今、鳥が鳴きました。目を開けると天井、そして障子越しに日の光が射し込んで来るのが見えます。今日も屋敷に朝が来たようです。
障子を開けると、そこには庭が広がっています。一面を埋め尽くさんばかりの、乱れ咲く花々と青々と繁る緑。その合間から少しだけ、屋敷を囲む白い塀が見えます。桜も梅も枝いっぱいに花をつけています。縁側の傍に突き立てられた七本の細い竹筒に朝顔が伸ばした蔦には、薄青の花が無数に咲いています。
赤い曼珠沙華の花がぐるりを囲んだ池では、白地に赤や黒の斑模様の錦鯉達がゆったりと泳いでいます。
その池に架かった小さな橋の真ん中に、少女が一人佇んでいます。齢の頃十六から十八程。腰まで伸ばした黒い髪は絹糸のように艶やか。白磁の肌に浮かぶのは、紅い花びらのような小さく形の良い唇。黒耀の瞳は、今は物憂げな光を湛えています。
紅い着物の袖から伸びた白い手には、紙を折って作られた白い鳥が載せられています。彼女がふぅと息を吹きかけると、紙の鳥はその翼を微かに動かしました。そしてふわりと宙に浮くと、一瞬のうちに一羽の雀へと姿を変えます。紙であったはずの雀は一声鳴くと、何ごとも無かったかのように飛んで行きました。
ついと少女が首を巡らせます。こちらを見止めるとその、形の良い眉を思いっきり顰めたようでした。
「おはよう、鷹尾」
彼女がわたしの仕えている御方、有衣(うい)様です。この屋敷の主でもあられます。
今日は何だか御声が刺々しい気がします。気のせいでしょうか?
「おはようございます、有衣様。もう起きていらっしゃるなんて珍しいですね」
有衣様は朝が弱く、いつもわたしの後、だいたい九時頃にお起きになります。
「今、何時だと思って?」
思わぬことを聞かれました。わたしは毎朝六時きっかりに起きます、が…そういえば常より、日の位置が高いように感じます。
「六時、ではないのですか?」
その時、屋敷の方からくぐもった音が十、聞こえてきました。……柱時計の音です。
「たまには貴方より早く起きてみよう、そう思って昨日は早く寝たのよ」
「はい」
「その結果が、コレ。貴方が寝坊するんだもの。つまらないわ」
「……申し訳ございません」
「そこで何で貴方が謝るの」
有衣様はわたしを睨んで、それから呆れたように溜息を御吐きになりました。
「有衣を守って欲しい」
そう言われたのは、今から二年前のこと。それからずっと此処で、有衣様と過ごして来ました。
有衣様とわたしが暮らすのは、白い土塀に囲まれた純日本風の家屋と広い庭。此処には四季折々の花々が、一同に会して咲いています。
それは「外」では奇妙な光景かもしれません。しかし、この庭においては常のこと。
塀で仕切られたこの屋敷内とその外では、隣り合っていながら全然違う空間となっています。「外」でいかに時間が流れようとも、いかに季節が巡ろうとも、此処には関係ありません。この屋敷には術が掛けられているからです。時間の流れ、外界の影響を遮断し、この屋敷内全てが有衣様の望む通りになる術が。
ですから屋敷の門は常に閉ざされています。有衣様が望まぬ限り、風一つ吹きません。
術にできないことは、四つのみ。有衣様自身に変化を与えることと、わたしを消滅させること、わたしに与えられた幹隆様からの命令を曲げること。そして、屋敷の「外」の存在に干渉することです。
此処はいつも、彼女の望むとおりに在る。
彼女の望むとおりに空は晴れ、鳥は飛び、魚は泳ぎます。草木はいつも青々と、花は枯れることもなく。時間すらも流れを止める。
そしてわたしも、彼女の望むとおりに在ります。
毎日変わらず静かなこの場所で、彼女を守ってずっと暮らしていく。いつか来る終わりの時まで。
そう思っていました。
「こんにちは!」
明るい声が、響きました。
「来たわね」
有衣様は嬉しそうに言いました。向かう足取りは軽やかです。
由花様がやって来た日、この屋敷には珍しく、風が一つ吹きました。
突然の風に、草木がしばしざわめきました。
「あら?」
髪を押さえて、有衣様が少し驚いた声をあげました。わたしの方を向くと、ふるふると首を振っておっしゃいます。
「有衣様?」
「わたしじゃないわ」
此処には、有衣様が望まぬ限り風が吹くことはない筈でした。何かあったのでしょうか。
「門の方をちょっと見て参ります。ここでお待ちください」
「え、ええ。気をつけてね」
敷石に沿って門へと向かいます。幹隆様がいらっしゃった頃には、道の両脇に植わった紫陽花は、訪れる者を歓迎するかのように慎ましく咲いておりました。今、それは通ろうとする者を拒むかのように、葉を繁らせ、薄い青紫の塊をみっしりと付けています。もっとも、通ろうとする者など絶えて久しいのですが。
しかし、その茂みがふいに大きく揺れました。そして緑を掻き分け、人が一人現れます。
目が合いました。
相手は大きな目を、さらに大きく見開いて立ち尽くしています。
女性です。二十代前半でしょうか? 耳の下辺りまでの長さで切り揃えた短い髪は、染めているのか綺麗な栗色です。縁の赤い眼鏡を掛けています。
「どちら様でしょうか」
「え? あ」
