Alone Together
つい一月前の暑さも、すっかり影を潜め、そろそろ肌寒いを過ぎた気温になってきたある秋の日。
時刻は正午より時計の短針が二回りしたほど。
朝方や宵の口ともなると上着を着込まなければいけない気候であったが、この時刻差す柔らかな陽光は、祐一にちょうどよい暖かさを与えていた。
音のない部屋に、微かなページを捲る音が聞こえる。
大学に入り、水瀬家を離れて暮らし始めた祐一は自宅のリビングで、ソファに背を預け本を読んでいた。
テーブルには火をつけたまま数度しか吸っていないアメリカンスピリットが灰皿の上で紫煙を燻らせている。
ペラリとページを捲る音は意外に早く、どうやら祐一が読んでいるのは小説などの活字ではなく、漫画のようだ。
と、突然自室の玄関から鍵が開けられる音、それに続き鉄製のドアがゆっくりと開かれ僅かな軋みを響かせる。
ドアの閉まる音。鍵の掛かる音。トタトタというフローリングの上を歩く控えめな足音が徐々にこちらに近づいてくる。
祐一はそちらを見ない。この部屋の主である祐一以外に自分で鍵を開け、遠慮なく入ってくる人物は一人しかいないからだ。
「あれ、珍しいですね、読書だなんて――と思ったら漫画ですか」
お淑やかな声色。はっきりとした自己主張はないが、それは声の主の理知さや穏やかさを伝えるには十分なものだ。
一応同棲相手でもある、祐一の一年後輩でこの度祐一のいる大学に入学を果たした天野美汐だった。
歳の割りに落ち着いてるよな、お前。
歳の割に落ち着いているとはなんですか。前半の修飾はいりません。
と、日常的につい口を滑らせる祐一に、それにいつも不満げながらも、静かに否定する彼女。
更にその姿を見てほらやっぱり落ち着いてる、歳の割りに。と堂々巡りの思考に陥っては、また余計な突っ込みを入れて彼女を怒らせてしまう。
飽きないな、お互い。と彼女の声を聞いていつものやり取りを思い出し、内心で微笑む。
ただし、実際の表情は至って真面目を装う。いかにも読書してます、というふうに。
「手塚治虫だから大丈夫だ、美汐」
「何が大丈夫かまったくわかりません。祐一さん」
意味不明な返答に律儀に受け答えをする美汐。
美汐は食料品を詰めたビニール袋をリビングとつながっているダイニングキッチンの食卓の上に乗せる。
テキパキと袋から品物を取り出し、冷蔵庫に詰め終えてから、美汐は祐一の右隣に腰を下ろした。
さり気なく、座る直前に灰皿の上のタバコを揉み消す。
「げ、まだ全然吸ってないのに」
「吸わなくていいです。いつもやめるように言ってるはずですよ? こんなの百害あって一利なしなんですから」
「すんませーん」
「反省の色ゼロですよね」
「いやいや、ちゃんとやめなきゃいけないときはやめますよ?」
「どんなときですか?」
「んー、みっしーが身重になったら、とか」
「……それは結構なことですが、それなら今すぐやめたほうがいいと思いますよ。あとみっしーって呼ばないでください」
読んでいる漫画から視線を外し、チラリと美汐を見やると、冷静な口調とは裏腹に若干頬が赤かった。
「ま、美汐ちゃんたら何を想像してらっしゃるのかしら」
と、祐一が茶化す。
「果たしてそれが訪れるのが婚前なのか後なのか、式の準備や家族親戚への挨拶などです」
「うわー、リアクションはウブなのに、返答が限りなくリアルでいやだわ」
と言いつつ、祐一は漫画へと視点を戻す。
ペラリペラリと片手で器用にページを捲りつつ、もう片方の手で美汐のやや癖のかかったやわらかい髪を触る。
「ん」
微かに声を上げつつも、美汐は特にいやがる素振りは見せない。
僅かに細められた瞳を見れば、若干の心地よさを感じているのが伺える。
猫みたいだな、と彼女の仕草を見て、祐一は思った。
かわいい動物にたとえる辺りが、若干のろけの領域に入っていると言えるか。
「それで、何を読んでるんですか?」
「火の鳥・復活編」
「えーと、確か…蘇生させられた青年が、自分以外の人間や風景が土くれに見えたりする話でしたっけ?」
「そ、で代わりにロボットが美女に見えちゃう話」
そう言いながら、祐一はその漫画を読み終えたので、パタンと本を閉じてテーブルの上にポンと投げ置く。
「あーそうですそうです。思い出しました。最後は自分がロボットに生まれ変わってロボットの彼女と一つになるんですよね」
「ラスト的に、それが幸せだったのかはわからんけどな」
深くソファに腰掛けなおしつつ、祐一は呟く。美汐の髪をいじる手は休めない。
「夢を叶えたのだから、幸せだったんじゃないでしょうか?」
「最終的に、ほんの一欠けらのものが叶えられただけで、それまでの道中であらゆるものをなくしてるだろ。トータルで見れば悲劇だと思うね」
若干、即物的、いや差し引きでモノを考えすぎかな、とも祐一は思ったが、確かにそう感じたので素直に吐露する。
「そうですね。主人公は今までの生活を失い、結局はロボットの恋人さえも半ば失ってしまいますしね。でも、祐一さん、世界が底抜けに絶望的なものになってしまって、それを周りが誰もわかってくれなくて、そんな時に唯一まともで、自分が縋れるものが現れたら。他の何に代えてもそれを求めたくはありませんか?」
「――どうだろうな。確かに縋ってしまうかもしれない。ただ、その他に失われるものが、本当に無意味なものなのか、考えたいけどな、そうなったら。一つのものに縋って、周りが見えなくなっていろんな意味のあるものを見落としちまったら、そのまま縋ったものと堕ちていっちまったら……、結局それは単なる逃げにしかならないんじゃないかな。決してハッピーエンドとして成就しないストーリー……、特に俺や、美汐の場合はな」
かつて在り、傍に在り、今はその温もりも何もかも、懸命に駆け抜けて燃やした命の灯火共に失われた、祐一と美汐にとっての、かけがえのない家族。
二人で時には傷を舐めあうように、時には叱咤するようにして、強く生きたいと願い続けてきた、そしてこれからもそう続けるであろう日々。
それがあるかぎり、自分はいろんなものをしっかりと見つめながら生きていかなきゃならないだろう、と祐一は思った。
「そう、ですね」
美汐は悲しい顔はしない。ただ穏やかに微笑む。
「ま、あれだ」
美汐を見つめ、至って真面目な顔で祐一は言う。
「差し当たっては人が土くれに見えるようになっても、みっしーとの破局はないと宣言しておこう」
「あ、ありがとうございます」
冗談めいた祐一の発言に、顔を先ほどよりも赤らめて真面目に答える美汐。
くだらないジョークとバッサリと切り捨てられることを期待していた祐一は、肩透かしをくらった上、美汐の反応に自身も段々と気恥ずかしくなってくる。
「……ごほん。あー、ま、そういうことだから安心しとけ。美汐」
照れ隠しに咳払いしつつ、祐一は美汐の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「はい」
髪型が乱れることを気にして、若干とまどいつつも、美汐はその撫でる手を受け入れながら、微笑み、答えた。
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