風U
「………!」
心地の良い夢がからみつくシーツごと無意識に遮られ,暗い部屋の中で目を覚ます。
「………『 0 0 6 』………,まだ夜中か………」
ベッドサイドのデジタル時計の微かな蛍光表示を,眠気の残るままの目をこすりつつ追いかける。
未だ起きない体故のけだるさが,無理やり起こした上体を覆っていた。
「………なんか雨も降ってるみたいだし」
ぼへらー,と半分寝ながら眺める閉じたカーテンの向こうでは,結構派手に雨音が窓を叩いている。カーテンを閉ざす前の,眠りに落ちる直前の降るような星空には雨雲のかけらも見えなかったはずなのだが。
「んー………タバコタバコ」
相沢祐一が,タバコ嫌いの恋人のおかげで室内で喫えなくなってしまってもう随分経った。
が,今頃彼女は実家で家族と水入らずの夜を過ごしているはずである。
もうやがて失われてしまう,愛しい愛しい寝タバコタイム。今日ぐらいは満喫させていただきたい最後の晩餐なのであった。
………ヤニの匂いに敏感な彼女に,後で猛抗議を受けることさえ覚悟をすれば。
「………寝よ」
随分と消費ペースの減ってしまった故のまだまだ充分なボリュームを残したパッケージに,百円ライターを押し込んで残る時間の惰眠を決め込もうともう一度横になる祐一。
『ぽーん♪』
−そのときであった。
「………ふわ,何だよこんな夜中に………」
軽快なチャイム音が,カーテンの内側の真っ暗な部屋に響き渡る。
祐一は慌ててもう一度時計を確認する。
−真夜中だろうが明け方だろうがなんだろうが,文字通り夜討ち朝駆けで平気で遊びに誘われてた学生時代ならいざ知らず。『016』という時間を示すそのデジタルは,通常来客のある時間のソレではない。
「………はーい,どーかなされまし………」
それでも,気になるその電子音に,祐一はサイドの椅子にかけてあったジーンズをひったくって脚を通し,ジッパーを引っ張りあげながら玄関へと向かい,ドアを開ける。
「………」
と,そこには,見慣れた(具体的には数時間前にこの部屋にいらっしゃったはずの)女性のシルエットが,剣呑な雰囲気を滲ませつつそこに佇んでいた。
ロングなウェーブの黒髪が雨のしずくにわずかに濡れて,その顔を覆い表情を隠している。
「………」
微かにこわばった口元が表しているのは,今現在の彼女のご機嫌であった。
「………げっ!か,香里,な,何でこんな時間に………」
狼狽する祐一の眼前に,彼女−美坂香里がおし黙ったまま左手を差し出す。
薬指に光る,小さな指輪の輝きが妙に目に痛い。
「…」
ゆっくりと手をかざし,おもむろにその手首を飾るシックな腕時計の文字盤を祐一の眼前に突きつける。
「………くじ,じゅうさんぷん………?」
−あれ?未だ夜中じゃなかったのか?なんでそんな時間?コレは夢?
シンクダムが膨張する祐一であった。
「はちじにめざましせっとしたんじゃなかったのかなー?ぼくー?」
顔を上げて口元だけで微笑む,美しい香里のその笑顔。
しかし,ぜんぜん笑っていないドコロか,射すくめるようなその目はいつにもまして超剣呑。かてて加えて後半に行くに従って,作ったような朗らかさからドスの効いたトーンへと変貌を遂げていくその台詞が祐一の焦りを掻き立てる。
「んな,バカな,確かにオレは………」
思わず,ベッドのサイドにばたばたと駆け寄って持ち上げる目覚ましは,
「うわ,逆さになってる!」
思いっきりひっくり返っていたのであった。
………しかも,きっちりとアラームのストップボタンを下にして。
「……………」
どよーん,と重たい気配が音も無く背後から近づく。
肩にひしひしとのしかかるような,ずっしりとした重厚なプレッシャーが寝起きの胃とあと寿命とかに大変優しくない。嫌な汗を,顔に背中に盛大に流しながらな『あーあ,やっちゃった感』に己を呪う。
「あは,あはは,よ,よかったじゃないか。ほら,万事お見通しでいらっしゃるハニーの慧眼のおかげで約束の時間にはかろうじて!」
もともと9:00に香里の家まで出迎えに行って,10:00には市役所に婚姻届を提出して海へとデートに向かう約束な二人であった。
幸い思いっきり車を走らせれば間に合わない時間ではない(それでも法廷速度の遵守を迫る機関との戦いになると敗北必至なのだが)。が,問題はソコじゃない−果たしておくべき約束への落とし前を如何にごまかすかが祐一の喫緊の課題−のである。
「えーい,この進歩無しー!阿呆ー!」
当たり前のように過去幾度も繰り返してきた『無理なものは無理』が炸裂する。あたふたと着替えを始めた祐一に遠慮なく罵声を浴びせ始める香里さんであった。
「どーせこんなこったろーと思ったわよー!」
−起きてさえいれば眠かろうがなんだろうが携帯に出ないわけではない祐一の行動傾向は,当然香里も知っていた。
8:00過ぎに入れた5度目の10コールの反応が無かった瞬間,彼女は総ての準備を整えて祐一宅近くまで走るバスへと飛び乗ったのである。
「わはは,精神的には目立った進歩は無いけど肉体的にはこの目立ったち………」
ほぼ悪あがきのような祐一の香里へのごまかしが,着替え中を利した生理現象フル活用のサイテーネタの披露に及ぶに至り,
「あいだだだだだだだだだ痛い痛い痛い痛ーい!」
「いつまでそんな変態まがいのボケを続ける気なのよ!ちょっとは大人になりなさいよー!!」
ぷつん,と反射的に理性の吹き飛んだ香里から,
「うにゅあああああああああああああああああああああ折れる折れる折れるごめんなさいごめんなさいごめんなさーい!」
スタンディングバックの状態から魔術のように繰り出される必殺のチキンウイング・アームロックが,祐一の上半身をぎりぎりと蛇のように痛めつけるのであった。
「ほわわわわわわわ切れる千切れる歪む壊れるお願いやめてやめてやめてー!!!」
「覚えたかこのたわけええええええっ!」
祐一の肘や肩の関節や腱を強烈に絞り上げ,謝罪を強引に奪い取った香里は,本来の目的を果たさせるべくあっさりと技の固めを放棄する。
「さっさと準備する!」
「………うう,酷い………」
「あと3分以内に身支度きっちり整えて車の運転席に着席のこと!いいわね!?」
…どっちが酷いんだか,そう言い残すと香里は道具を抱え,踵を返して部屋を出る。
「まむ,いえす,まむ!」
アメリカ海兵隊の新兵風な勢い(ヤケ気味)の祐一の返事を背につかつかと階段を降りていく香里さん。
「………バカ………」
家庭的な面においてはとてもとてもとても世話の焼けるこの男と,一時間後には(法的に)連れ合いになるのである。そんな相変わらずな祐一との,ごく近い未来のお互いの将来像に軽く眩暈を覚える香里なのであった。
-が。
背後からあわを食ったように駆け下りてくるその足音。
「…ふふ…」
ちょっとだけ心地よく微笑ましい,その焦りっぷりに。
表情を悟られないように,安堵の微笑み。
「………逃げ出さなかった分だけ,上出来というべきなのかな?」
-ほんの少しだけ感じていた最後の不安が,これで消えた。
そう,それは望み夢見た,高校時代からの憧れ。
もうすぐ,叶う。
叶うのだ。
気持ち軽やかになった香里の足取りが,小降りになった雨の中を祐一の車へと急ぐのであった。
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