相手は顔を真っ赤にして叫びました。
「ご、ごめんなさい! 空家だと思ってた」
「なるほど。それでその空家に御用がある貴女は、どちら様ですか?」
相手は、バツが悪そうに下を向いています。なにか、やましいことがあるのでしょうか? もしや泥棒という御職業の方なのでしょうか? ならば即刻お帰りいただきに――。
「よし」と小さく呟く声が耳に届いて、わたしの思考は打ち切られました。
「わたし、厚木由花と言います。その、このお屋敷を取材させてください!」
こちらの眼をひたと見つめて、そうおっしゃいました。思いも寄らぬ御返事でした。
「取材?」
「駄目でしょうか?」
「そういうことは、わたしには答えられません」
「取材」、それが本当であるか嘘であるか、私には分かりませんでした。本当であるにしろ、それは有衣様に災いを為す危険性があります。
「主人に伝えておきます。用件を詳しくお話しください。そして今日の所はお帰りください」
「鷹尾、わたしが直接お話を伺うわ。座敷にお通しして」
背後から声が掛けられました。目の前の女性――由花様が息を呑む音が聞こえました。
「……有衣様、何故こちらにいらっしゃったのですか?」
「声がしたからよ。貴方みたいな無表情で無愛想なのに、お客様の応対は任せられないわ」
有衣様の性格だって、客人の応対には向いていないように思うのですが……。
有衣様は何だか張り切っておられます。常より少し楽しげな表情。わたしはその御顔を見ながら、不安を覚えていました。
さてここは屋敷の客間です。八畳の部屋の中央に置かれた机を挟んで、有衣様と由花様とは向かい合って座っていらっしゃいます。
その傍らに、わたしは座っています。
「ええと貴女、由花さんだったわよね? 取材と言うのは?」
首を傾げて問う有衣様。
「はい。わたし、小説書くことを仕事にしてるんですけど、趣味も兼ねて次作のネタ探しに心霊スポットを巡ってるんです。それで、ホテルの人に訊いたらここの名前が出て来て――」
「ここが、心霊スポット……」
「あ、いえ。ホテルの人は街の七不思議スポットだって言ってました。開かずの屋敷だとかなんだとか」
どちらもあまり変わらないような気がしますが…それでも確かに後者は合っています。有衣様も複雑な表情を浮かべて黙っています。
「それで今日ここの庭を、勝手になんですけど、拝見させてもらって驚いた、というよりも感動しました。これじゃあ普段、門を開けっ放しにしてるわけにはいきませんよね。花が枯れてしまいますから」
「ちょっと待って。そう言えばどうして貴女、ここに入って来れたの?」
「普通に開きましたよ? だから拍子抜けしちゃいました」
屋敷の門は常に閉じているはずなのですが……そういうこともあるのでしょうか?
「ふーん、まぁいいわ。珍しいお客様だもの。気の済むまで見て行って。わたしが案内してあげる」
「有衣様、そういうことはわたしが――」
「だから、貴方みたいな無表情で無愛想なのに、お客様の応対を任せるわけにはいかないわ。それにわたしずっと退屈だったのよ」
後者の方が本音なのですね。
「ああ、あの、当初は写真とるだけのつもりだったんですけど、貴方達にもいろいろと訊いてみたいことがあるんです」
「へ?」
「こんな不思議な場所に住んでいる貴方達はどんな人なのか? とても興味があります。しばらくここに通って、取材をしたいんです」
「それはちよっと――」
「いいわよ。歓迎するわ」
嬉しそうに有衣様がおっしゃいます。
「有衣様、それは――」
「鷹尾黙りなさい」
そう言われると、わたしは何も言えなくなってしまいます。
「堅苦しいのは無しでいいわよ。わたしは有衣、こっちの無愛想なのは鷹尾。両方とも呼び捨てでいいわ」
「ああ、それじゃお言葉に甘えて……有衣ちゃんと鷹尾君って呼ばせてもらいます…じゃなかった、もらうね。わたしのことも由花でいいよ。これから、よろしく」
取材は明日から、ということで由花様はその日はすぐ帰って行きました。
次の日やって来た由花様は、さっそく有衣様に質問をぶつけています。
わたしは傍らでそれを注意深く聞きながら、林檎を剥いています。
「わーウサギ林檎だ。鷹尾君上手いね」
「全て剥き終わりました。どうぞ」
楊枝を刺して、卓の上に載せます。
「それじゃ、いただきます。うん、しゃりしゃりしてて美味しいよ」
「そうですか」
由花様は、また一つ、もう一つと林檎に手を伸ばします。
「それで、ここって暖かいし、四季の花も同時に咲いてるけど、どうなってるの? 君達は何か知ってる?」
「この屋敷には術が掛かってるの」
「術?」
「有衣様、そういうことは、あまり話すべきでないかと……」
「まぁいいじゃない。こんなのよ」
卓上に、赤の地に蝶の図柄の入った千代紙が載せられました。有衣様がその表面をさっと一撫ですると、そこから無数の蝶が羽ばたいて行きました。あとには、ただ真っ赤な紙が一枚。
由花様は口を半開きにして、ただただ驚愕している御様子。
「て、手品?」
「言うと思ったわ。手品ではなく術。信じられないかもしれませんけど、ね」
「ううん、信じる。信じるよ」
