東海道本線は、大雨の影響でダイヤが大幅に狂っていた。
今ではもうだいぶ小降りになったのだが、一度乱れたダイヤはなかなか復旧できないらしく、徐行運転が続いている。
こうなることが分かっていたなら、国府津から御殿場線に乗り換えてルートを変え、徐行運転区間を回避すればよかった。だが、久しぶりの東京旅行ですっかりはしゃぎ疲れてしまい、東京駅から帰路につくためこの列車に乗り込んだ直後、ぐっすりと眠り込んでしまったのだ。
そして、列車への影響を説明する緊急の車内アナウンスにより目を覚ました、というわけだ。
列車は、神奈川県西端の湯河原町にある湯河原駅に停車している。この熱海行きのE231系普通列車は、終点まであと1駅というここ湯河原で長時間の停車を行うことになってしまったのだ。
どうやら、熱海駅のプラットホーム全てが列車で埋まっていて、それらが出発するまで入線できず待っていなくてはならないらしい。
ただでさえ徐行運転を行っていることで1時間ほどの遅れが出ているのに、これ以上待たされるなんて気分が悪いが、自然災害が原因ではどうしようもない。ぼくら乗客は、とにかくじっとしているしか術がないのである。
車内にいる乗客の殆どは疲れて眠ってしまっているのか、人の動作はあまり感じられない。聞こえてくるものといえば、人工的な冷房機の響きと、プラットホームを微かに叩くサアァという雨の音。
自分以外の誰も座っていない、なんだが少し物悲しいボックスシート。その窓に映るのは、滴り落ちる雨粒と、ただただ真っ暗な闇と、そして、どこか憂鬱さ漂うぼくの顔。
雨は嫌いというわけではないのだが、夜にしとしとと降る雨というものはなんとなく寂しさがこみ上げてきてしまって頂けない。
ぼくはそっと窓から顔を逸らせた。
湯河原到着から10分ほどが経過するが、いまだに列車は発車する様子がない。こういうとき、一人旅というものは暇で仕方がない。いっそのこと、ぼくも他の乗客のように寝てしまおうかと考えだのだが、つい先ほどまで長い眠りについていた体は、これ以上睡眠を欲している様子はない。それに、座った格好で長時間眠っていたせいか、体が痛い。
これ以上車内にいても退屈なだけだと感じ、とりあえずホームに降りて気分転換をすることにした。
車内とは打って変わって、じめじめとしていてして気持ちが悪い。ホームに降り立ったぼくは、真っ先にそう感じた。
夏の蒸し暑い時期なのだから当然といえば当然なのだが、つい先ほどまで寒いくらいに冷房の効いた車内にいたぼくにとっては、不快以外の何物でもなかった。
それでも、ボックスシートという狭い空間でじっとしているよりも、よほど開放感はあるのでまあよしとしよう。
ひとまず大きく伸びをして、ついでに軽く深呼吸もした。
ぼくと同じように、車内にいては退屈なのだろうか、ホームをうろうろしている乗客がちらほら見られる。
ホーム先端の喫煙所では、紫煙をくゆらす客も幾人か。
そんな光景のなかでも最も目を引かれたのが、人でごった返す、ホーム上の小さな売店だ。長時間の乗車で腹を空かせたのであろう客が、食料を買い求めようと詰め掛けている。この状態では、おそらく売店は普段に比べかなり大きな売上を記録していることだろう。運行に支障が出ているときに売店は繁盛するなんて、皮肉なものだ。
ぼくも小腹が空いていたので売店に寄ってみたのだが、お弁当やおにぎりはおろか、スナック菓子やおつまみなどといった食べ物という食べ物の殆どが売り切れ状態だった。そんな中ぼくは、かろうじて残っていたレジ横のゆで卵を一つ買った。普段はどこにいても簡単に手に入るゆで卵だが、このときはかつてないくらいに貴重に感じた。……まあ、かつてないくらいとは言い過ぎかもしれないが、このときのぼくは本当にそう感じたのだった。
湯河原到着からおよそ30分後、ようやく出発のアナウンスが流れた。
ぼくはホームのベンチからゆっくりと腰を上げ、列車に乗り込んだ。
車掌の笛が響き、パンポーンパンポーンという騒がしい電子音を鳴らしながら扉が閉まる。
まだ新しいこのE231系近郊型電車は、静かに湯河原駅を後にした。
大雨で列車が遅れる、とても面倒な出来事。しかし、そこにはいつもとは少し違ったもの、言うなれば、ちょっとした非日常が存在する。
たまにはこんなことがあってもいいかな……。
トコトコと揺られながら、ぼくはふとそんなことを思った。
……そして、
「まもなく、熱海、終点の熱海です。本日は列車遅れまして大変ご迷惑を……」
ぼくは日常に戻っていく。