勢い良く開かれた南向きの窓から,カーテンがレールを滑る軽快な音が響く。
拷問のような残暑の日差しも,纏わりつくような湿気もいつしか去り,開け放った窓から半開きな玄関のドアにさわやかな風が駆け抜けていく。
「…いい風ね」
緩くウエーブのかかった髪をその流れにまかせながら,窓際に身を預けたサマードレスの女性が気持ち良さそうに微笑む。
「………うう………」
そんな彼女の後ろ。
突然差し込んだ眩い光に,部屋の隅からくぐもったような男のうめき声が上がる。
「………いつまでも寝てるんじゃないのよ,ほら,さっさと起きる!」
声の主のルーズな反応にカチンと来たのか,モロに説教口調な彼女の怒声。
普段は愛らしい彼女の大きな瞳が,怒りが故に剣呑に光る。逆光なのにやたらと鋭くくっきり輝くそれは,はっきり言って超怖い。
「うす!姫には本日もご機嫌麗しゅう!」
「威勢がいいのは口ばっかじゃないの!」
全然起きるつもりも無いのに,顔だけ自分の方に向けてニカっと見せる白い歯が無駄に怒りを掻きたてる。
「おす!」
のったりと寝そべったまま返す返事だけは,相変わらず勢いが良く。
美人は怒ってもやっぱり美人だよな,とか思いながらも,どーにもならないのは頭痛と眠気ゆえに動かない(動かしたくない)体,である。
「くぉらー!」
そんな男の怠惰さに逆撫でられた神経が,ベッドの上で電光石火に炸裂させるかなり本気なチキンウイング・フェイスロック。
「おあだだだだだだちょーくちょーくちょーーーーーーーーーく!」
「この子はっ!この子はっ!」
「あだだだだだだだー!」
ぐいぐいと顔を締め上げられる激痛にたまらずタップするブラウス越しの細い腕も,ぎぶあっぷの認められない初秋の寝室の熱いマット(レス)であった。
風
「痛ってーなー。もうちょっと加減とかそういうの希望―」
児戯に等しいじゃれ合いのような(ただし無駄に痛い)やり取りもひとしきり。相沢祐一が二日酔いな寝ぼけ眼と,激痛にひりひり痛む頬をさすりながらベッドの上にのっそりと身を起こす。
「あんたその程度じゃ起きないでしょ」
乱れたスカートの裾を気にしながらベッドから降り,馴れた手つきでコーヒーメーカーにフィルタをセットしながらそんな祐一をたしなめるのは美坂香里嬢。
「休み前だからって,あんまりだらしないの良くないわよ」
膝立ちでのそのそと窓際に身を寄せて,ふて腐れ気味にタバコに火をつける祐一の,分かりすぎるくらい分かりきった性癖である。
「………ふん,だ」
「拗ねてもかわいくない!」
故意に幼児化してみせる祐一(ご機嫌伺い風味)をあっさりと一喝する香里。
「ちぇ」
職場でも友人の前でもほとんど見せることの無い,祐一の子供っぽい(香里にとっては愛らしくてしょうがないらしい)側面を楽しむことが密かな幸せになって久しい。
−のだが,同じように,人前でほとんど見せることの無い『どう考えても緩みすぎでしょ』なもう一つの側面が香里の頭痛の種になってからも,やはり久しいのだった。
「それよりも明日よ?忘れてないでしょうね?」
湯気を立て始めたコーヒーメーカーの横で,洗ったマグカップの水気を拭き取りながら香里が祐一に尋ねてくる。
「何が?」
「………あんたねー」
あまりにも素でど忘れ風味の間抜けな返答にご機嫌本気で急降下な香里ボイスのそのトーン。
「あーあーあーあーあー!」
経験則から来る惨劇への恐怖を呼び水に鮮やかに蘇る記憶。
…それは,祐一にとって目の前に堂々と置いてあるモノに気が付かないレベルの感覚で気が付かなかっただけで。
そーでした。
明日という日は確かに大事。
「美坂香里最期の日だ!」
ぽむ,と手を打った祐一の晴れやかな笑顔に,
「この阿呆―!」
鬼の形相で本気のトレイが打ち下ろされるのであった。
「………カドはやめようよ,痛いんだよアレ」
「ボケるにも言い方ってあるでしょ?」
涙目で苦情な祐一を,ふくれっ面でたしなめながらその頭のコブに薬を塗る香里。
端から見ればあからさまなドメスティックバイオレンスの現場だったりするのだが,これが半ば日常のやり取りと化しているこの二人にとっては,実のところそれほどな剣呑さは無かったりする。
「………ちゃんと実印持ってきてるでしょうね?」
「あるですよー」
ぱたむ,と薬箱の蓋を閉めながらの香里の問いに,祐一がベッドの枕の下から印鑑の小箱を取り出して振り振りする。