そうおっしゃると、有衣様の手をがっしりと両の手で握られました。
「生きてる間に本物の魔術師に会えるなんて! 有衣ちゃん、ぜひいろいろとお話を聞きたいな」
「なっ、違う違う」
「そんなこと言わずに!」
会話が噛み合っていません。とはいえこのままでは、有衣様は手を離してもらえそうにありません。
「由花様、有衣様は魔術師などではありません。本来有衣様は術など使えないし、術についても良く知らないのですよ。幹隆様が残した術によって、あんなことができるだけなのです」
有衣様の表情が一瞬強張りました。幹隆様の名を出したのはまずかったようです。幸い由花様は気にとめていないようですが。
「じゃあわたしにもできるのかな?」
目を輝かせて、由花様が尋ねます。
「いいえ、有衣様にしかできません」
「そっか残念。でもそうなるとやっぱり有衣ちゃんには、いろいろと話してもらわないと。術使う時の心境とかね」
……余計なことを申し上げてしまったようです。
「わたしなんかより鷹尾の方が、取材する価値があると思うわよ」
「え、鷹尾君?」
「有衣様、だからそういうことはあまり――」
「鷹尾、ちょっと黙ってなさい」
声が出なくなりました。
「何を隠そうこの鷹尾は、式なの」
「はい?」
「式、式神。術によって創られた存在なのよ」
一瞬の沈黙。
「鷹尾君ちょっと無愛想だけど、どこからどう見ても人間じゃない」
「まぁね。でも本体は小さな木片よ」
「ええと?」
有衣様は呆れたように溜息を一つ吐きました。
「……術の存在はあんなにすぐに信じたのに、どうしてこうなのかしら? 『外』の人間は頭が固いって話は、やっぱり本当だったのね」
しょうがない、と呟くと由花様を指差して言いました。
「鷹尾、何か証拠を見せたげなさい」
そう言われましても、どうすれば良いものか思い浮かびません。しばし考えます。ふと机の上のものが目に入りました。閃きました。
「かしこまりました」
シャツの袖を捲ります。わたしは目の前にある包丁を握って、左腕の手首と肘の中間あたりに振り下ろしました。軽い音がして、わたしの左腕は切り離されました。血は出ません。断面は白くのっぺりとしています。手首側の腕は微かに転がると、
薄く小さな木片へと変わりました。
由花様が固まっておられます。わたしが式であると納得していただけそうで――
「この馬鹿っ! 何てことしてんのよ」
急に胸倉を掴まれました。目の前には有衣様の顔。何だか怒っていらっしゃるようです。
「大丈夫ですよ、くっつければすぐ直りますから。ちゃんと仕事はこなせます」
「そう言う問題じゃないわよ」
有衣様は木片を摘まむと、肩側の断面に無理矢理押し付けます。腕が再生しました。一瞬遅れて、感覚も蘇ります。
「あ、あの、今日はわたし帰るね」
そう言って由花様は立ち上がりました。
「え、ええ。お気をつけて」
「門までお送りします」
いいよいいよ、とぶんぶん首を振って、由花様はあたふたと帰って行きました。
「引いてたわね。あれは」
「そうですか」
「そうよ。全く」
有衣様は腰に両手を当て不機嫌そうに、わたしをじっと見上げてきます。溜息を一つ。おもむろに口を開きました。
「悪かったわね、あんな命令出して」
「は?」
有衣様は何も悪いことなさってないと思うのですが。
「あの…有衣様が謝る理由が、よく分からないんですけど」
「あんな簡単に、自分を傷付けるようなことはするなということよ。この馬鹿」
そうおっしゃると、そっぽを向いてしまわれました。
「有衣様」
「何?」
まだ不機嫌そうです。
「ごめんなさい」
「何でそこで謝るのかしら」
わたしにも分かりません。ただ、謝らなければいけないような気がしました。
「こんにちは」
次の日、由花様の声が屋敷に響きました。
有衣様が、驚いた表情を浮かべました。
「昨日はごめんね。ちょっと気が動転しちゃってて」
「……もう、来ないかと思ってたわよ」
「まさか。まぁ昨日は、人生観が変わっちゃいそうなこと一時に知って、混乱しちゃってたけれど。本物の式神に会えて、インタビューできる滅多にない機会じゃない」
そう言って、以前と変わることのない笑みを投げかけてきます。
「と言うわけで鷹尾君、いろいろと訊きたいことがあるんだけれど」
それはまた、有無を言わさぬ笑みでもありました。
こうして、わたしたちと由花様との交流が始まりました。
彼女は好奇心旺盛で、何と言いますかパワフルで、わたしにとって苦手な相手でした。
でも有衣様にとっては良き話し相手で、有衣様のあんなに楽しそうな顔は久し振りに見ました。
あれから一週間、二人はすっかり仲が良いようです。
「今日は手土産を持ってきたんだ。溶けないうちにどうぞ」
卓に三つのカップアイスが並びました。
「すみません。わたしは式神なので、物を食べることはできないのです」
「え、そうなの?」
そっか残念と呟いて、由花様はアイスを自分の側に引き寄せました。
「ねぇ、この食べ物って美味しいの?」
「え? 美味しい、と思うけど……ひょっとしてアイス、食べたことないの?」
驚いた顔の由花様。
こくりと頷く有衣様。
