短い髪をふわふわと揺らして、彼女が駆けて来る。
佐々木暦さん。俺の一つ下の中学二年生。
「涼先輩!」
「どうしたの? 佐々木さん」
「これ、調理実習でたくさん作ったんです。良かったら、先輩もどうぞ」
くりくりとした目を輝かせて何かを差し出す。
それは、可愛くラッピングされたクッキーだった。
走ってきたせいか、少し頬が紅潮している。
「ありがとう」
「いえっ、どういたしまして」
そう言って人懐こい笑みを浮かべる様子は何だか、元気な子犬を思わせる。
「では、また放課後に!」
そして風のように去って行った。
ああ、可愛いなあ暦さん。甘いものは嫌いだけれど、彼女のクッキーなら食べてみたい。
「なあ涼、そのクッキー俺にも分けて」
隣に立つ涼に頼む。
俺の名前は加藤冬彦。今ほど涼になりたいと思ったことはない。
「……冬彦、甘いもの駄目じゃん」
「いいから、一個くれよ」
橘涼、俺の竹馬の友はそっぽを向いて、
「冬彦にはあげない。もったいないから」
そう言って、ぱりぽりと食べ始めた。
俺の暦さんへの気持ちを知っているくせに。
暦さんは陸上部に所属していて、マネージャーを務めている。
だから同じ陸上部の涼は、暦さんと親しい。
俺も陸上部に入れたらなあ。暦さんがマネージャーなんだけれど。
「それよりも冬彦。今度の甘い物屋巡りはさ、ちょっと遠出しよう。テレビでロールケーキが評判のお店を紹介しててさ」
「ええと」
「嫌なら別にいいけど。でも冬彦は甘い物嫌い、克服したいんじゃなかったっけ?」
「はい、そうです」
じゃあ、決まりだねと涼は満足そうに笑った。
なぜ甘い物嫌いの俺が、大の甘党の涼と、甘い物屋巡りなんぞを決行しているのか。
話は二週間前に遡る。
「涼、お前に頼みがあるんだ。だから今日は俺の奢りだ」
学校帰りに寄ったファミレスで、俺は切り出した。
「何さ、冬彦?」
涼は、怪訝な顔で応える。
「お前と一緒の陸上部のニ年にさ、佐々木暦さんているだろ。お前と話してるとこ何回か見かけたんだけれど」
「……いるね。それが?」
息を吸い込む。
涼とは十年来のつきあいで家もご近所、気の置けない仲だ。
それでも、こんな相談を打ち明けるのには勇気がいる。
「あの、だな。その、涼は彼女の好きなものとか知らないか? 知ってたらいろいろ教えて欲しいんだ」
「何でそんなこと聞きたいの?」
問われて詰まる。舌が上手く回らない。
いつもならツーカーで、俺の言いたいことを察してくれるのに、こんな時に限って上手く伝わらない。
口を開けるのにひどく力がいるような気がする。
「そのだな、その、彼女のことが、すっ」
「す?」
「好き、なんだ」
しばし、沈黙が落ちる。
そりゃ、そうだよな。
勉強のこと、進路のこと、俺たちは互いにいろんなことを話し合ったけれど、色恋沙汰に関してだけは、これが初めてだった。
いつも飄々としている涼も、さすがにどう返したものか迷っているに違いない。
おそるおそる、涼の顔を窺う。
涼はにっこりと笑っていた。
「そう、わかった。お断りする」
その名の通り涼しげな目元は、しかしよく見ると笑っていない。涼しいを通り越して、冷たい視線が投げかけられる。
「何で?」
「面倒だから」
即答だ。
「そんなこと言わずに。なあ、初恋ってやつなんだよ。彼女と付き合いたいけれど、どうしていいかわからないんだ」
「初恋、ね」
「けれどほら、お前ならさ、暦さんと面識あるし、女の子達とも仲いいだろ。そんなお前から、ぜひとも俺にアドバイスを」
そこで一旦口を閉ざす。
