「・・・余裕を見せすぎたか・・・・? まさかこの短時間で姿を眩ますとは・・・・」

 冬休みの学校は閑散としており、時々思い出したように吹奏楽の調子はずれな音が遠くから聞こえてくる。「長期休暇中にご苦労なことだ」と呟く来ヶ谷だが、労力の費やし方で言えば、彼女の方が実に“無”意義な使い方であることには気付いていないらしい。
 真冬の校内で鬼ごっこをする羽目になるとは思っても見なかった彼女の格好はかなり軽装だ。部屋着に上着を一枚引っ掛けた程度で、寒さに耐性のないクドと違うとはいえ、さすがに素肌の露出している部位はうっすらと朱に染まっている。ただ突っ立っているだけではかなり堪えるものがあるはずだが、南校舎を背にした校庭の端で、気にする風もなく来ヶ谷は舌を捲いていた。
 西園(小)の逃避行に猶予を与えたといっても、たかだか30秒程度でしかない。こんな短時間、しかもあの年頃の少女の足で、敷地内から出ることなど叶うはずもないと高を括っていたのだが・・・少女の姿は霞のように消えてしまっていた。
 北校舎の外れに位置する食堂から、美魚(小)が向かった先は南校舎を跨いだ校庭側である事は来ヶ谷も三枝も確認済みだ。見当違いの所を探しているわけでもないし、来ヶ谷達の死角を突いて隠れるにしても、ここはあまりにも開けすぎている。来ヶ谷の立っている場所からだと右手に校庭、左手には体育館とその先のグラウンドの全景が見渡せる。奥まった位置にある部室棟と体育館の間が唯一の死角になるが、尖兵として偵察に向かわせていた三枝は、その死角を覗いて―――首を振った。

「こっちにもいないです! 外で探してないところは、もう北校舎裏の寮の辺りしかないですヨ!?」

 大声だけでも充分なのに、大仰な動きから、遠目にも三枝が校舎裏を指差しているのがわかる。
 たしかに、南校舎か体育館をグルリと遠回りすれば、来ヶ谷たちに気付かれずに校舎裏方面に向かう事は可能だろう。ただ、それを実行する脚力が(通常状態でも怪しいが)今の美魚(小)には絶対的に足りていない。そして、向こうに移動するだけの時間的な猶予を西園(仮)に与えなかったことを来ヶ谷は断言できる自信があり、以後も継続して注意さえ怠らなければ校舎裏へ逃がすことはないはずだ。敷地外へ逃避した可能性も、同様の理由から外しても大丈夫だろう。

 となると―――

「・・・建物の中に逃げ込んだか。考えられるのは南校舎、体育館、それに部室棟。私と三枝君の二人で三ヶ所。手分けして探せば、引き当てる可能性は3分の2・・・・」

 そう悪くない数字のように思えるが、この手の数字は高利貸しの金利と同じで詐欺のようなものだ。たとえ西園(仮)が隠れている建物を探したとしても、確実に見つかるという保障もない。
 中身のスカスカな数字に踊らされるつもりなど来ヶ谷にあるはずもないが、この三棟のどこかに西園美魚(仮)が潜んでいることだけはほぼ間違いない。
 問題なのは、三枝葉留佳を一人にすると肝心の西園(小)を逃がす公算が高いということだ。こうやって来ヶ谷の目の届く範囲でなら、三枝を使役しても怪しい挙動をみせればすぐに対処できるが、目の届かないところではその限りではない。かといって、二人で一ヶ所ずつ探そうものなら日が暮れてしまう。
 ターゲットもこちらの動きを黙ってみているだけではなかろう。一度、探索し終えた場所にコソコソと潜り込まれるという繰り返しが続こうものなら、イタチごっこはいつまで経っても終らない。
 さて、どうしたものか。思考を巡らすように、何とはなしに南校舎に視線をめぐらせていた来ヶ谷だが、ある地点で一度微妙に止まり、そして、何事もなかったように顔を戻していた。
 と―――

「西園さんは!? まだ見つかっていないの?」

 後ろから直枝理樹が近づいて来る。ぜいぜいと肩で息をしていることからも、急いで来たことは明白だ。クドに言い寄られるあの惨状から、この男は一体どうやって抜け出してきたのだろう―――問い詰めたい衝動に駆られそうになるも、丁度、三枝も合流を果たしたことで、頭数が揃ったことに来ヶ谷は気付いた。

「ほう・・・丁度いいな」

 一頻り頷いて、事態を飲み込めていない理樹に現状をざっと説明すると、来ヶ谷はついでのように三枝を手招きして、こじんまりとした円陣を組んだ。

「二人とも、ミッションと行こうじゃないか。題して『西園美魚(仮)捕獲作戦』」

「? 既にそのミッションは開始されているような気がするんですか?」

「葉留佳君、無粋なツッコミは遠慮願おうか。―――まずはこれを見てくれ」

 そういうと、来ヶ谷は小石を拾い地面に学校の略図をザッと描いていく。

「少なくとも、この近辺で西園女史(仮)が隠れていそうな場所は南校舎、体育館、部室棟の三ヶ所とみて間違いない。そして、本ミッションは各自1ヶ所、探索ポイントを選び、西園女史を手分けして探していこう―――というのが趣旨であるが、知っての通り、私はようじょを発見次第、確保→お持ち帰りという野望を持ち合わせている」

「・・・・随分と、ストレートな発言だね」

 呆れた口調の理樹に、三枝が達観した調子で合いの手を入れる。

「それが姉御ですから」

「・・・失礼な事を言われているような気がするが、まあいい。少年と三枝君は当然、私の行動を阻止したいのだろうが、このまま三人固まって探したとしても時間の無駄だ。効率も悪すぎる。そうやって無駄に時間を浪費して、西園女史(仮)が見つからないまま行方不明にでもなってみろ。警察に捜索願を出すにせよ、どう説明する? まさか「小さくなった友達を探しています」とでもいうつもりじゃないだろうな?」

「・・・そうしないようにする為にも、危険を承知で来ヶ谷さんを一人にしろってこと?」

 考え込む理樹に、来ヶ谷は甘く囁いた。

「この3棟のどこかにいる事はまず間違いないんだ。理樹くんと葉留佳君が2棟選べる事を考えれば、勝率はおよそ7割。キミらが西園女史を捕らえた場合、大人しく引き下がる事を確約しよう。加えて、勝者には私から見合った賞品を出そうじゃないか。・・・・どうだ、悪い取引ではないだろう?」

「・・・数値上は確かにそうですけど、建物内に絶対居るとは限らないですヨ? その場合はどうするんです?」

「私を一人にするというリスクが高すぎると言うのなら、先ほど挙げた体育館、部室棟、南校舎に西園女史(仮)がいないときは私の負けとしても良い」

 この一言で、勝率がグンッと上がった事は間違いない。来ヶ谷の譲歩に顔を見合わせる二人だが、「ただし」という言葉に襟を正す。

「一つだけ条件がある。各自の指定されたポイントを探索終了した後は、他のポイントへ向かって探索することもOKとすることだ。こうすれば、最初に探索した場所じゃなくとも、他で西園女史(仮)を発見し、捕獲する目も出てくる。当然、先に探索していた方が有利だろうが・・・まぁ敗者復活ルールのようなものと思ってくれればいい」

「・・・・来ヶ谷さんにまんまと騙されているような気がするんだけれど・・・・確かに、このまま来ヶ谷さんを監視しながらあの子を探すことの方が、デメリットが多いかもね」

 理樹のその言葉は、来ヶ谷の提案にほぼ同意したようなものだ。決めかねていた三枝葉留佳は、理樹のその言葉に動揺を見せるが、やがて腹を決めたように来ヶ谷唯湖と相対した。