「幹隆はこんなもの、買ってきたことなかったもの」
「幹隆さんって?」
有衣様はふいと横を向くと、しげしげとアイスを眺め始めました。スプーンにすくって舌先で舐めると、困惑の表情を浮かべながら懐紙で口許を押さえます。
「いらない」
すっと由花様にアイスを返しました。
「駄目だった? 美味しいと思うんだけど。でも困ったなー。流石に、一人で三つは食べらんないよ」
そう言いながら一つ目のアイスを平らげ、二つ目に手を伸ばしています。
「鷹尾君、最後の一個をこの家の冷蔵庫に入れてて良いかな? 次来た時に食べるから」
「分かりました。しまって参ります」
「いや、自分でしまう……って台所の場所がわからないや。ごめん鷹尾君、案内して」
そう言って由花様は、わたしの眼をじっと見つめてきます。
「かしこまりました」
薄暗く細長い廊下を二人で歩いています。
「ねぇ、式神は何で物が食べられないの?」
「命あるものを自分の命の糧とすることは、同質の命同士でしかできないのです。わたしのような紛いの命が普通の食物を摂ろうとしても、拒否反応が出てくるのですよ。とはいえ、わたしたち式は栄養摂取しなくても存在できるので、そもそも物を食べる必要がないのですが」
「拒否反応って?」
「人間が不味いと感じたり、吐き気を覚えたりするのと同じような感覚ですよ」
へぇ、と感心する由花様。
「ほかに人間と式で違うところって?」
「個体差があります。そもそも庭の鳥や鯉のように人間に似せていない式の方が多いですし。そうですね、例えばわたしは五感を持ってはいるのですが、視覚以外を実感することができません。信号としてしか認識できないのです。しかし式全てがそうであるわけではありません。……共通して言えることとなると後は、命令第一ということ。それと、命令でもない限り自殺はできないということでしょうか」
「なるほど。ところで鷹尾君、話は全然変わるけどさ」
「はい、何でしょう?」
「幹隆さんて、だぁれ?」
床の軋む音が、やけに耳につきました。
「着きましたよ。ここが台所です」
「うん、きれいに片付いてるねー」
由花様は入り口の暖簾をくぐると、ぐるりと室内を見回して、冷蔵庫の前に立ちました。取っ手に手を掛けます。
「さっきの質問、答えたくなかったら別に答えなくていいよ。ごめんね」
冷凍室の扉が開きました。冷気が流れ出して来るのが、うっすらと白く見えます。
「うわ、お肉いっぱい入ってる。いいなー」
本当に羨ましそうにおっしゃいます。
「って、賞味期限二年前のものばっかだよ。 もったいない!」
本当に残念そうにおっしゃいます。
「幹隆様は、わたしの創造主です。そして、この屋敷の主人でもありました」
「え?」
「でも、二年前に此処を出て行かれたんです。有衣様にお仕えし、もしもの際にはその身を守るものとして、わたしを創った後に」
冷凍室の扉を閉め、由花様はこちらに向き直りました。
「その人、有衣ちゃんとはどんな関係の人?」
微かな唸りが聞こえます。冷蔵庫の音です。
「恋人、でしょうか」
「そっか。話してくれて、ありがとね」
そう言って由花様は、ぽんとわたしの肩を叩きました。
それから数日後。
その日も屋敷の空は快晴。澄み切った蒼が広がっていました。
しかし由花様は、常より暗い表情でやって来ました。
「あのね、仕事の都合で、こっちにいられるのが予定より少し短くなっちゃった」
「え?」
由花様が帰ってしまう日が来るのは当然のことです。しかし、そのことに今気付いたとでも言うように有衣様は立ち尽くしていました。
「……いつまでこっちにいられるの?」
「ええと、あと三、四日ぐらいかな」
気まずげに、由花様が応じます。
「そう、じゃあまた二人だけの生活になっちゃうのね」
「そのうちまた遊びに来るよ」
有衣様はふいと踵を返しました。
「いいわ。幹隆みたいにどうせいなくなるなら、もう会わなくていい」
そう言って、襖の向こうに消えて行きました。
由花様は長いこと俯いて、黙って卓の木目を見つめていました。
「有衣ちゃん、帰って来ないね」
深い溜息を一つ。
「幹隆さんは、いつ帰ってくるの?」
由花様がぽつりと言いました。
「……帰って来ないと思います。永久に」
「え?」
沈黙が流れます。
「まさか幹隆さんは……亡くなってるの?」
紙の束が落ちる音がしました。
襖が勢いよく開きます。
「どういうこと?」
「有衣様」
「ねぇ、今の本当なの? 鷹尾は知っていたの? 何で今まで黙ってたのよ」
胸倉を掴まれました。
「有衣様、それは――」
わたしを突き飛ばして、有衣様が駆け出しました。急いで後を追います。
「違うんです。どうか落ち着いてください」
「いつか帰って来るかもしれないって思ってたのに。幹隆がいないのなら、ここにいる意味はないじゃない!」
有衣様がどこを目指しているか、分かってしまいました。とてもまずいです。
わたしは式だから、胸が苦しくなんてなりません。息も上がらない。有衣様よりは脚力もあるはずです。それなのに追いつくことができません。でもあともう少し。
腕を精一杯伸ばします。
「来ないで!」
え?
