りに進まなくてはならない。幸いなのは今日が満月で雲もないため、暗闇というほど暗くはないということだ。階段を一段飛ばしで降りていっても問題はない。
そこで再びケータイが鳴る。今度は着信で、相手は――恭介だ。
『すまん! 真人にやられた!』
電話を取った途端、こちらの言葉を待たずにそう叫んできた。
学食の入り口は恭介と謙吾で固めたそうだが、真人は裏口――つまり勝手口から悠々と侵入し、あっという間に形になりつつあったチョコを奪って走り去ったという。
『……恭介さんにあげる分だったのにー……!』
遠くで小毬さんの声がする。
『ちょっ……聞こえてる! 謙吾とか鈴とかに聞こえてる! もしかしたら理樹にも!』
ばっちり聞かせて頂きました。惚気(のろけ)を。
……まぁ、それはとにかくとして、真人は再び勝手口から逃走し、一階の窓から北校舎へ侵入したらしい。
『もしかしたら南校舎に向かったかもしれない! そっちは頼んだ!』
電話を切り、自分が今北校舎の一階にいることを確認して南校舎への渡り廊下へ向かう。もし北校舎にいるのであれば、上には来ヶ谷さんたちがいるし、すぐ恭介たちも来る。ここは指示通りに動くべきだ。
僕はまた駆け始める。
◇
……どきどき、胸が高鳴ります。あの人はおそらくここに来るのでしょう、先回りして待っていることにします。
こんな混乱に乗じて渡すのは、とっても卑怯なことだと思います。それでも私はこんなことでもない限り、勇気を振り絞っても渡すことはできないでしょう。
……どきどき、胸が高鳴ります。こうやって渡すのはとっても卑怯で、本当の勇気ではありません。でもこの胸の鼓動だけは本物。私はそう信じてます。
……どきどき。
◇
僕はすぐに真人の姿を発見した。南校舎三階、僕らの教室で。でもそこにいるのは真人だけではなく、小さな影――いつの間にここに来ていたのか、クドも一緒だった。僕は教室に入ることができず、廊下から中を覗き込む。
「やっぱり井ノ原さんが『ばれんたいんくらっしゃー』だったのですね」
「……おう」
真人はバツの悪そうに頬を掻いた。その口調はいつものものと変わらず、既に元に戻っていた。
「間違ってるってことはわかってるんだけどよ……自分で自分が止められねえんだ」
そう言い、窓の外に視線をやる。その表情はここからではうかがい知ることはできない。
「オレは自分が情けねえよ……鍛えた筋肉を人を傷付けるために使っちまうなんて……!」
近くの机に拳を落とす。ここまで歯軋りが聞こえてきてしまいそうなぐらいに、それは悔しそうな声だった。
「……確かに我慢は必要ですが、それができないー! って人、いっぱいいると思いますよ?」
宿題をしなきゃいけないのに皆さんとお話しちゃうとか、授業中なのに眠くなっちゃうとか、寝なきゃいけないのに読書しちゃうとか、つい部屋にヴェルカとストレルカを入れちゃうとか……クドは指折り数える。
「ですから、これから我慢していけばいいいと思いますっ」
ぐっ、と胸のところで両の拳を握る。きっとその顔には満面の笑みが浮かんでいるのであろう。
「でも……自分じゃ抑え切れねえんだよ……」
もし抑え切れているのであれば、真人はこんな事件を起こしたりはしない。真人がそういう人間ということは、僕が一番わかっている。
「それは……えっと……そのー……」
ここからでもわかるぐらい、クドの様子がおかしい。身をよじらせているように見える。
「が、我慢できなくなったらこれを食べて下さいっ!」
そうしてパッと差し出されたのは、小さな箱。腕時計で時間を確認する。なるほど、その箱が何なのかはすぐにわかった。これ以上は無粋だと思い、僕はその場を立ち去ることにした――今日以降、バレンタインクラッシャーは現れない。そんな確信を胸に抱きつつ。
――時刻は0時。日付は2月14日。俗に言う、聖バレンタインデー。
◇
「わり、食い過ぎて入らねえや!」
「がーん! なのですー!」
……やっぱり真人はバレンタインクラッシャーなのでした。
おわり
【あとがき】
まずはこのような場を設けて下さったRodmate様に多大な感謝を。
そして開会20分前に完成し、15分前に送るという暴挙をお許しになって下さったことに謝罪を。本当に申し訳ありません。
途中まで自分の思惑通りに進んでいましたのに後半で悪癖が出てしまい、ちょっと(´・ω・)ですが、ストーリーラインだけでも楽しんで頂ければな、と思っております。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。
2/14 幹事男
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