・ミッション
 西園美魚(仮)捕獲作戦

・ルール
@『部室棟』『南校舎』『体育館』にそれぞれ分かれて探索を開始する。探索終了後は、他の2ヶ所へ向かって探索することも可能である。
A『部室棟』『南校舎』『体育館』のいずれかに西園女史(仮)がいることが前提条件であり、上記3ヶ所に居なかった場合は、自動的に来ヶ谷唯湖は負けとなる。
B3棟の何れかに西園美魚(仮)が居た場合、その後は何処に逃げようと捕獲した者が勝者となる。

・勝者への景品
 来ヶ谷唯湖:西園美魚(仮)と一緒にお風呂券
 三枝葉留佳:食堂のオーブン無料使用券(365枚=一年分)
 直枝理樹 :来ヶ谷唯湖を一生自由にして良い券





「すとーーーーーーっぷっ!!!!!!!!!」

 三枝葉留佳の怒声に、来ヶ谷は不思議そうに首を傾げた。

「どうした、奇声なんぞ発して?」

「どうしたもこうしたもないですよ!! なんですかこの最後の一行は!?」

「我が身が一生理樹君の肉奴隷にされるかもしれないという、とてつもなく危険極まりないものぢゃないか。自分の我儘を通してもらうからには、これくらいの覚悟は必要だろう? 一体なんの不服があると言うのだね?」

「勝っても負けても、姉御が一番美味しい思いをするような気がするのは私だけですかい!?」

 地団太を踏む三枝に、来ヶ谷はひどく沈んだ表情を浮かべ、我が身を静かに抱き寄せる。

「違うな・・・勝っても負けても私は損な役回りだよ。勝てば泣き叫ぶ少女に一生残る心の傷を負わせる事になるかもしれない。負ければ、私の肉体は一生、理樹君に奉仕するという美味し・・・げふんげふん、過酷な運命が待っているんだぞ?」

「・・・・・っ・・・・・・! 理樹くん、理樹くんはこれでいいの!?」

 反対側の理樹に話を振るが、イマイチ理樹の反応が薄い。というか目が泳いでいる。彷徨った理樹の視線は来ヶ谷の豊満な胸の辺りに焦点が絞られては拡散し、それが徐々に下降していくことに来ヶ谷は微笑み、葉留佳は軽蔑の眼差しを向けていた。

「え・・・いやぁ・・・・まぁ・・・・・・・・・・その・・・・あ、向こうに人影が! ひょっとしたらあの子かもしれないから、ちょっと行ってくるよ! ついでに部室棟の方は僕が探してみるね!!」

「あーっ、逃げた! ていうか、景品このままですかい!? 不潔! 理樹くん不潔っ!! はるちん、見損ないましたヨ!!」

「さて、理樹君は向こうに行ったか。じゃあお姉さんも―――」

 男泣きする三枝を残し、来ヶ谷もミッションを敢行すべく体育館へと向かおうとするが、それを背後から・・・なにやら執念を燃やしている三枝が引き止める。

「私が行きます! 姉御が向こうに行ったら、ミッションを蔑ろにしてあれやこれや、TVでは放映できないような卑猥な事を理樹くんに手ほどきするに違いないです! ああ、考えただけで恐ろしい・・・!」

 「私が・・・私が勝たなくちゃ・・・!」ブツブツと洩らしながら小走りに体育館に向かう三枝葉留佳だった。最後に残された来ヶ谷はポリポリと頭を掻いた後、残り物の南校舎の玄関口へとおもむろに歩き出す。
 入り口は閉まっていそうなものだが、大学受験を控え図書室を利用する者や、文科系の熱心な部活が教室を使用することもあり、融通を利かせて普通に開いていたりする。部室棟や体育館も似たようなものだ。・・・まぁ戸締りをしていようが、よからぬ者は事前に窓の鍵を解除していたり、合鍵を勝手に作っていたりと侵入経路はいくらでも都合できるのが学校というもの。かく言う来ヶ谷も、放送室に至るまでのルートは予備も含めて3つほど確保していたりする。
 大股に玄関を抜け、平素では日常的に通っている校内に来ヶ谷は足を踏み入れた。
 平日と違った空気、気配、雰囲気。
 閑散とした物寂しさは、かつての虚構世界を思わせる。何処からともなく木霊する間欠的な物音に耳を預けながら、来ヶ谷は鼻歌交じりに、玄関、及び、その周辺のドアや窓を閉めると全ての鍵を掛けていく。当直の教師にでもバレればすぐさま元に戻されそうだが、短期決戦で済ますつもりの来ヶ谷にとって、ターゲットが逃げた場合、逃走を阻害す上でこういった細かなイヤガラセで数秒でも稼げれば儲け物である。焦って開錠に時間が掛かれば、その分だけ相手との距離が詰められるというのものだ。
 そして同時に、体育館と部室棟に向かった理樹と三枝の両名が、こちらに侵入することを阻害するための行為でもある。万が一にでも西園美魚(仮)が彼らに捕まっては来ヶ谷の愉しみが奪われてしまう。

「ふっふっふっふ・・・・・・・・・さあて、狩りの時間だ」

 忍び笑いを洩らしながら、来ヶ谷は施錠しつつも景品に向けて最短距離をとっていた。
 彼女は知っていた。西園美魚(仮)が南校舎の三階にいる事を。
 途中で姿を見失ったのは事実だが、本ミッションを提案する数秒前、南校舎に視線を巡らせたときに、偶然、窓からこちらを覗いている人影を来ヶ谷は捉えていた。
 勿論、窓から顔の上半分だけが覗いているという状態だったので、体型はおろか顔すら判別不能。それを西園美魚(仮)と断定することは普通ならば不可能だったろう。
 だが、アホ毛のようにひょこひょこと動いていた真紅のフードに来ヶ谷は見覚えがあった。顔を隠す為に敢えて被っていたのだろうが、フード部の内側にしつらえられた黒と黄のストライプ柄は、この学校では唯一無二のタグに成り得たのだ。クドが美魚(仮)に羽織らせていた、ぶかぶかのダッフルコートに間違いなかった。
 あのとき、理樹の合流さえなければ即座に動いて美魚(仮)を捕縛できたのだろうが、実際に動いていれば間違いなく、直枝理樹と三枝葉留佳は来ヶ谷唯湖の前に立ちはだかって幼女の解放を要求していた筈だ。安易な行動は己の首を絞める行為に他ならないと悟った来ヶ谷は、だからこそあのとき―――咄嗟にひと芝居を打ったのだ。


『西園美魚(仮)捕縛作戦』


 限りなく博打に近い行為だったが、唯でさえ疑り深い三枝葉留佳の注意を逸らし、尚且つ、来ヶ谷が単独で行動できる免罪符を確保する為にも、あの提案は無くてはならないものだった。
 三枝葉留佳の本能的な直感力をどう鈍らせるかがキモだったが、理樹を使って嫉妬心を煽ったことが功を奏してくれた。お陰で嫉妬に血の上った三枝は、来ヶ谷がそうしたとも知らず、操られるまま体育館へと向かい―――今こうして来ヶ谷は、西園美魚(仮)を入手しても邪魔されることのない自由の身を手に入れたのである。南校舎を選べない可能性も考慮して、保険として他棟への探索もOKとしたが、こんな容易いのなら、わざわざ条件として挙げるまでも無かったなと、来ヶ谷は額に手を当てた。

「・・・・・・・・・くっくっくっく・・・・・・・」

 笑わずにはいられようか。限りなく不可能に近いあの状態から、もう手の届くところまで来ているというこの事実。そしてそれを可能せしめた己の口先の魔術に、1、2階を無視して3階を目指す来ヶ谷は無垢な少女のようにほころんでいた。
 3階に両足がつく。月面着陸に成功したアポロ11号のアームストロング船長をもじるかのように、左足を最初の一歩として足跡を残した来ヶ谷は、感極まって快笑する。