「鷹尾君!」
後ろから由花様の声がしました。
自分に何が起こったか気が付いたのは、床に倒れ込んでからでした。急に全身の力が抜けて、今も起き上がることができません。身体が、自分のものでないかのように。
由花様が立ち止まりました。心配そうにわたしの顔を覗き込みつつ、有衣様の方を気にしています。
由花様、行ってください。
わたしはそう叫びたかったのですが、声が出ません。
しかし何かを察したように、由花様は駆けて行きました。その後ろ姿はわたしの目に、力強く、美しく映りました。
わたしは式だから、有衣様の命令には逆らえません。
こんな時だというのにわたしは無力です。何よりも優先させるべき命は、有衣様を守ることだというのに。
そう、彼女を守ることです。
彼女を守らなくては。
彼女を守るためには、今動かなければなりません。
今動くことは有衣様を守ることに繋がる。
身体に力が戻って来ました。跳ね起きて急ぎます。曲がり角の向こう、たぶん台所から、争う声が聞こえてきます。
入り口の暖簾をくぐって、視界に飛び込んで来た風景は、振り払われた由花様、そして――自分の首に包丁を突き立てようとする有衣様。
「有衣様!」
わたしは止めようと必死で、手を伸ばしました。
間に合いませんでした。
「有衣ちゃん?」
有衣様は床に倒れています。
由花様がその光景をぼんやりと眺めていました。
わたしは、どうすればいいのか分かりません。
「ねぇ鷹尾君、有衣ちゃんどうしちゃったの? 有衣ちゃん、大丈夫なの?」
あの時、刃が首に刺さる紙一重の差で、有衣様の動きが止まりました。手から包丁が抜け落ちて、乾いた音を立てました。有衣様はまるで、突然石像になってしまったかのように目を見開いて硬直して、そうして糸が切れたように倒れてしまったのでした。
わたしは、とりあえず由花様に落ち着いてもらおうと、口を開くことに決めました。
「大丈夫、今は気絶しているだけです」
「そう、なの?」
由花様はひとまず安堵の息を吐かれましたが、顔にはまだ、不安や困惑の表情が残っています。
「そもそも有衣様は自殺など出来ないのですよ」
「え?」
「有衣様は……有衣様もまた、式なのです。本人は気付いていなかったのですが」
「有衣ちゃんが、式?」
「とりあえず、布団敷くの手伝ってもらえませんか?」
由花様は無言で頷きました。
客間の隣の、六畳程の一室に敷かれた布団に今、有衣様は寝かされています。もともと白いその顔はさらに白くなり、まるで死人のようです。
その傍らにわたしと由花様は座っていました。由花様はじっと黙って、わたしが話す気になるまで、待ってくれているようです。
「幹隆様というのは、それは腕の良い術者でした。それで」
有衣様の方を見ました。ぴくりとも動かず、眠っています。
「ある日、自分の腕がどれほどのものか試したくなって、より人間に近い式神を作ろうとなさったのです。そうして、創り上げられたのが有衣様でした。人間と変わらぬ容姿、言動……ここまでは多くの式神が備えています」
「そうなんだ」
「有衣様が特別だったのは、成長性と、自分が式だと気付いていないことによる天真爛漫さでした。有衣様の感情はどんどん人間に近付いていきました」
由花様も有衣様の顔をじっと見つめています。
「有衣様は幹隆様にとってまさに最高傑作でした。幹隆様は、有衣様をとても大切にしていて、だから二年前、この屋敷を出て行く時、術を掛けていったのです。せめて有衣様が楽しく暮らせるようにと。有衣様の望んだとおりになる小さな世界を創っていったのです」
「ちょっと待って。君はその時生まれてなかったんだよね。どうしてそんなに詳しいの?」
「有衣様みたいにわたしを育てる暇はありませんでしたから。幹隆様は手っ取り早く、ご自分の知識と記憶をわたしに入れて行ったのです。有衣様に知られてはいけないことなのですが」
じゃあ、と由花様は口を開きます。
「君は知ってるわけだ。幹隆さんはどうして、ここを出て行ったか」
「それは――」
急に声が出なくなりました。続きを話そうとしても、空気が吐き出されるばかりです。
「有衣様が、もうすぐお目覚めになるようです」
「え?」
「今のお話も、有衣様の耳に触れてはならないものなので」
布団が微かに動きました。
「有衣ちゃん?」
由花様の呼び掛けに、有衣様の瞼がゆっくりと開きます。
「……わたし」
その瞳は、まだ夢の中にいるかのように焦点が定まっていませんでした。しかしそこに宿る暗い光は、徐々に強さを増していきます。
「……わたしは、人間じゃなかったのね」