ウェイトレスが注文の品を持ってきたのだ。
涼が頼んだ期間限定デラックスチョコレートパフェ。そしてアイスコーヒーが二つ。
「あ、すみません。追加でもう一つこれと同じパフェお願いします」
かしこまりましたと頭をさげて、ウェイトレスは去って行った。
「まだ頼むんだ? よくもまあそんなに甘いものが入るよな」
クールな外見に似合わず、涼は大の甘党である。
とは言え、先に頼んだパフェというのは普通のパフェの二倍ほども量がある特別なデザートである。ちなみにお値段も他のデザートの倍ほど。
そんなものを二つも食べられるとは、恐るべし甘党。
大の辛党で、甘いものが苦手な俺には到底真似できないことだ。
「流石に二つは食べないよ」
「え?」
涼は相変わらず笑みを浮かべたままだが、その表情に何か嫌な予感がした。
「佐々木さんのことだったね」
「う、うん」
「彼女の好物は甘い物だよ」
「え」
「毎週欠かさず甘いもの屋巡りを行っているんだって。部活が早く終わったら、街の美味しいお菓子屋さんで買い喰い。週末はお菓子屋をはしごするんだって。この辺のお菓子屋のは一通り食べたから、最近では遠出もするそうだよ」
「へ、へえ。すごいな」
「辛いものは大の苦手だって」
それは俺と相性最悪ってことか。
「冬彦は毎週末、激辛料理を食べに出かけるよね。そんな人が果たして、彼女と仲良くなれるかな?」
「……なれるさ。俺は彼女のためなら何だってやってみせる」
そうさ、そのくらい何だ。俺は彼女のためだったら、辛いものが食べられなくてもいい。
「言ったね?」
涼はパフェに柄の長いスプーンを突き刺した。そのまま、何故か俺の目の前に押しやる。
「じゃあ試練その一、これを食べ切って見せよ」
「これって?」
「目の前にあるでしょ。デラックスチョコレートパフェ」
「な、何でそうなるんだよ」
「知ってた? 噂だと彼女の男性のタイプは一緒に甘いもの屋巡りをしてくれるような人なんだって。彼女のために甘いもの嫌いを克服する覚悟ある? そんな覚悟もない奴が彼女と付き合うなんて、無理だね」
何てことだ。
甘いものは苦手だ。
三歳の頃、賞味期限切れのショートケーキに当たってからというもの、生クリームの匂いを嗅いだだけでも気分が悪くなる。
たかが甘いもの、されど甘いもの。
市販のプリンすら食べられない俺にとって、それはなんとも大きな壁だった。
けれど、暦さんへの思いは、そのくらいであきらめられるものじゃあない。
「わかった。彼女に振り向いてもらうために俺はっ、甘いものを好きになって見せる!」
「じゃあこれ食べてみて」
「ああ、わかった。ただし、俺がこれを食べ切ることができたらお前、協力しろよ」
「……いいよ」
これは、試練なのだ。
俺が彼女に相応しい男であるかどうかを問う最初の試練。
やってやる。
数十分後。
山盛りのクリームを掻き分け、濃厚なチョコソースに泣き。
テーブルの上には、空になったパフェの容器が一つ。
突っ伏す自分が一人。
己を褒めてあげたい。よくあの量が食い切れたものだ。
無事食べ終えはしたものの胸焼けがひどい。
「おーい」
声を掛けられて、頭を上げる。
しかし視界に甘いものが入りそうになって、慌ててまた頭を下げた。
「ごめん、ちょっと。今、甘いもの見たくない」
スプーンがグラスに当たる音が止んだ。
次いで、溜め息が聞こえる。
「無茶するから。しっかし、そんなんで本当に佐々木さんとつきあえるの?」
「あえるようになるの。お前にも協力してもらうぞ」
涼は黙り込んだ。
こいつ、ばっくれるつもりじゃなかろうか?