「ふははははははははははは!!!!!!!!!」

「はっはっはっはっはっは!!!!!」

 何故か背後で来ヶ谷を真似るように、聞き慣れた笑い声が木霊した。
 しばらくの沈黙の後、来ヶ谷は表情を欠落させた顔を・・・・背後に向ける。

「ちーーーっす!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「おっす! オラ悟空!!」

 三枝がいた。

 三枝葉留佳がいた。

 つい先ほど、体育館に探索に行った筈の三枝葉留佳がいた。

 南校舎の窓、ドア、その他可能な限りの施錠を施したと言うのに、にこやかな笑みを浮かべて、さも簡単に入ることができましたよと言いたげに、三枝葉留佳が立っていた。

「・・・・・・・・貴様、体育館の探索はどうした?」

 それだけを、搾り出すように来ヶ谷は吐き出した。

「あ〜、もう終りました♪ ささっとまわって、ささっと終了! はるちん、こう見えてもかくれんぼの鬼は得意だったんですよ? 最短40秒で5人見つけたこともあるくらい――――」

「どうやってここに入った?」

「ん〜? んふふ〜っ、整備委員の関係で、用務員のおじさんから学校敷地内の鍵は一通りもらってますからネ。はるちんに入れないところはないですよ〜。・・・まあ、さすがに職員室の鍵とかはもらえませんでしたけどねぇ〜。・・・あれ? そういえば姉御はどうやって入ったんです?」

 懐からジャラジャラと音を立てて、三枝は自慢げに鍵一式を取り出してみせる。ついでに、零れたビー玉やら、おはじきやら画鋲やらがポロポロと零れているが、来ヶ谷は特に気にすることもなく、

「・・・・・・・・・・・・もう一度、体育館を探してこい」

「え〜? 全部探しましたよ?」

「もっと、隅々まで! 用具室の跳び箱の中とか、マットの下やら。場合によっては天上裏の梁に隠れているやもしれん。ヒビの割れ目も念のため確認することも忘れるな。いいからとにかく、ここはお姉さんに任せて、もっとじっくりねっとり探してこいっ」

 自棄になっているのか、支離滅裂な事を吹っかける来ヶ谷に対して、黙って聞いていた三枝の瞳がすっと細くなる。

「・・・・じゃあ、姉御はどうしてまた1、2階を飛び越えて急に3階になんて来るんです? 私には『じっくり探せ』と言っておきながら、おかしいじゃないですか。まるで“1、2階にあの子がいない事が初めからわかっていた”ような・・・・」

「な、なにを馬鹿な! 私は上から順に探そうとしていただけで、別に他意は―――!」




「 紅いダッフルコートでも見えましたか? 」




「!!!? 貴様、何故それを・・・・!」

 動揺を抑えきれない来ヶ谷に、にっこりと、三枝は笑っていた。

「やだなぁ、姉御。あのとき私は姉御のところに向かってたんですよ? 姉御が南校舎の3階を見ていたのに気付かなかったとでも思うんですか?」

 来ヶ谷がこのとき感じた悪寒は尋常なものではない。一時期、小毬に対してスキンシップと称したセクハラまがいの事を長期的に行っていたことがあったが、とうとう我慢の限界を超えた小毬もまた、似たような笑顔を覘かせた事を来ヶ谷は思い起こしていた。

「・・・嫌な・・・事件だったね・・・」

 ―――と、理樹を筆頭に誰もが憚るあの事件を境に来ヶ谷も態度を改めたものだが、こうして眼前の葉留佳の笑顔を眺めていると、ひょっとして、リトルバスターズで格上(少なくとも3指には入る)だろうと自負していた自分の立場というものは、実を言うと薄氷の上に胡坐をかいている愚か者の認識なのだろうか、と嫌な汗が背中を流れ落ちる。

「・・・気付いて黙っていたのか?」

「いやぁ、姉御がどういう態度を取るのか気になったもので」

 すると来ヶ谷が本ミッションを提案していた時から、三枝の一徒手一挙動は、何から何まで演技だったということになる。

 じゃあ、あの嫉妬や怒りの表情は?

 疑問を口にしたあの自然な顔は?

 薄ら寒い物が来ヶ谷の肌に張り付いてきて、いつしか来ヶ谷は、その疑問について考える事をやめた。

「で? どうする? 監視を継続して私の邪魔でもするのか?」

「・・・・姉御。今回のみおちんの件、見逃す代わりと言っては何ですが・・・・取引といきませんか?」

 急に畏まった様子の三枝に、来ヶ谷は怪訝な表情を浮かべた。

「取引?」

「いえね。最近、お姉ちゃんに対して軽いイタズラというかお節介なコトをしたんですけど・・・どうもそれが原因で完全に怒ってしまったようで。絶交されちゃった上、風紀委員委員長の肩書きを利用して、何かにつけて、はるちんの邪魔ばかり。食堂のオーブンの『生徒使用禁止令』なんてものまで議題に提出している始末で、ホトホト困っているんですヨ。できればその辺を姉御には何とかして欲しいなぁ〜、と。ミッションの景品にできるくらいなら、それなりの対応策があったりするんですよね? ね?」

 上目遣いの三枝の言うように、食堂のオーブンを利用させることくらい、来ヶ谷にとって造作もない。食堂のおばちゃんには以前から、文句の多かったり、食堂内で素行の悪い生徒を駆逐することで、何かと貸しを作ってはタダ飯を食らわせてもらったりする程度の繋がりを持っている。
 それをそっくりオーブン利用に移行させることで、三枝の件はカタがつくのだ。二木佳奈多の目を盗んでの利用となるが、それは三枝葉留佳に問題があるのだから文句なぞ言わせはしない。ただ、そうなると浮いていた食費が嵩むようになるのが玉に疵だが、今回の三枝の素性を鑑みるに、今後の円滑な関係を築く為にも、三枝のお願いを叶える事は必須条件のように思えた。

「・・・ちなみに、そのイタズラとやらは何なのか、差し支えなければ聞いておきたいのだが?」

「え〜とですね。随分前に私に変装したお姉ちゃんが、理樹くんと中庭のベンチで手作りお菓子を片手にきゃっきゃうふふな事をしていたのが判明したので、仕返―――いえ、二人の仲を取り持とうと、ついこの間、お姉ちゃんの変装をして、理樹くんに手ずからラブレターを送ってみたんですよ。お姉ちゃんが書いたまま出していなかったヤツを」

「・・・・・・・・・・返答は?」

「\(^o^)/」

「なるほど」

 それでは二木佳奈多も怒るわけだと来ヶ谷は納得する。こちらも不利益を被らないよう、二木佳奈多の尊い犠牲は反面教師という形で来ヶ谷唯湖の胸に刻み込まれた。

「良かろう。その取引は成立だ。しばらくは運命共同体ということでよろしく頼む」

「モチのロンロン! むしろそれだと暇なんで手伝いくらいはしますぜ、姉御?」

 小躍りしそうな三枝をお供に、ようやく来ヶ谷による南校舎3階の探索が始まった。
 現在、来ヶ谷一行がいる場所は南校舎東端の階段付近。来ヶ谷が外から西園(小)を目撃した座標に当たる。左手には閉めきった窓が並び、右手は各教室へ接続されたドアが連なって西端まで続いている。廊下に人気はなく、当然のように美魚(仮)の姿は影も形もない。