小さく、しかしはっきりと呟かれました。
「ごめん由花、今日は帰って」
「有衣ちゃん」
「お願い。鷹尾も、ちょっと一人にさせて。もう馬鹿なことはしないから……する意味もないし」
由花様はじっとしばらく黙って、徐に口を開きました。
「わかった。有衣ちゃん、また明日、ね」
有衣様は微かに頷きました。それを見届けてから、由花様は帰って行きました。
「それでは有衣様、わたしは隣の部屋にいますから」
返事は返ってきませんでした。襖をそっと閉めます。嗚咽が、聞こえてきました。
「おはよ、鷹尾君」
常より早く、由花様がいらっしゃいました。
「おはようございます。どうぞお上がりください」
「有衣ちゃんは?」
「まだ眠っていらっしゃいます」
そか、と呟いて由花様は少しほっとしたような微笑を浮かべました。客間に着いて、腰を下ろすと躊躇いがちに話し始めました。
「あのね鷹尾君、わたしもうすぐ自分の家に帰るんだけど、それでね」
顔を上げてこちらの眼を見つめてきます。
「有衣ちゃんを連れて行こうと思ってるんだ。最初ここは楽園だと思ってた。でも今は違う。ここはもう、有衣ちゃんを閉じ込めて、傷付けるだけの場所だと思う。だから」
真剣な声でした。
「鷹尾君は、それでいいかな?」
「……有衣様がそうしたいとおっしゃるのなら。その時は、どうか有衣様のことをよろしくお願いします」
頭を下げました。
「わたしには、有衣様の前に在ることしかできませんから」
由花様は驚いた顔をして、それから噴き出しました。
「笑ってごめん。でも君、花嫁さんの父親みたいな顔だったよ。あのね鷹尾君、君も一緒に来るんだよ」
「しかしわたしは――」
「生活のことなら心配いらないよ。わたしの家、この屋敷と比べたら窮屈に思えるかもしれないけど、二人増えても生活できるくらいのスペースは余裕であるから。君たちなら食費も掛からないしね」
由花様は人差し指をびしっと立てて、胸を張りました。
「……頼もしいですね。では、よろしくお願いします」
「うむ、任せなさい!」
そう言えば、と由花様が切り出しました。
「この前の続き、幹隆さんはどうして出て行ってしまったの?」
わたしは眼を閉じます。
「辛くなってしまったんですよ。好意をよせてくる有衣様と暮らすことが」
「あんなに可愛い子なのに?」
「有衣様の好意が自分が望む故に発生したものではないかと、悩むようになったのです。幹隆様は、本気で有衣様のことを、愛するようになってしまったのですよ」
そか、と由花様は小さく呟きました。
しばらくして、障子の開く音がすると、有衣様の御顔が覗きました。
「由花、来てたの」
「うん。今日はいつもより早起きしてみたんだ」
「そうじゃなくて……もう、来てくれないんじゃないかと思ってた」
「何で? また明日って言ったじゃない。それに、まだアイス食べてないしね」
そう言って由花様はにっこりと笑いました。
「……ありがとう」
有衣様は、そう言って少しだけ微笑みました。
「ね、有衣ちゃん。有衣ちゃんは、『外』に興味ないかな?」
「え?」
「わたしもうそろそろ、自分の家に帰らなきゃいけないって言ったよね。でも、一人暮らしに戻るのは寂しくって。それで有衣ちゃんがわたしと一緒に暮らしてくれないかなーと思ってるんだけど。どうかな?」
有衣様は目を見開いて、驚いているようです。しかしその表情をすぐに曇らせました。
「……駄目よ。わたし、『外』は嫌い」
「でも、幹隆様を探すなら『外』の方が何かと都合がいいと思いますよ。此処では、通信機器使えませんし」
「幹隆を、探す?」
「昨日言いそびれましたけど、幹隆様は生きていますよ。術者が死んでしまったら、わたしたちも存在できなくなるはずですから」
何故か御二人とも固まっています。
「鷹尾」
「はい」
その瞬間、右頬に拳が飛んで来ました。有衣様のです。「結構痛い」です。
「それを早く言いなさい! ああ、わたし本当に馬鹿みたいじゃない」
有衣様は涙目になって言います。
「あれ、じゃあ何で幹隆は帰って来ないの?」
「わたしには答えられません」
有衣様はわたしを睨んでいます。
「わたしが、式だから?」
「わたしには、答えられません」
「……そうなのね」
そう言ってまた、襖の向こうに消えていきました。
由花様は、言葉が見つからずにいるようでした。
その夜、空には満月が浮かんでいました。
庭一面にすすきの原が広がっています。月の光を反射して、群青の闇の中にうっすらと光っています。ちらほらと、虫の鳴く音も聞こえてきました。