「約束、したよな」
「……はいはい。わかりました。じゃあ」
もう一つ届いたデラックスチョコレートパフェをパクつきながら、涼は無慈悲に告げた。
「冬彦のために、特訓メニューを考えてあげよう」
「特訓?」
「これから毎週末、甘い物屋巡りを行う」
「涼が?」
「冬彦も。まずは次の土曜日ね」
「む、無」
「無理と言った時点で協力するの止めるから」
慌てて口を閉じる。
「ごめんなさい。わたしが悪うございました。助けて涼様仏様」
突っ伏していた頭をさらに机に押し付けて、机の上に三つ指をつく。
「よろしい。まあ、まかせて。とても甘くてとても美味しい店に、連れてってあげるからさ」
その声は何だか楽しそうだった。顔をあげてみると、友は意地悪そうな笑みを浮かべていた。
さすが甘党。他人の不幸は好物ですか。
こうして俺の、だだ甘くて辛い日々が始まったのだった。
一件目は隣町の洋菓子店だった。
地方紙にも数度取り上げられたことがある、そこそこ有名な店だ。
「はい、シブースト。冬彦の分」
「あ、ああ」
目の前にあるのは長方形のケーキ。
土台はパイ生地。後はクリーム状で、間にフルーツが入っているようだ。
表面には琥珀色の膜のようなものが張っている。
スプーンで軽くつつくと、パキリと割れた。
理科の授業で作った、べっこう飴を思い出す。
あれをとても薄く延ばしたらこんな感じになるんじゃないだろうか。
キャラメリゼというらしい。砂糖をバーナーで焦がしたものなのだと涼が教えてくれた。
そろそろとフォークを動かして、ケーキを分割する。
キャラメリゼが割れる微かな感触。スーッと沈んでいくフォークは、クリーム層の厚さを物語る。
底のパイ生地まで切断してから、三分の一くらいを一気に頬張った。
三度咀嚼して飲みくだす。
甘い。
「どう?」
「あの、何かメチャクチャ甘いっていうか、重い」
舌に広がる焦がした砂糖の濃厚な甘さ、微かな苦み。
それはまだ良かった。
問題はクリーム。カスタードクリームなのかなとは思っていたけれど、それにしたって何だかしつこい甘さだ。
フルーツはリンゴを甘く煮たものだった。しかし、その酸味も焼け石に水だ。
「シブーストって、カスタードクリームにメレンゲを混ぜてあるんだよね」
「よくわからないけれど。お前がこんなにきついものを故意に食べさせたんだということだけは、よーくわかった」
やっぱり他人の不幸を楽しんでやがる。
「人聞きの悪い。冬彦のためを思ってなのに」
俺は目の前の皿を見る。あと三分の二が残っている。
二口。大したことのない量だ。
でも、味がきつい。
「代わりに食べてやってもいいけど」
「いいのか?」
「いいけど、その程度でくじけてるようじゃ、佐々木さんの彼氏なんて到底務まらないよね。あきらめたら?」
「……食べます」
「はいはい。がんばれー」
全く気持ちのこもっていない声で、涼がエールを送る。
「うう」
シブーストとの格闘を再開する。
さらに涼は、苺のミルフィーユをパクつきながら無情にも告げた。
「今日中にあとニ件回るつもりだから」
甘味地獄。
けれど自分で選んだ道だ。
シブーストとの激闘に何とか勝利した俺の、次の対戦相手はクリーム白玉あん蜜だった。
洋と和の見事なコラボレーション。これまた、攻撃力の高そうなものを。
涼は手加減というものを知らないのだろうか?