「ありゃ、逃げられたんですかね?」

「・・・・あれだけ騒いでおいて貴様がそれを言うか」

「いや、姉御も人のコトいえませんから」

 「・・・ふむ」と腕を組み、来ヶ谷はどうしたものかと考える。
 恭介たち上級生の教室が並ぶ階ゆえに、実を言うと来ヶ谷も、あまりこの辺りの地理は詳しくない。確か、手前の部屋が予備の机や椅子を入れた物置替わりになっており、西階段の奥には事務室、工作室と並んでいたような気がする。確信を持って言えるのは、最奥が移動教室でお世話になっている美術室ということくらいなものか。

「・・・どうするんです?」

「こういうのはどうだ?」

 来ヶ谷は手前の教室のドアを勢いよく開ける。「ガンッ!」と盛大な音を立てて開かれた物置部屋には、ざっと見た限り隠れそうな場所もなく、気配らしきものもない。その確認作業を一瞬で済ませた来ヶ谷は、ビビッた三枝を置き去りにして、規則的に歩を進めながら、先にあるドアをまた轟音を立てて開け放つ。

 続いて3つ、4つ、5つ――――

 小細工はゼロ。
 何処かに隠れている美魚(小)に向けて、無言の鬼は恐怖の蹄を轟かせる。来ヶ谷にとっては不作続きの結果だが、息を殺して隠れている美魚(仮)にとって、音―――それも大音声の波が徐々に近付いてくるという恐怖心は、切迫した焦りを助長させる。隠れてやり過ごそうという魂胆だろうが、来ヶ谷の手法は強引であればあるほど、相手の心理を逼迫するのに効果的といえた。
 考えてもみて欲しい。捕まれば何をされるか全くの不明な恐怖の大魔王が、隠れ場所をひとつひとつ潰し、徐々に距離を詰めてくるのである。年頃の少女に危機感を植付けるのに然程の時間を必要とするはずも無く。全長の中ほどを制圧した所で、10m手前の教室のドアから勢いよく人影が転がり出た。
 先刻から見慣れた赤のダッフルコート。そして何より、クドよりも背の低い生徒はこの学校には存在しない。

「ほう? 本当にいたぞ」

 階下や屋上に逃げてしまった事態も想定していただけに、予想外に早く発見した美魚(仮)の姿に、来ヶ谷は喜色の表情を浮かべた。
 採寸の合っていない服の為に、ずり落ちるのを押さえながら来ヶ谷に背を向ける美魚(仮)だが、東端の階段を降りようという矢先、目の前に来ヶ谷が滑り込む。それを見て美魚(仮)はバッと転進するものの、後ろから追従していた三枝葉留佳とバッタリと鉢合わせする形となり美魚(仮)は踏鞴を踏んだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 前門の虎、後門の狼。
 完全に挟まれた少女に最早、逃げ場は無くなっていた。じりじりと後退することで廊下の隅に追いやられ、夢見がちな幼女の瞳が、自分の末路に思いを馳せ、恐怖に震え上がっている。

「ふっ・・・ふふふ・・・・怯えなくてもいい。・・・はぁ・・・・はぁ・・・・・お、お姉さんが少しだけ大人の階段を上らせてあげるだけだから・・・。初めは恐いかもしれないが・・・なぁに、すぐ気持ちよくなるさ」

 イタイケな姿に我を忘れ、今まさに襲い掛からんとする来ヶ谷を前に、西園(仮)は運命を受け入れるように瞳をきつく閉じた。

「お前ら・・・何をしているんだ?」

 そしてあわやと言うところで、階段を上ってきた棗恭介が犯罪の現場を目撃してしまった善良な市民の顔で来ヶ谷達を見つめていた。言い逃れなどできそうもないシチュエーションであるが、そこは来ヶ谷唯湖―――邪魔が入ったことにわずかな苛立ちを滲ませはしても、特に臆することもなく仁王立ちである。

「恭介氏こそ、ここで何をしている」

「・・・・それは、俺が未だ就職活動中なことを知っての上で尋ねているのか?」

 そう。修学旅行の事故の影響で療養していた棗恭介は、その間、就職活動も休止していたのだが、それが祟って、この時期になってもなかなか採用が決まらずにいた。他の同期が一人、また一人と内定が決まり、今では活動している学生は恭介を含め極少数。
 世間は冬休みというのに、学校の採用情報を求めて事務の掲示板(どうも三階にあるらしい)に通いつめる日々が続いていた。昨夜のクリスマスパーティーは、実をいうと恭介に向けてのささやかな労いの意味もあったりする。

「で? そちらのお嬢さんは一体・・・・?」

「恭介氏には関係のないこと――――」

「お兄ちゃん! 助けて!!」

 それは一瞬だった。
 恭介とのやり取りで油断していた来ヶ谷の脇をすり抜け、崖っ淵に立たされていた美魚(仮)は恭介の後ろに回り込んでしまう。ほとんど捕まえたも同然という緩みが生んだ一生の不覚に、来ヶ谷はまた厄介なことになったと内心で舌打ちした。
 思わぬ出来事に恭介は戸惑いを隠せずにいたが、眼前のようじょと、制服を掴み、怯える瞳で「お兄ちゃん、助けて・・・」と繰り返すその姿に、己の体内で不思議な情動が湧き上がる事をもまた、感じていた。
 この昂揚とした気分。そしてどこか気恥ずかしさを含んだ、真摯で真っ直ぐなノスタルジー。それは、そう――――小学生の頃、初めてエロ本を手にしたあの時のようだと、恭介はどこか遠い目をしながら、じみじみと噛み締めていた。

「どうしたんだい?」

 優しさを含んだその声に安堵したのか、涙をいっぱいに浮かべた美魚(仮)は、きゅっと恭介に抱きついてくる。

「・・・・あのお姉ちゃんたちが、私に恐いことするの・・・・」

 弱々しげな声音と、華奢な身体。そして何よりも薄い胸板が押し付けられる感触に、恭介は思った。

「大丈夫だ。悪い人は今からお兄ちゃんが退治するからね」

 今の自分に、不可能などという文字は、ありはしないと。

「・・・なんか、ものすご〜くやばい人が絡んじゃった気がするんですが? 善意よりも先に欲望が先走っちゃっているところなんて、もう一人の姉御を敵に回しているような錯覚すら覚えますね」

「うむ、あの顔を見るに説得は不可能だろう。私もあのポジションにいたら、まず間違いなく恭介氏と同じ事をしている。そして敵を退けた後、こういうのさ。『いや、お礼は結構。ただ、もし宜しければ紅茶でもご一緒していただければ、これ以上の事はありません。すぐそこに私の住んでいる寮があるんですよ。そこで一杯。・・・え? いえいえ、時間は取らせません。ほんの五分といったところです』といいつつ、最後まで美味しく戴くという寸法さ!!! ・・・・・くっ・・・・! 想像するだけで、これほどまで集中力が乱されるとは!? さすがは恭介氏。(21)の称号を持つ男!」

 すっくと立ちはだかるドン・キホーテを前に、自爆した来ヶ谷は、口から零れたヨダレを拭いつつ、強敵と対峙する。そして、変態的性癖度―――いや、知略に長けているという点では、恐らくリトルバスターズにおいて双璧を成す二人の対決が、意味もなく切って落とされた。
 互いの手管を知り尽くしているだけに、長期的な戦いになるに違いないと、見守る三枝葉留佳は予想し、ごくりと固唾を呑むが、それは意外なところから崩される。

「お兄ちゃん・・・・」

 美魚(仮)が臨戦態勢に突入している恭介の袖を引っ張り、こう言ったのだ。




「おしっこしたい」




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 それは、魔法の沈黙となって辺り一帯に広がった。
 牙を抜かれた仔猫のように、恭介と来ヶ谷は放心した顔で互いを認め、その言葉をどう受け止めるかで、無言の意思疎通を交わしているようだった。

「・・・・・・・・・・・おしっこ?」

「お・・・・・しっこ・・・・」

「おしっこ・・・・」

「・・・・・・・・・!・・・・・・・・おしっこ!?」

「おお! おしっこ!」

 言葉にすればこんな感じである。
 ゲシュタルト崩壊しそうな対話を成立させた後、二人は重々しく肯くと、手と手を取り合った。

「一時休戦としよう。こんな下らないバトルはいつでもできるが、か弱い少女のピンチを救えるのは今、俺たちしかいない。それにこれは人生に一回きり、あるかないかの奇跡・・・リトルバスターズ結成が、この為にあったといっても過言じゃない」

「不思議だな。こうして恭介氏と手を取り合える日がこようとは」

 固い固い握手は、二人の友情の絆の深さを物語っていた。どれだけいがみ合おうとも、どれだけ反目しようとも、いざとなればこうして互いを認め合える。熱い血潮を滾らせる若人の集い、それが―――リトルバスターズ!