「はい,宜しい」
「うっわ,板に付いてきたねこの高校教師!」
「うるさいわね放送エンジニア」
お互い就職してまだ一年も経ってない。
しかしながら,元々ほぼ完璧な社交性を備える香里嬢,出身高校である職場への順応も全然早く,能力も充分に高いために評判も上々だったりする。
『既にベテランの風格さえ漂ってる』とは,新人の指導官でもある彼女の2年次の元担任の評ではあるが,祐一がそれを知る由もなく。
「…ところで用紙はあるんだよな?」
「はい」
祐一の返しの問いに,香里が持参のトートの中からA4フォローの大封筒を取り出して一振りする。
「………お,何だ,もう記入してあるじゃん」
「うん」
香里から封筒を受け取ると,がさごそと中の書類を取り出して内容を確認する祐一。
「間違いとかあったらいけないから,役所で書き方とか確認してきたのよ」
既に香里がある程度記載を済ませてあるその書類を眺めて,
「ふむふむ。簡単そうだけど書かないといけないところは多いね」
めんどくさそうに祐一が呟く。
「公的な書類だからちゃんとしないと!」
「へいへい」
「あと,必要な証明書はみんなもらってきてるから」
「やる気満々だ!」
「あんたねー」
香里の角がむくむくと伸びてくる錯覚に捕らわれて,
「…うわ,もうカドは勘弁!」
がば,っと両腕で頭を大袈裟にガードして上目遣いに香里の様子を覗う祐一。
「もー」
ぷう,とちょっと香里の頬がふくれる。
「わはは,ごめん,ごめん」
弄りたがりな生来の気質もそろそろ店じまい。お姫様にホントにおへそを曲げられるのは,本日だけはノーサンキューな祐一である。
「………そこは,ちゃんと自筆でね?」
「はいー」
照れ隠しなのかそっぽを向いた香里の頬には,微かに朱が差している。祐一としては,控えめなメイクで一段と輝きの増したその美貌が俯いた髪に隠れるのは,なかなかに惜しいところな彼氏バカである。
「…これで,いいかな」
「………もうちょっと丁寧に書きなさいよー」
「コレが精一杯なんだよー」
さらさら,っと自署を行って判子を付く。
文句を言いながらも,表情のそこかしこが嬉しそうに綻んでる香里の様子に自然と頬も緩む祐一であった。
「じっと見られると緊張するんだよ」
「何言ってんのよー!」
そんな祐一と並んで記載内容を何度か目で追って確認した後,
「………ん,おっけー!」
おもむろに破顔する香里。
『夫となる人:相沢祐一』
『妻となる人:美坂香里』
真ん中付近に書かれたのは,横に並んだ二人の名前。
…そして,改姓のための「夫の氏」の横に元気良く打たれたチェックの印。
「…何か不思議な気もするんだがなー」
「良いじゃない,結構気に入った響きなのよ?『あいざわかおり』って」
そう,明日は休日ながら,大安吉日。
相沢祐一と美坂香里は,明日市役所に行って「婚姻届を提出する」というおおよそ一ヶ月ほど前からのお約束を果たさんとしているところなのである。
「何というか,随分アッという間だったな。ココまで」
「…長かったわよ」
結婚の申し込み自体は,祐一の就職が確定した段階で,祐一の口から行われていた。
交際開始後の割と早い段階から香里がそれを望んでいたことを知らないわけではなかったのだが,如何せん生活力が追いついてくるまでは無責任に口にすることをはばかった祐一なのであった。
「…そだっけ?」
「そうよ」
ベッドサイドで,香里の入れてくれたコーヒーに口を付けながら,そんな感じの二人のプチ回顧。時間の経過に関する見解の相違は,
「こないだ,お前の家に挨拶に行ったばっかじゃんか」
「こないだって,もう3ヶ月経つじゃないの。それに,つきあいだして5年よ?5・ね・ん」
ひとえに起点の差,なのである。
駅二つ向こうのあの街で,二人が初めて出会ったのが6年近く前の冬の,お正月明けであった。
惹かれ合うようになるまでに,大して時間のかからなかった二人(と,少なくとも香里は主張する)が交際を始めてもう5年になる。
大学受験から進学,祐一の浮気(と,少なくとも香里は主張する)が原因による別離の危機に,祐一の就職大ぴんち,海外の祐一の両親との悪戦苦闘のコンタクトによる婚姻の承諾etcetc。よーやく明日の善き日を迎えることと相成ったのであった。