それでもなんとか完食。
ただし三件目のクレープ専門店に行く予定は変更して、俺たちはラーメン屋に行くことにした。
限界だった。
今日これ以上甘いものを食べたなら、俺はぶっ倒れるんじゃないかと思う。
涼は文句を言っていたが、俺の顔色が悪いのを見て取ってしぶしぶ引いてくれた。
今まで巡っていた場所とはうってかわって、ラーメン屋は男性客が多かった。
飾り気のない、熱気に包まれた店内。壁のメニュー表はマジックで書き殴ったような簡素なものだ。
辺りにはスープのいい匂いが漂っている。
「ここの激辛ラーメンは絶品なんだ」
「ラーメンが入るなら、クレープの一つや二つぐらい入るんじゃないの」
恐ろしいことを。
「辛いものは別腹なんだよ」
二人がけの席に腰掛ける。水を持ってきた店員に、お決まりのメニューを頼んだ。
「特製激辛ラーメン大盛り一つ。涼は?」
「激辛ラーメン、一番小さいサイズで」
店員が大声で注文を復唱する。威勢のいい掛け声が飛び交う。
「涼、辛いもの苦手じゃなかったっけ?」
昔から何でも俺よりできた涼。
勉強もかけっこも、ケンカですら俺は適わなかった。
けれど辛いものを食べるのだけは苦手で、小さい頃はカレーの中辛にすらぽろぽろと泣いていた。
俺の記憶の中にある涼の泣き顔は、その辺で止まっている。
だから、辛いものが食べられることに関しては、少しだけ優越感を感じていたのだけれど。
「少しは克服した。努力して」
そっぽを向いて、涼が答える。
おお、えらい。
ラーメンが二つ届く。
この店は、出来上がりの早さも売りだ。
二人してラーメンをすすり始める。
激辛スープに舌鼓を打ちながら、俺は我が身を振り返った。
克服すると言いながら、涼がいなければ逃げ出してしまいそうな自分。
暦さんのためとか言いながら、何てかっこ悪いのだろう。
そして涼のなんとかっこいいことか。
「俺も頑張らないとな」
唐辛子が体を熱くする。
なんだかやる気がみなぎって来た。
ガトー・ショコラやザッハ・トルテの濃厚なチョコレートに難儀し、特大モンブランの後ろに峻厳なる高山を幻視し、ティラミスの控えめな甘さに救われ。
和菓子系の甘さは自分には全く合わないなと実感するも、けれど避けることは許されず。
甘いものを味わい、甘いものの知識を積む日々。
辛いけれど、暦さんとの甘い日々を手に入れるためだと思えば、なんてことはない。
食べてばかりでは太りそうなので、毎朝の涼のジョギングにも付き合った。
甘くて辛い、そんな特訓の果て。
俺は甘いものを食べられるようになった。
相変わらず好きではなかったけれど、笑顔のまま特大パフェを完食できるくらいにはなっている。
涼はまだまだだと、険しい顔をするけれど。
今のままの特訓では精神は鍛えられても、本当に甘い物を好きになることはないんじゃないかと思う。
だから、早く彼女に告白しよう。
彼女の笑顔を眺めながらならば、甘いものだってきっととても美味しく感じられるのではないかと思う。
彼女のいない特訓にすら耐えた俺なのだから。
徹夜で手紙を認めた。
暦さんのことが好きだということ、一緒に甘いもの巡りをしたいということ。
今日の放課後、校舎裏の大銀杏の前で返事を待っているということ。
いつもより早目に家を出た。
だと言うのに、学校に着いてもなかなか彼女の靴箱に、手紙を入れることができなかった。
断られたらどうしよう。この手紙を無視されたら、捨てられてしまったら。
そんなことをする娘ではないと思うけれど。
でももし、この手紙のせいで避けられるようになったりしたら。
いや、今だってそんなに繋がりはないし、会う機会も少ない。
避けられるようになったって、あまり変わりはないじゃないか。
けれど、しかし。
堂々巡りの問いを繰り返すうちに、話し声が聞こえてきた。
時計を見ると、他の生徒ももうそろそろ登校してくる時刻だ。
俺は物陰に隠れたり出たりを繰り返して、人がいなくなるのを待った。
けれど人足は途絶えない。
こちらの決心が着かないうちに、ぽつりぽつりとやってくる。
そうこうするうちに混雑してきて、もう手紙を置ける状況ではなくなってしまった。
暦さん自身もやって来て靴を履き替え、教室の方へと去って行ってしまった。
力が抜けて、その場に座り込む。