「はいは〜い。馬鹿二人は置いておいて・・・あたしたちの学校のほとんどが和式・・・しゃがむタイプのヤツなんだけど、使ったことある?」

 首を振る美魚(仮)に、代案として三枝が提案したのは一階の職員用トイレだ。歴史が古い校舎ほど、こういう施設で職員が優遇されている場合が多いのはどこの学校も同じだろうだ、南校舎もそれの類に違わず洋式トイレを導入している。

「ひとりでできる?」

「・・・・わかんない」

「じゃあ、お兄ちゃんが後で手伝ってあげるから、先に行って待ってな」

 恭介の言葉に素直に「・・・うんっ」と頷く美魚(仮)だが、三枝が鬼畜を見るような物凄い形相で恭介を睨んだのは言うまでもない。駆けていく美魚(仮)に手を振りながら見送る恭介だが、美魚(仮)が完全に視界から見えなくなった途端、背中から強烈なプレッシャーが吹き上がったのを、来ヶ谷は認めていた。

「・・・・さて、ここに『お手伝い券』が一枚あるとしよう。それは一回きりの使い捨てで、この機会を逃がせば、もう二度と手に入らないかもしれない特別プレミアムな一枚。二人では決して使えない、一人だけの青春18切符さ。・・・・来ヶ谷。お前とは肩を並べて共に過ごせるかも知れないなんて・・・・そんな、甘い夢を見ちまったばかりに、“休戦”なんていう提案をしてしまった俺を笑ってくれて構わない。そして、許してくれとも思わない。ただ、こんな事になってしまったからには、もう、休戦はお仕舞いだ。・・・・・・すまないな」

「それは私も同じ事だ。わずかな時間だったが・・・・・楽しかったぞ」

 過ぎた時間は決して戻らない。抗えない運命に翻弄された二人は袂を分かち、その悲しみを胸に仕舞い込んだ恭介と来ヶ谷は、己が拳に戦うことの虚しさを握り締めた。

「・・・・悪いな二人とも。一秒でも早く終らせたい。手加減は出来ない・・・・すまないが覚悟してくれ」

 鼻血を垂れ流しながら、恭介は言う。

「ほう・・・つくづく馬が合うな。私もだ」

 同様に、鼻血を垂れ流す来ヶ谷は、応急処置としてちり紙を両方に詰め込んでいた。

「ダメだこいつら。早く何とかしないと・・・」

 頭を抱える三枝葉留佳だが、自分もまた来ヶ谷サイドの人間であることに気付いたらしい。切ない溜息を吐いて、事実を受け入れる事を拒んでいたようだが、恭介が驚いたような声を上げた事で三枝は釣られるように彼の方を見た。

「理樹、どうしてここに?」

「なに!?」

「え!? 理樹くん?」

 まさか、もう部室棟の探索を終らせてきたのか。恭介だけでも性質が悪いというのに、直枝理樹まで参入しようものなら来ヶ谷の勝率は低迷してしまう。三枝としても、ここで来ヶ谷に勝ってもらわねば、約束を反故にされかねないという気持ちが働いたのだろう。
 恭介の視線に誘導され、来ヶ谷と三枝は今しがた歩んできた廊下側を一斉に振り向いたが・・・・・・。
 ・・・・・誰もいない。

「・・・・・・はっ!?」

 それがただの法螺だと気づいた時には既に、恭介は階段を下っていた。

「ちいぃっ! こんな小細工に引っ掛かるとは!! こうなったら葉留佳君! 至急職員室へ向かうんだ!! ヤツを女子トイレ闖入の現行犯として当直の教師に足止めさせる!!」

「姉御は!?」

「決まっているだろう! こうなってしまったからには仕方がない。西園女史(仮)にはお風呂でしてもらう!!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 「何を?」と三枝は聞かなかった。聞くまでもない。そして聞きたくもない。

「返事は!?」

「はあああああああああぁぁ〜・・・・・・・・、分かりましたよぅ。やります、やればいいんですよね・・・。ただし、約束は守ってくださいよ? 姉御」

 一階まで駆け下りると、三枝は職員室へと向かい、来ヶ谷は職員用女子トイレへと直行する。
 廊下に出ると前方には棗恭介の背中が来ヶ谷の視界に映った。
 速い。来ヶ谷も全力で走っているというのに、あの一瞬で5m以上離されている。このまま教師を呼んだとしても、個室に二人でダイヴ☆インされては手の打ちようがなくなってしまう。その場合、ひと仕事終え、至福を享受した恭介が生徒指導室に連行されるのは陽の目を見るより明らかだが、コトが終ってからでは色んな意味で遅すぎるのだ。
 来ヶ谷の顔に焦りの色が浮かぶ。
 女子トイレに入り、個室を閉めるまでの時間のロスで、来ヶ谷が恭介に追いつくしか、この凶行を止める方法がないのだと、来ヶ谷は自分の責任の重大さに気付いていた。

「う・・・ぉぉぉぉおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 吼える。
 コンマ一秒でも速く。時間を、距離を、わずかでも縮める為に。
 来ヶ谷がこれほどまで全力全開で肉体を酷使するのは、果たして何年ぶりだろう。悲鳴を上げる肉体を限界以上に鞭打つと、徐々にだが・・・確実に恭介との距離は縮まっていた。
 来ヶ谷の気迫がそうさせたのか。それとも、予感があったのか。とうとう女子トイレに到達した恭介は、取っ手に手を掛けながら、自分がどれだけ優位な状況にあるのかを確認したいという誘惑に駆られていた。それが、僅かコンマ数秒のロスでも命取りに繋がりかねない愚考だと分かっていながら、彼をそうさせてしまったのは、ただの気まぐれではない。
 相手が、来ヶ谷唯湖だったからだ。
 知略に長け、策を練り、ときには恭介すら考えの及ばない行動で予想を飛び越えてくる来ヶ谷唯湖だからこそ、自分の置かれた状況、勝率、駆け引きがどれだけ優位に進んでいるのかを確かめずにはいられなかったのだ。これが他のメンバーであれば、恭介も迷わず女子トイレに飛び込んだだろう。
 つまるところ、恭介は変態になりきれなかったのだ。欲望の赴くまま、純粋な紳士の心があれば、相手が誰であろうと目標を最優先させるのが真の変態である。
 “振り返る”という行為に潜んでいたのは、『勝負心』という名の不純物。
 競い合い、高めあうという崇高な気持ちが。変態という職種にあってはならないその美しさこそが、恭介に心の隙を生んだのだ。