縁側の柱にもたれて、有衣様はぼんやりその庭の有様を眺めていました。
「ねえ鷹尾、幹隆は何で出て行ったのかしら」
わたしには、何も答えることができません。
「貴方に訊いても、しょうがなかったわよね。わかってるわ」
ふっと有衣様は淋しげに微笑みました。
「あのね、わたし『外』に全然興味がないわけじゃあないの。でもね、『外』のことを考えると嫌な予感っていうのかしら? 胸がざわざわするの」
「……そうですか」
「うん。わたしは、『外』に出ちゃいけないんじゃないかしら。『外』に出たら、消えてしまうんじゃないかしらって不安になるの。……でも」
しばらく、聞こえるのは虫の声だけでした。
「鷹尾、貴方は、幹隆がここに帰って来ることは、本当にないと思う?」
「おそらく」
沈黙が流れます。
「そう。そうなの」
そう言って有衣様は、じっと何か考えていらっしゃるようでした。
「今日はもう寝る。お休み」
「こんにちは!」
いつもの時間、いつものように由花様がやって来ました。
「今日は紅茶のティーパック、持って来たんだよ」
そう言って三つの小さな紙の袋を差し出しました。
「どうぞ。わたしたちは、飲めないから」
「でも、香りはわかるんだよね」
有衣様がこくりと頷きます。
「お茶の楽しみ方は飲むだけじゃないんだよ」
由花様は、鼻歌交じりにお湯を沸かし始めました。戸棚からカップを三つ探し出してくると、それぞれにティーパックを入れます。しゅんしゅんと音を立てるやかんの蓋を少しずらして、しばらく放置。それからガスコンロを止めてカップに湯を注ぎます。
わたしはそのカップを縁側へと運びました。
「鼻を近づけてみて。どう?」
「花の香りに似てるけど少し違う…不思議な香りね。でも良い香り」
「でしょう」
得意げな由花様。
「鷹尾君はどう?」
「さあ。わたしには、香りの良し悪しを判別することが出来ませんから」
「え、あ」
気まずげな由花様。
「でも、紅茶の色の美しいことは分かります」
そう、良かったと由花様は笑いました。
三人、紅茶を楽しみながらただ庭を眺めていました。
いえ、庭の景色をちゃんと見ているのでしょうか?
かく言うわたしは、この二年間のことを思い出していました。
「由花」
有衣様は気持ちを落ち着けるようにすぅと大きく、紅茶の香りを吸い込みました。
「由花、わたし貴女について行くことにする。それで、幹隆を探し出してやるわ」
そうおっしゃると、不敵に微笑みました。
庭に、別れを告げる時が訪れました。
門の外側に、白の軽乗用車が停まっています。由花様のだそうです。
「荷物は全部、車に積んだよ。あとは君達だけだね」
門の少し前に佇むわたしと有衣様に、由香様が声を掛けます。
有衣様は無言でただ頷くと、門を見据えました。握り締めた手が少し震えています。そして一歩、踏み出しました。一歩ずつゆっくりと門に近づいて行きます。
「外」は目の前。
しかし門のわずか二歩手前で、有衣様は立ち止まってしまいました。着物の裾をきつく握り締めて、俯いています。
「有衣ちゃん?」
心配そうに、由花様が呼び掛けます。その声に応えるように、有衣様は顔を上げて歩を進めようとします。しかし足は上がらず、ただ小刻みに震えています。
「前に、進めない。遮るものは、何もないのに」
その眼に、涙が滲みました。
「なんて、無様なのかしら」
由香様がすっと手を差し出しました。
「一緒に行こっか」
そう言っていつものようににっこりと笑います。
有衣様はその手をぎゅっと握ります。繋いだ手を支えにするかのように、よろけながらも再び一歩を踏み出しました。震えながら、震えながら、最後の一歩へと足を動かしています。空中で、足が門を越えました。「外」の地面と爪先との距離がじりじりと縮まっていきます。
とんっ
微かな着地音。その瞬間、身体を縛る糸が切れたかのように、有衣様はするりと境界を抜けて「外」に立っていらっしゃいました。
何だかぼんやりとしてらっしゃいます。
「わたし……」
「うん」
「わたし、ちゃんとここにいるのね」
由花様は有衣様を抱き締めると言いました。
「うん、ようこそ」
そうして、有衣様は笑いました。この二年間の中で一度も見たことがない程の、本当に嬉しそうな表情でした。
わたしは、その顔が見れた、それだけでもう十分だと思いました。
「有衣様、おめでとうございます」
「鷹尾……次は貴方の番よ」
なんと返事すれば良いのでしょう? 結局わたしは何も言えずに、ただ黙って御二人の顔を見つめていました。このままではいけません。わたしは、門を勢いよく閉めました。
「鷹尾、何やってるの?」