「今日は実家泊まりなんだろ?そろそろ送って行かなくて良いのか?」
「…あたしはもうちょっと大丈夫だけど,祐一こそ良いの?ちゃんと明日起きられる?」
「どんだけなんだよオレは」
「肝心な日に目覚まし忘れるとかで,どんだけあたしが酷い目にあったか忘れててそういうこと言うんだ?」
水瀬邸に下宿当時の高校時代はともかくとして。
この単位落とせば留年確定なテスト前,就職試験危うく遅刻で危機一髪,卒業旅行で二人仲良く飛行機に遅刻で超ぴんち。掘り返したらキリのない(主に祐一が原因の)失敗談の数々,である。
「だいじょーぶ!ほら,ちゃんともう朝八時に目覚ましセットしたし」
「ものすごい夜更かしして,寝るのが朝とか無いでしょうね?」
熟睡なら目覚ましを容易にブッチぎるその所業は,ひとえに血のなせる技なのか従妹譲りだったりする祐一である。
「それもばっちり!昨日が独身最後の飲み会ってコトで,北川とか斎藤とかと潰れるまでやってきたばっかなんで流石に今日は!」
どちらかといえば女のコ(具体的にはほぼ香里のことだが)よりも友人とのバカ騒ぎを優先する嫌いのある祐一である。そんな祐一からようやく合法的な拘束の根拠を得ることは香里にとっては非常に喜ばしいところであった。
「そんなわけだから安心して行ってらっしゃい!『美坂香里』で親孝行は今日で終わりなんだし」
「アンタがあんまりだらしないと,即苗字戻しちゃうんだけど?」
「うわ,キッツいなあ」
『ナントカの弱み』というヤツなのか(時々)裏切られるわ(よく)ほっとかれるわ(割と)嘘つかれるわなのに,なかなか愛想が尽きる気配がない。それだけにときどき祐一の覗かせる愛情への自信がミョーにムカツク香里なのである。
「ふん,だ」
可愛らしく舌を出して「あっかんべ」のポーズな香里さんを,
「…きゃ!」
抱き締めてキスして,ニカっと笑う祐一。
「…」
「…」
「…そーなんないよに,努力はするからさ」
鼻の頭をバツ悪げにぽりぽりと掻く祐一。
これである。ごくごく稀に見せるこんな愛情表現に『だから始末に負えない』と,心に広がる愛しさの片隅でそっと呟く。
「…」
「…」
でも多分,これで良いのだろう。
「…言ったわね?」
「…言ったよ?」
見上げる視線に逸らした視線。
そっと祐一のアタマに手を添える。
「…」
「…」
抱き締めてキスして,にこっと笑う香里。
窓からの柔らかい風が,心地良い。
「…」
「…」
「…簡単には治んないと思うけど,まあ一つ,よろしく」
「治してみせるわよ。おじいちゃんおばあちゃんになるまでにはね?」
照れ照れながら,あらためて結婚のご挨拶な祐一の頬に,柔らかく口づけて微笑む香里。
「…いい天気だな。どっかにドライブとか行っとけば良かったか」
窓の外に視線を移す。
蝉の声がもう聞こえない,秋の空が澄み渡っている。
「…そういうのは,もっと早起きしてから誘ってよね」
ちょっと唇をとがらせ気味な香里さんである。
「今度からは,大丈夫だろ」
「どうだか」
「お前がちゃんと起こしてくれるんじゃないのか?」
「甘えないのよ」
「甘えさせろよ」
「…」
「…」
「…むう,想像以上の甘えんぼさんだなコイツ」
「おうよ!」
「威張んないのよ」
他愛のないやりとりの続く部屋の上で,陽は穏やかに傾いていく。
「…良い風だなー」
「そうね」
「…」
「…」
「明日もこの天気ならさ」
「うん?」
「市役所寄って書類出したら,そのまんま海まで走ろうか?」
「…」
そんな祐一の提案に,ビミョーな笑みを見せた後,視線を外す香里さん。
「…何だよその『無理だー』な表情は」
「…ちゃんと時間通りに起きられる?海,遠いんだから遅いと日帰りできないわよ?」
「努力しますー」
「…本当?」
「…ボク,嘘はつかないよ?」
「…もう嘘ついてるじゃないの」
「うっわー,酷い嫁ー」
「…何よー,ぐーたら亭主ー」
「…」
「…」
「わはは,『割れ鍋に綴じ蓋』ってやつ?」
「…バーカ」
いつしか染まる,西の空の雲がゆっくりと風に流されていく。
破顔する二人の部屋の窓の外,どこまでも穏やかな秋空の向こうでのんびりと鳶の鳴く声が聞こえる。
−北の街の短い秋の,そんな一日の一コマであった。
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