 振り返った恭介が見た物は、靴の裏だった


 接近する靴の裏。眼前にあるその物体を脳が理解する前に、恭介は反射的に首を逸らしていた。来ヶ谷のとび蹴りが頬を裂き、それでも回避に成功した恭介は勝利を確信する。
 やぶれかぶれの一撃だったのだろう。着地から体勢を立て直す事を考えれば、外せば即、終了である事を来ヶ谷が承知していない筈がない。勝負としては呆気ないとはいえ、今回はそれが“主”ではないことを恭介とて忘れてわけではなかった。
 漏れそうになるのを必死に堪え、自分が到着するのを心待ちにしている少女がいるのだ。
 ひょっとしたら、既に我慢の限界を超えて、漏らしてしまっているかもしれない。
 もし、漏らしていたら・・・・。
 その事態を仮定して、恭介は思わず沈黙する。
 恥ずかしさに顔を俯かせ、恭介の到着にびくりと震え、怯え、泣き出してしまうかもしれない。あのくらいの年頃の少女は多感な時期だ。下手をすればそれだけで傷つけてしまう。
 そうしない為にも、必要なのは「労わりの心」だ。そう、きっとこう言って、慰めてあげれば、きっとあの子は笑ってくれる。



「大丈夫だよ。俺が脱がしてあげるから。ちゃんと・・・・綺麗に拭いて、穿かせてあげるから」



 その科白は恐ろしいまでに完璧な回答であるかのように思えて、恭介は思わず「こいつは・・・」と咽喉を鳴らす。

 と――――



「ふごへふううううううううううううううううううううう!!!!!!!!?」

 暴力的な痛みが恭介の首を襲ったのはその時だ。ほんの数秒後には現実になっていたであろう、それらの夢想が、全て走馬灯のように流れ落ちるのを感じながら、恭介は薄れる意識の中、クリーンヒットした来ヶ谷の右腕ラリアットがめり込んだ音を聞いた。

「お・・・・・・・俺の・・・・・・・おしっこ・・・・・・・が・・・・・・・」

 臨終の言葉はあまりにも哀れな呻きとなって、来ヶ谷の耳に届いていた。

「恭介氏―――貴公の言葉、確かに受け取った。私がその意思を引き継ごう!!」

 恭介の亡骸に手を合わせた後、喜色満面で来ヶ谷はトイレに駆け込んだ。
 そこで来ヶ谷が目にしたのは、がらんどうの無人トイレだ。全ての個室が開き放たれ、誰も居らず、虚しいばかりに独特の臭気が来ヶ谷の鼻を突いてくる。

「馬鹿な・・・・・ようじょは・・・・・ようじょは何処だ!!!!!!?」

 気も狂わんばかりに来ヶ谷は叫ぶ。そして女子トイレをグルグルと徘徊すること十数秒。半開きの窓から例の紅いダッフルコートが遠ざかっていくのを発見する。
 自分たちがいいように翻弄されていたことに気付いたのはこの時だ。美魚(仮)は単純に、自分達から逃れる為に嘘を吐き、自分のピュアな乙女心を玩んでいたことに気付いた来ヶ谷は初めて、泣いていたクドの気持ちを痛いほど理解する。
 裏切られる辛さは斯くも人を苦しめるのか、と。

 ああ・・・・ああ・・・・

 『お手伝い』するはずだった我が両腕が、茫然自失に啼いている。
 あの子を抱きたい。あの子のすべすべのお肌にセクハラしたい。そういった欲求。欲望。煩悩。ぱふぱふ。すべての衝動に対して、来ヶ谷唯湖は正直者だった。

 悔しさは、両腕に窓枠を掴ませた。

 悲しさは、両足に新たな力を宿らせた。

 窓を跨いで外へ飛び出した来ヶ谷は、勝利への道程を走りながら、志半ばで倒れていった強敵(=友)の言葉を思い出す。「ようじょを・・・・」、「おしっこを・・・・」そんな恭介の無念を果たせず、私は友の墓前にノコノコと、どの面を下げて行けというのだ。

「ガール!! 逃げても無駄だ! 大人しくお姉さんと一緒にソープに沈むがいい!!」

 悲鳴が上がった。「まさか」と「どうして!?」という困惑した顔で、美魚(仮)は校庭を突っ切り体育館側へと舵を切る。

「・・・・!? ダメだ! そっちには少年が―――!!」

 嫌な予感という物は得てして当たるものだ。部室棟と体育館の間に逃げ込もうとした美魚(仮)は何かに気付き、急ブレーキを掛けて方向転換を図るものの、死角から飛び出した理樹が捕まえる方が早かった。身体ごとぶつかるように体当たりされた美魚(仮)は、理樹と一緒にごろごろと地面を転がった。

「やった! 来ヶ谷さん捕まえたよ!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 嬉々として喜ぶ直枝理樹を前に、来ヶ谷は無言で立ち尽くす。
 どれだけ自分が、西園美魚(仮)探索に全力をもって当たったのか。多大な犠牲を払って手に入れようとした少女は、トンビに油揚げではないが、あっさり登場した理樹の手に収まってしまったことが来ヶ谷手的に納得できないのだろう。頬の辺りを小刻みに震わせ、怒りを吐き出すことだけはどうにか我慢している。
 先ほどの捕獲による衝撃で美魚(仮)は気を失っていた。奔放に駆けずり回って、来ヶ谷たちを苦労させてきたというのに、目を回した美魚(仮)は年頃の少女の無垢な姿を嘘偽りなくさらしている。

「・・・・・癪だ。物凄く癪だ。私が苦労して追い詰めたというのに、何でそこで少年が出てくる?」

「いや、だって・・・部室棟を探し終えて外に出たら急に誰かの悲鳴と来ヶ谷さんの声が聞こえてくるんだもん。校庭の方を見たら普通にこっちに向かってくるし、ここで隠れていれば巧くすれば捕まえられそうだなぁ・・・って思って」

「そこで待ち伏せしていた、と」

「うん」

 「『うん』じゃないわ!」と小突こうとしたが、疲労と計画が台無しになったせいで眩暈がする。思わず来ヶ谷は頭を抱えてしゃがみ込んでいた。

「ああ・・・・・・私のようじょ・・・・私のお風呂が・・・・」

 意気消沈した来ヶ谷は、暫しの間、嘆きと文句をミックスした呟きをボソボソと吐いていたが、それも少しすると途絶えて、投げやりな顔を理樹に向ける。

「で?」

「??? 急に「で?」といわれても困るんだけど・・・」

「だから・・・・勝ったのは理樹君だ。今から私を好きなようにしたまえ。裸で首輪を付けて散歩しても良いし、ロープで縛ってくれても構わん。何ならその樹の股にでも放尿しようか?」

「いやいや! いきなりそんなレベルの高いこと要求されても、普通そんなことさせないから!」

 至極真っ当な返答に「つまらん、実につまらん!」と来ヶ谷は吐き捨てる。が、何を思いついたのか、ガバっと起き上がると理樹に掴みかかった。

「そういえば、少年は私が西園女史(仮)とお風呂に入ることについては特に文句はないようだったが・・・・ひょっとして、それを敢行するのは別に構わんのか?」

「え? んん〜・・・まぁ、本人がイヤじゃないと言うなら、僕が反対する理由はないんじゃないかな・・・・。それに、これだけ走ったんだから、どの道、誰かがお風呂に入れてあげないと、汗だくで気持ち悪いんじゃない?」

 その返答に、曇っていた来ヶ谷の表情が晴れた。

「・・・・そうか、そうか! いやいや、少年も話が分かるな。褒賞として家族団らん、三人一緒に今からお風呂に入ろうじゃないか!」

「・・・・は?」

 という疑問を口にする間もなく、理樹の首筋に来ヶ谷の手刀が極まると、理樹は昏倒して来ヶ谷の腕の崩れ落ちた。既にスケジュールとして、何日も前から組み込まれていたかのような早業である。

「・・・・・・・・・」

 右手に直枝理樹。左手には西園美魚(仮)。
 まさに両手に華。

「試合に負けはしたが、勝負に勝ったといったところか。・・・・ん? 逆だったか? まあいい。これでようやく思うさま欲望の限りを尽くせるというものだ。・・・・さて、まずはどちらから味わってくれよう・・・・」

 理樹を肩に背負い、美魚(仮)を片手で抱え、舌舐めずりする来ヶ谷の姿は“シュール”の一言に尽きる。二人ぶんの重量を抱えているとは思えない身のこなしで自宅寮まで戻ろうとする来ヶ谷であるが、数歩進んだだけで、何を思ったかピタリと停止する。
 こうして―――美魚(仮)と直枝理樹の両方をゲットしたとはいえ、今日の来ヶ谷は大凶を引き当てたんじゃないかと言いたくなるほど最悪の場面に何度も遭遇した。その度に、もう駄目だと諦めそうになり、挫けそうになりながらも、気持ちだけは最期まで張って切り抜けてきたのだ。

 だというのに、この弛み始めている自分の緊張感はどうだ?