これで、今この手紙を入れたとしても、見つけてもらえるのは放課後だ。今日、彼女のクラスに体育の授業はないはず。
溜め息を吐く。
いやいや、放課後に読んでもらった方が、うっかり忘れられる心配がなくて良いじゃないか。
「今日は早いね」
声が降ってきた。
「あ、涼。いいところに。今、暦さんの靴箱に手紙を入れようとしてるところなんだ。見守っててくれよ」
「……そのくらい一人でやりなよ」
「一人だとなかなか決心が着かなくて」
涼はちらりと時計を見ている。
もうすぐ朝課外が始まる。
「今日は告白止めれば? 甘いもの食べられるっつっても完璧じゃないんだし」
「いや、やる!」
辺りを見回して、涼以外に人がいないことを確認する。
心臓がバクバク言っている。眩暈がしそうだ。
彼女の靴箱の前に立つ。ネームプレートをしっかり確認する。
深呼吸を一回二回。
「てりゃっ」
封筒を入れて、すぐさま靴箱の扉を閉じた。
そうしないと、ラブレターが逃げ出してしまいそうな気がして。
ああ、とうとう手紙が、俺の手から離れた。
偉業を成し遂げたような達成感と、取り返しのつかない過ちを犯してしまったかのような不安が、ない交ぜになって襲って来る。
いや、まだ全てが終わったわけではないんだけれど。
「浸ってるとこ悪いんだけど、授業始まるよ」
「あ、悪い」
時計を見るとあと五分ほどで朝課外が始まる。
階段を駆け上がろうとして、涼が叫んだ。
「先行っといて。ちょっとトイレに寄る」
「あ、俺も」
その後、二人してダッシュで教室を目指し、なんとか先生が来る前に席に着くことができた。
一日中、そわそわと落ち着かなくて、隣の涼に泣き言を言っては、呆れたように突っ込まれた。
それでも、気遣ってくれていたのか、今日は部活が始まるまで付いていてくれた。
「じゃあ。駄目だったとしてもそう、気を落とさないように」
大銀杏の下で別れる。
「縁起の悪い励まし方するなよな」
「佐々木さんが、冬彦と付き合うことをオーケーするなんて、想像できないからね」
失礼な奴だな。
「まあ、頑張れ」
「へいへい」
部活に向かう涼の後ろ姿に手を振る。
銀杏の木に背をもたせ掛ける。
そうして、彼女を待った。
けれど彼女は来なかった。
部活が終わる時刻になっても来なかった。
携帯の時計が九時を指す頃、代わりにやって来たのは涼だった。
帰って来ない俺を心配した家族から、連絡が来たらしい。
「月並みだけれど、佐々木さんだけが女の子ってわけじゃないんだから。元気出しなよ」
そう言って励ましてくれた涼に、何も返事できなかった。
何だか頭が真っ白になってしまって。
その日俺は飯も食わずに布団に潜り込んで、枕を顔に押し当てて泣いた。
翌日、泣き過ぎて鈍痛のする頭と睡眠不足でふらふらの身体を引きずって、何とか登校した俺は一日中ぼんやりとしていた。
話し掛けてくる友達や涼にすら、「ああ」とか「うう」とか呻き声のような返事を返すばかりだった。
それでも目は自然と彼女を追ってしまっていたらしい。
暦さんのクラスが体育の時間、窓の外に目を向ける自分に気づいて何だか凹んだ。
しかも彼女を見つけてしまってますます凹んだ。
漫然といつもと同じ動作を繰り返し、何とか一日を乗り切り。
部活に向かう心配そうな涼の言葉を右から左へと流し。
放課後、一人電灯の消えた教室でぼんやりとする。
西日が差し込んでいるので、目に映る景色全てがオレンジ色と濃い黒の影に彩られていた。
いつか食べたシブーストの、キャラメリゼを思い出した。
静かな校舎には、体育会系の部活の掛け声やホイッスルの音が響いていた。
あと、微かに秒針の進む音がする。
一日が、終わってしまった。人間、抜け殻の状態でも生活できるもんだと思う。
こうしていてもしようがない。
帰ろ。
靴を履き替えて校舎を出る。
そして、俺は見つけてしまった。
数歩離れた所にいる、暦さんを。
一人で何かを運ぼうとしている。
洗濯したユニフォームのようだった。
陸上部は大所帯、水を含んだカゴいっぱいのそれは、彼女には少し重そうだった。
持ち上げられてはいるもののようやくといった感じで、足取りも遅い。
手伝おうか、そう声を掛けようかと思った。
けれど、眉をひそめられたら、避けられたらどうしようと考えると、声が出ない。
男のくせに情けないぞ、自分。
こんな時、涼ならどうする?