「鷹尾君?」
「すみません。お二人だけで行ってください」
「まさか鷹尾、怖がってるの? しょうがないわね。ほら、今度はわたしが手を貸したげるから」
有衣様が可笑しそうにおっしゃいます。
「有衣様、わたしは外に出ることができないのです」
「何…言ってるの? ほら、わたしも大丈夫だったから貴方もきっと」
「有衣様はもともと暗示が掛けてあっただけで、外に出ても平気なように創ってあったのです。でもわたしは違います。わたしはこの庭の中で有衣様を守る、そのためだけに創られました。わたしには、屋敷の外で存在することができないのです」
「鷹尾君、君――」
「そんな……そんなの聞いてないわよ」
扉の向こうから、声が聞こえてきます。門扉が激しく叩かれました。その振動が背中越しに伝わってきます。
「ちょっと、ここ開けなさい! これは命――」
「なりません!」
自分でも驚くほど大きな声が出ました。
「こちらに来てはなりません。貴女は、此処に戻って何をするというのですか。」
「どうするもこうするもないわよ! この馬鹿!」
「貴女は、幹隆様を見つけるまで帰らないと、決めたのでしょう?」
「だからって、貴方一人がこの屋敷に残るなんて、そんなの」
門を叩く音が止みました。
「そんなの、淋しいじゃない」
「わたしには淋しいと感じることがありませんから。だから、大丈夫ですよ」
どん、と一際強い力で、扉が叩かれる音がしました。
「鷹尾君」
由花様の声です。
「君ってホント、ホントさぁ」
それ以上何もおっしゃいませんでした。
「……有衣様、由花様の手助けがあったにせよ、貴女は幹隆様の創った則から外れたのです。貴女なら、幹隆様をあっと言わせてやれますよ」
「……当たり前じゃない。待ってなさいよ鷹尾。幹隆、張っ倒してでも連れて帰って来るんだから。二人で説教受ける覚悟しときなさい」
「わたしも加勢するんだからね」
大声で、由花様がおっしゃいます。
「お待ちしております」
わたしは微笑みました。誰も見ていないので、ちゃんと微笑んで見えたのか分からないのですが。それでも、なんだかここはそうしたい気がしたので、微笑んで見えるよう精一杯微笑みました。
しばらく、扉の向こうに有衣様と由花様が無言で立っていらっしゃる気配がありました。それが長い時間だったのか短い時間だったのか正確なところは、その場に時計がなかったので分かりません。でも、わたしには長い時間が経ったように感じられました。それから、二人が立ち去る音がして、車のドアが閉まる音がしました。エンジンの唸りが聞こえて、タイヤが地面を滑る音。それらの音がどんどん遠ざかって行きます。
わたしは耳を澄ませます。
けれどもう、静寂が残るばかりでした。
二人が去って、屋敷もしんと静か。鳥の声一つしません。
地面には夥しい数の紙切れが落ちていました。花は枯れ、木々はその葉を落とし、庭は何とも寂しい有様です。
ここは式の庭。
ただ有衣様のためだけに創られた庭。
役目を失ったものは潰えるが運命。
一陣の強い風が吹き抜けて行きました。積もった紙達が一斉に宙に舞い上がります。
思わず目を瞑りました。
こんなに強い風がこの庭に吹いたのは久し振りです。やけに冷たい風でした。
目を開けると、庭には木々以外何もなくなっていました。
まるでそれが幻であったかのように。風はこの二年間の残滓のことごとくを、攫って行ってしまったようです。
縁側に腰を下ろします。そこはいつか、幹隆様と有衣様が毎日のように庭を愛でていらした場所でした。そこは、有衣様と由花様と一緒にお茶を楽しんだ場所でした。
わたしも、もうすぐ消えてしまいます。
消えて、どうなってしまうのでしょう?
人は、「死んでしまったらそれでお終い」なのだそうです。
では、人ではないわたしは?
消えたことのないわたしには分かりません。
ふと、空から白いものが降ってきました。最初、紙切れかと思いました。でも、肌に当たると、すっと消えていきました。
これが、雪。
今は冬だったのですね。
これから、この庭にも四季が巡っていくのでしょう。
毎夜眠りに就く時のように、目に見えぬ闇が手足の先からやってくる感覚がします。
もし再び目覚めることがあったなら。
瞼を閉じて、わたしは夢想します。
幹隆様と笑顔の有衣様。
遊びに来た由花様――由花様なら、幹隆様とも親しくなれる、なってくれると思います。
四季の移ろいの中で、三人一緒にお茶を楽しんでいらっしゃる。
そしてその風景の片隅に置いてもらえたなら、それでわたしは、幸せだと思うのです。
〈了〉