 そんな疑問が来ヶ谷を律したのだ。
 ここでつまらないミスをしては全てが台無しだ。用心してもし過ぎる事はない。欲望に任せて、行動までテキトウになってどうすると来ヶ谷は頭を振る。

「・・・・自宅に戻るとしても、誰にも見つからずに素直に行けると本気で思っていたのか、私は?」

 今頃、恭介は生徒指導室にいるだろうが、三枝は未だ自由に動ける身だ。和平協定を結んだとはいえ、直枝理樹を狙っている一人である彼女が、理樹を抱えた来ヶ谷を目撃した場合どういった行動をとるか予測がつかない。クドや鈴も何処で何をしているのか不明という現状だ。ここはしばらく隠れて様子をみるか、一人で周囲をスネークした方が無難だろう。

「その為にも、この二人を一度どこかに下ろす必要があるな・・・」

 来ヶ谷は部室棟まで引き返す。しばらく辺りを見回した後、誰も来ないことを確認して、部室棟の手近のドアを躊躇なく蹴破った。どこの部活かは知らないが、中を覗くとロッカーに左右を挟まれ、横になれそうなベンチが二つに机が一つ。ご丁寧に毛布が3、4枚あった。これで二人を捲いて、紐でふん縛って身動き取れないようにすれば問題なかろうと、来ヶ谷は細心の注意を払い二人を横たえる。

「・・・・・それにしても」

 静かに眠っている二人の無防備な姿に、来ヶ谷は思わず声を漏らしていた。
 始めからクドの服を無理矢理着せていた状態だった美魚(仮)のスカートは膝までずり落ち、下着丸出しであられもない姿を晒している。対して、直枝理樹は美魚(仮)ほど悶えそうな姿をしているわけではないというのに、汗でじっとり濡れた髪と、襟元のはだけた格好が、どうしたわけか来ヶ谷を無性に蟲惑してくるのだ。

 ごくり

 思わず咽喉を鳴らしている自分に気付く。
「別にいいじゃないか、お風呂じゃなくとも。ここで致してしまえ」という囁きと、「いや、ここが踏ん張り時だ。つまみ食いする時間があるなら、キチンと全てを終わらせてから欲求を満たし尽くせ」という意見に板ばさみに合い、来ヶ谷は身悶えた。
 理性の声は、明らかにここでの『ご休憩』は危険だと告げている。が、哀しいかな。大体において、人はより安易な選択を選びたがる生き物である。理論整然とした言葉よりも、感情に流されて行動してしまう性を背負った、とても弱い生き物だ。それは来ヶ谷唯湖とて同じこと。気づけば床に毛布を2枚重ねて敷き、その上に直枝理樹を真っ先に置いて、正座して充血した目で凝視している自分がいる。

「だめだ・・・・目的を忘れるな。・・・・私は来ヶ谷唯湖。・・・・策謀を得意とする理性的な女。計略を駆使して最後まで気を弛まない鋼鉄の女。・・・・・ここで・・・・気を緩めては・・・・今まで苦労してきたことが・・・・。ああ!? だが・・・せめて・・・髪を触るくらいは・・・・匂いを嗅ぐ程度は・・・・!!!」

 そういって、自分を騙し、直枝理樹の髪に触れ、匂いを嗅ぎ・・・・とうとう肌の温もりにまで手を出した瞬間に、来ヶ谷の理性は崩壊した。

「ええい、構うものか!! 少年!! レッツ、コンバインっ!!」

「・・・・ダメですよ。そこは来ヶ谷さんの場合、直枝さんを柱に縛って目が覚めるまで待つのが定石です。焦点の定まらない直枝さんに「気付いたか?」と囁いて、SMコスプレした姿で鞭打つ感じが良いのであって、そんなはしたないルパンダイブは、天が許しても私が許しません」

「いや、これが正解だ! 何も与り知らない少年の純潔を奪い去り、気付いたときには私が隣で寝息を立てて静かに眠っている。慌てて飛び起きるが致した後だと気付いて愕然とするものの、そのまま既成事実を盾にゴール!! うむ、実に正しい男の奪い方ではないか!!」

「なるほど・・・来ヶ谷唯湖×直枝理樹。そして、その後に控えた幾多もの女たちとの恋を巡る争いですか・・・ありです」

 相手はそれで納得したらしい。こくりと頷いた後、傍で倒れている西園美魚(仮)に気付いて声をかける。

「みとり、そんな格好で寝ていると風邪を引きますよ? 来ヶ谷さんも、張り切るのはいいですが、こんな格好でみとりを放置するなんて困ります。監督不行き届きで私が叔父様たちに怒られたらどうするんですか?」

「どうするだと? どうするもこうするも――――!」

 語気を荒げていた来ヶ谷はそこで言葉に詰まる。「私は今、誰を話しているんだ?」という疑問に肩を叩かれてから、理性が回復するまでにそう時間は掛からなかった。

 顔を向ける。

 相手を確認する。

 記憶の人物照合を果たしもした。



 意味が分からない



「何故、西園女史が二人いるんだ?」



 * * * * * * * * * *



「・・・・つまり、面白そうだったからそのまま放置した、と」

 西園美魚から全容を聞き終えた理樹は、疲れたようにうな垂れた。

「はい。皆さん私の予想外の行動ばかりするので、見ていて全然飽きませんでした。はじめはどうなるかと影ながらハラハラしていましたが、みとりも楽しんでいましたし、退屈はしなかったのではないでしょうか」

「途中まで面白かったけど、このお姉ちゃん恐いよぅ! 絶対私のこと虐めようとしてたもん!」

 未だ未練を捨てきれずにいる来ヶ谷唯湖が凝視しているのを、西園美魚(仮)―――もとい、みとりは西園美魚の背中に隠れて惧れをなしている。
 棗鈴、クド、三枝葉留佳に直枝理樹。そして美魚の総勢五名は、クドと美魚の寮部屋で寛ぎつつも、反省の色のないガキ大将に呆れとも感心ともつかない表情を向けていた。

 話をまとめるとこうだ。今朝方、それも午前3時くらいだそうだが、遠縁の親族が倒れたとの連絡を受けて、美魚の従兄弟にあたる、みとりの両親がこの学校の近くの病院に急行したらしい。三人家族のため、家にみとり一人残すのも忍びなく、一緒に連れてきたはいいが、このまま病院に連れて行っても目を掛けてやる余裕もない・・・・と悩んでいたところ、ちょうど近くに住んでいる美魚の事を思い出したらしい。そんなこんなで電話で連絡をもらった美魚が、寝ぼけ眼であくびを洩らしているみとりを今日一日引き受けたというのがコトの発端らしい。