颯爽と現れて、彼女を助けてあげるだろう。
……だからどうした。
涼と俺は違う。俺は暦さんに振られたのだ。
断りにすら来てもらえなかった。
そんな男が助けに現れたって、ちっともかっこ良くなんかない。
惨めなだけじゃあないか。
その時、彼女が大きくふらついた。
「あ」
思わず声が出て、体が動く。
そうだ。惨めとかかっこ良いとかそんなことはどうでもいいのだ。
振られたこともどうでも……良くはないけれど。
今は置いといて。
結局俺は、今でも暦さんが好きなのだから。
目が彼女を追ってしまう。彼女のことを、気にしてしまうのだから。
俺は何を躊躇っているんだろう、彼女が困っているのに。
暦さんは地面にカゴを置いて、持ち上げ直そうとしていた。
「あの、佐々木さん」
「え、はい?」
彼女が顔を上げた。
辺りを見回して俺が声の主だと気づくと、驚いた表情を浮かべる。
大きな目が、さらに大きく見開かれている。
「何ですか?」
「あの、手伝おうか? 運ぶの」
「え、いいんですか?」
まるで花が咲いたように、パッと笑った。
それは気まずさなど微塵もない笑顔だった。
昨日の手紙を出したという記憶は、俺の妄想だったんじゃないのか。
そんなことを考えてしまう。
カゴを持ち上げる。
「あれ、わたしが運ぶ分がなくなっちゃいました」
「いいよ。俺にとっては軽いし、カゴは一つしかないんだから分けるわけにもいかないだろう」
「あ、はい。ありがとうございます」
カゴを持ち上げて歩き出す。
彼女が横に並んだ。
俺は気まずさを感じた。同時にやっぱり少しだけ嬉しさを感じてしまった。
昨日のことがなければきっと、天にも昇る心持ちになれたに違いない。
「あの、先輩」
「は、はい?」
呼ばれてどもってしまう。
「先輩は、涼先輩のお友達さんですよね」
「ああ、うん」
「お名前は?」
「え?」
俺、名前覚えられてなかったんだ。
それじゃあ、彼女はあの手紙の主が俺だってことも知らないのか。
何だ、そうなんだ。
「加藤冬彦と言います」
「加藤先輩ですか」
あれ、特に反応なしだ。
差出人の名前なんて、覚えてないか?
それとも。
何だか、本当に手紙が届いてなかったんじゃないかと心配になってきた。
「あの、佐々木暦さん。変なこと聞くようだけどさ。昨日、君の靴箱に手紙が入ってなかった?」
「手紙、ですか? いいえ」
「本当に?」
「え、はい」
手紙は本当に届いていなかった。
どうして?
いや、それよりも大事なことは、俺はまだはっきりと振られたわけじゃなかったということだ。
なんだ、良かった。
つまりはこれから、本当に振られる可能性もあるということだけれど。
告白しなければ良いだけの話だ。
そうすれば、もしかしたら今日の日をきっかけに先輩として仲良くなれるかもしれない。
告白は延期だ。
……それで本当に良いのだろうか?
俺は三年生で、卒業するまであと一年もない。
延期して、それでいつ告白できるんだ?
今までの努力を無駄にしてはいけない。
今がチャンスじゃないか!