「それで自分の寝巻きを着せて寝かしつけたのは良いとして、何でまた『自分が西園美魚であるように振る舞え』なんていう要求をするかなぁ?」

「なかなか面白かったですよ? 半信半疑なのに、終いには皆さん、この子の事をまるで私であるかのように扱い出した時は、思わず笑い転げてしまいました」

 西園の言葉に、その場にいた全員が沈黙する。

「・・・・・・・・・・・・・・笑い・・・・転げる?」

「西園さんが?」

 怪奇現象を目の当たりにしたような反応をするメンバーに、表情に出さずとも少しだけムッとした西園は「何なら今お見せしましょうか?」と提案してくる。

「いや、しなくていいから。それは何か・・・・・見ちゃいけないような気がするし」

「そうですか? 残念です・・・・」

 本当に残念そうな顔をしているが、果たしてどこまでが本当なのか。今の今まで美魚に担がれていただけに、理樹を含む全員が疑心暗鬼といってもいい。

 キスを奪われたクド

 クドを押し付けられた鈴

 来ヶ谷から約束を反故にされた三枝葉留佳

 獲物を取り逃がした来ヶ谷唯湖

 なんだかよく分からないうちにすべてが終っていた直枝理樹

 実に散々である。
 文句の一つでも言ってやろうかと口を尖らせる一同であるが、タイミングよく西園の着信が響き渡った。

「・・・・みとりのご両親からです。親戚の方もそれほど重体というようでもないらしいですね。今日はそのまま家に帰るそうです。今からみとりを迎えに来るとのことなので、ちょっと出てきますね。・・・・みとり、お父さんとお母さんが迎えに来るようだから、帰る準備をしましょうか」

「は〜い」

 素直な返事を返すみとりは、こうしてみる分には非常に良い子だ。美魚の言葉にはちゃんと従うし、懐いてもいる。何も知らなければ仲の良い姉妹と誤解しても仕方ないくらいだなと、しみじみ、そんな事を思っていると、理樹は背後から声をかけられた。

「・・・・理樹、お前もついて行ってやれ」

「鈴?」

「夕方とはいえもう暗い。女の子の一人歩きは危険だ。来ヶ谷のようなヤツに襲われないよう、男のお前がついて行け」

「何でそこで私を引き合いに出す!?」

 来ヶ谷の文句を軽く流し、珍しく殊勝なことを言うなと理樹は妙に感心してしまう。来ヶ谷という危険人物がこう毎日暴れ回っていては、さすがの鈴でも危機意識が芽生えるらしい。
 しかし・・・その来ヶ谷唯湖に一撃で昏倒した自分がついていって、果たして意味があるのだろうかと情けないことを考えてしまう。まぁ、居ないよりはマシなのか。それに、ここでウジウジしていても真人や謙吾、それに恭介はいないのだ。ここで自分が行かなくては、一体誰が西園に付き添うのだと理樹は自分を叱咤する。

「わかった。じゃあ区切りもいいし、今日はこれで解散にしようか」

 立ち上がりかけた理樹に、鈴は釘を刺す。

「理樹。モンペチの件は忘れてないだろうな? クドの“子守”で今日は散々だった」

「リキっ!!! 今度のデート、絶対ですよ!!? 忘れてたりしたら本気で怒りますからね!!?」

「・・・・・あ〜・・・・そういえばそういう話もあったっけ」

 素で忘れていたらしい理樹の様子に、クドと鈴の眉間に険しい皺が寄るが、

「直枝さん、みとりの準備ができました。そろそろ行きますけど・・・・」

「あ、うん。じゃ、そういうわけだから行ってくるよ」

 罪悪感の欠片もない素っ気なさで、理樹は西園とみとりを引き連れると部屋を後にした。
 取り残された二人は、理樹の出て行ったドアを睨みつけていたが、諦めたように溜息を吐く。

「・・・・ま、こんなもんですヨ。理樹くんにデリカシーを求める方が無理ってことですね。姉御に約束を反故にされた私のようになりたくなければ、血判書でも書いてもらうしかないんじゃないですか?」

 ただの思い付きを三枝は口にしただけなのだが、それを鈴とクドは真剣に受け止めたようだ。ああでもない、こうでもないと討論を交わしているかしまし娘たちの密やかな声に耳を傾けていると、もうひとつ―――それとはベクトルを異にする沈鬱な声が、部屋の隅からぼそぼそと聞こえてくる。

「・・・・一緒にお風呂に入るのは私だったんだ。西園女史は機会があればいつでも入れるというのに、どうしてわざわざ二人だけで入る必要がある? 役得すぎるだろう。こんな時くらい私に任せてもいいじゃないか。そう思わないか、葉留佳君?」

「あ〜・・・・。もぅいい加減、姉御も自重という言葉を身に付けた方が良いと思いますよ。そういうところだけは本当に女々しいですよね。・・・・・・・・・それにしても、何か忘れているような気がするんですけど、誰か知りませんか?」

「ああ、そういえば飯がまだだったな」

「いえ、そう言うんじゃなくて・・・・もっと別の、何か重大な事を忘れているような気がするんですけど・・・・」

「モンペチだな」

「でーとですね、わかります」

 三者三様の回答に、三枝もそれ以上追及するのも馬鹿らしいと思ったようだ。口を噤ぐものの、それでも、歯と歯の間に挟まったパイナップルの果肉は、随分と三枝の頭を悩ませ続けた。

「ま、思い出せないんですから、どうせ大したことじゃないですよね」

 こうしてその日は誰からも忘れ去られ、生徒指導室に拘禁された棗恭介は、厳罰処分として一週間の自宅謹慎を受けることとなる。復帰するまでの間、誰からも気づかれないという事態に、一人、布団で涙を濡らす事になる恭介は、「何故、こんなばかげた事をしでかしたんだ」と尋ねる当直の教師に対してこう云ったそうだ。

「先生。俺はただ、自分に素直になりたかっただけなんです・・・・」

「・・・・・恭介、お前もう一回、三年やり直すか?」






 あとがき

「400字詰めで170ページというボリュームを一体誰が読むんだ?」
 そういう疑問は当然ありましたが、書いた物はしょうがない。
 このSSに最後までお付き合い頂いた読者の皆さん、本当に有難うございました。
 このSSを読んで皆さんはどう思ったでしょうか。自分はというと、現状に困惑する西園さんの苦悩は一体どれほどのものだったのだろうかと書いていてなんですが、本当に悩みました。
 イブの夜に願ってしまった祈り。それが叶えられ、運命の悪戯に翻弄される姿を書くという作業は、正直な事を言いうと・・・結構苦しかったです。クドに、そして理樹に誤解されて憤懣やるかたなく泣きながら去っていく西園さんの姿ってなかなか思い浮かびませんでしたからね・・・・。本人だと気付いて、仕出かした己の過ちに嘆くクド。それを優しく励ます鈴を後に、必死に探す三枝、来ヶ谷、理樹の姿―――読者の皆さんも思わず込み上げてくる『何か』があったのではないでしょうか。
 その後に待ち受ける過酷な運命と、西園を救うために、恭介の身を挺した行動の末。起こってしまった悲劇は・・・・なんていうんですかね。自分も仕事で悩んでいた時期と重なっていたこともあるんですけど、自分もこういう男になれたらなあ・・・と、羨ましくさえ思います。
 最後になりましたが、次の言葉であとがきを終らせてもらおうかと思います。読者の方もこの言葉を読めば、「なんでこんな物を読ませたんだ・・・!」という憤りも、少しだけ和らぐのではないでしょうか。





 これは ひどい



















お囃子・感想などいただけましたら。

おなまえ(省略可)



お囃子!(→盛大)

ぱち ぱちぱち ぱちぱちぱち

よろしければ何か一言!(省略可)





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