「あの、佐々木暦さん」
「はい」
「俺、甘いもの大の苦手なんです。辛党なんです」
「はあ」
「けれど、あなたのために克服しました。甘いもの巡りにだってつき合えます」
「え、あの?」
「あなたのことが好きです。つき合ってください」
勢いよく頭を下げる。
目をつむって、暦さんの声を待つ。
やけに長いことそのままだったような気がする。
実際には一分も経っていなかったのかもしれない。
けれど、沈黙の長さに耐え切れなくなって、俺は顔を上げた。
目の前には顔を真っ赤にした暦さんがいた。
「ダ、ダメですか?」
「あ、いえ、あの、その先輩のお気持ちはとても嬉しいんですけれど」
ダメ、なのか。
「わたしも辛党なので辛いもの巡りにしませんか?」
へ?
「甘党って聞いたんだけれど」
「いえ、甘いものも嫌いではありませんけれど、大の辛党です」
それは、俺の得意分野じゃないか。
「じゃ、じゃあ辛いもの巡りをしましょう。辛いものならまかせてください!」
「あっ、はい!」
そうして二人で洗濯物を干しながら、近隣の絶品激辛メニューについて語り込んだ。
それはとってもとっても幸せな時間だった。
陸上部の練習が終わるのを待ってから、涼を呼び止めた。
「聞いてくれ、暦さんとつきあうことになったんだ」
涼は驚いたように目を見開いている。
「どうして?」
「いやー、あきらめきれなくってさ。今日たまたま暦さんが一人で荷物を運んでるの見かけて、それを手伝ってさ、そのまま勢いで告白したんだよ」
「それで?」
「オーケーもらえたんだ」
「……良かったね」
気のない返事だ。もっと喜んでくれてもいいじゃないか。
「あ、そう言えば涼、お前俺のことからかってただろう! 暦さんは俺と同じ辛党じゃないか」
「何だ、バレたんだ」
悪びれる様子もない。
「バレたんだってお前ね。まあ、今となってはもうどうでもいいけれど」
さっそく来週の日曜、一緒に美味しいカレー屋に行く約束をした。
これまでの努力が無駄になったことは少し残念だったけれど幸せで幸せで、涼を恨む気持ちすら長くは続かない。
甘いものはもう食べなくていい。辛いものを存分に食べられる。
愛しい彼女と一緒に。
これからどこへ行こうか、彼女と一緒に何を食べようか、そんなことで頭がいっぱいだ。
「冬彦は」
涼の声がした。
「考えないんだね」
え?
俺が聞き返すのに先んじて、涼が口を開いた。
「何で、佐々木さんは大の甘党で、辛いものが嫌いなんて言う嘘をついたのか。本当に、冬彦は鈍感だよね」
涼はうつむいていて、今どんな顔をしているのかわからない。
けれどその声はどうも、怒っているようだ。
「何怒ってるんだよ?」
涼はそれには答えずに、床に置いた鞄から何かを取り出す。それを投げてよこした。
うまくキャッチできなくてひらひらと床に落ちたそれは、手紙だった。
見覚えがあった。
封筒の真ん中には自分の筆跡で「佐々木暦さんへ」と書いてある。
「返す」
「これ、俺の手紙。どうしてお前が――」
「まだ、わからないかな?」
わからない。
そんなことを言われたって、何で涼が嘘をついていて、俺の暦さんへのラブレターを持っているのかなんて、俺にはわからない。
ただポカンとするしかない俺を見て、涼はいつかのように意地悪気に笑った。
「冬彦は本当に鈍感だね。そんなんじゃいつか、佐々木さんにも愛想をつかされるよ」
「おい、ちょっと――」
それはあんまりじゃないか、と続けようとして、俺は声が出なかった。
だって涼が泣いていたのだ。
「お、おい」
涼は腕で涙を拭った。
鞄を持ち直すと、うろたえる俺を置いて去って行く。
「おい、待てよ」
俺の呼びかけにくるりと振り返った涼は、
「ちょっとは、人の気持ちも考えろバカッ!」
そう叫ぶと、スカートを閃かせて踵を返す。
小さいころから一緒だった。いつも近くにいた。
それなのにだんだん遠くなっていくその背中を、追うことはできなかった。
どんな男友達よりも、俺のことをわかってくれた、涼。
男勝りの親友。
そんな彼女の後ろ姿が、何だか見知らぬ女性のものに見えた。