涙が結ぶ空と海


 薄曇りの日のマクドナルドの照明は、目に刺さるほど明るく感じる。禁煙席までただよってくる煙草のにおいに顔をしかめながら、ぼくはフライドポテトをSサイズの紙箱から一本引き抜いてかじった。
 天気予報を見忘れていた。傘が要るかもしれない。太陽を隠して灰色に輝く雲が、ぼくを焦らせる。
 何にせよ、降らないうちに、早めに帰ってしまおう。慌てぎみにがっついて、チーズバーガーを半分まで減らす。金欠なのでドリンクは頼んでいない。マスタードくさいレタスを飲み込んだ喉が、いやにぱさついた。
 昼までは、嫌味なくらいの南国晴れだったのに。これだから、梅雨は嫌なんだ。
 声に出さずぼやくぼくの頭が、不意にぽすっ、と鳴った。
 振り向く。振り向いた先には、見慣れた長身が立っていた。
 焦げ茶に染めて毛先を散らした短い髪の下の、どことなく皮肉げに垂れた目もとに親しげな笑みをはりつけて、入学式以来のぼくの友人は左手をひらひらと振る。その無骨な薬指には、鉛のような光沢の太いリングが鈍く輝いている。
「よお、ぐーぜん」
 うん、とぼくは返した。誠はいつもこんな、どことなくイントネーションにとぼしい、平板なしゃべりかたをする。
「どうした、ケイキ悪そーな顔して」
「雨、降りそうでさ。傘ないんだ」
 視線で窓の外を示す。怪しい空模様を一瞥して、誠は気のない声で相づちを打った。
「オレらクルマだから、あんまカンケーねーわ。お前、歩き?」
「うん、家そこだし」
 なにげなく答えてから、少しひっかかる。誠の細い眉の下の気だるげな目を見上げ、チーズバーガーを口に運びながら、ぼくは聞き返した。
「オレ、ら?」
 ということは。
「まーこ、とーっ」
 続けるまでもなかった。能転気な声と共に、誠の片腕がぐっと後ろに引かれた。
 彼と同じくらいには見慣れた女が、斜め後ろに立っている。身長は、かなり低い――大柄な誠と並ぶと、それがかなり際立つ。150センチを出るか出ないかだ。くるくると巻かれた長い赤茶の髪に縁取られた白く小さな顔には、猫のように吊った愛らしい両眼とおもちゃじみたピンクのぽってりした唇が輝いている。
 薬指にやはり同じ意匠の無骨なリングをひっそりと輝かせながら、彼女は誠の腕にしなだれかかる。きらきら輝く丸い瞳が、あらためてチーズバーガーをくわえかけたぼくの間抜け顔を映した。
「やっだもおー、ナカムラくん? もー、やだあ、デートのときまでゴイッショするのお?」
 曇り空にはまったく似つかわしくない、ドのつくほど快活な声で、彼女、愛理はけたけたと笑った。
「ナカムラくん、マコト取んないでよっ。エリのマコトなんだから」
 チーズバーガーの最後の一口を飲み下し、ぼくは苦笑した。冗談とはいえ、ひどい言いぐさだ。
「取らないよ、誠も嫌だろそんなの」
「そお? なんかフタリ、すっごい仲いーよねー」
 ね、と首を傾げて、愛理は誠を見上げる。浅黒い顔をわざとらしくひんまげ、誠は顔をしかめてみせた。
「そーいえばそうかな。やべオレ、取られるかも」
「えーっ、やーだあー」
 やたらおおげさに声を張り上げて、愛理はいやいやをする。そして二人でなにやら平和な笑い声を立てる。よくもまあ、ひとをダシにしてこうも平和に談笑できるものだ。ぼくは早めにかき込んだポテトを咀嚼して飲み込み、腰を上げた。
 適当な挨拶をして立ち去ろうと口を開く僕の耳に、さああ、とささやかなノイズが飛び込んでくる。げ、と呻いて見やった窓を、雨粒が叩いていた。
「あー、あっ」
 ぼくよりも数段高い声を上げて、愛理が濡れた窓を指さした。
「もーっ、海行ったときは晴れてたのに! ナカムラくんのせいだよお」
「え、ぼく?」
 意表を突かれて聞き返すぼくに向けて、愛理は難しげな顔をつくる。
「ナカムラくんのせい、ナカムラくんのせいっ。ナカムラくんが邪魔するから、お天気まで邪魔始めたー!」
 理不尽だ。返答に困るぼくに、誠がこともなげに尋ねる。
「送ろーか?」
 まっとうな神経の奴が、この流れで『送って』と言えるだろうか。これが愛理の作戦だったのかもしれない。どつちにしても家はすぐそこなのだから、そこまで甘える気はさらさら起きなかったのだけど。
「いや、いいよ」
 トレイを取って、二人の間をすり抜ける。すれ違いざまに振り向いて、ぼくはにやりと笑ってみせる。
「二人を、邪魔したくな――」
「じゃーねーっ、ナカムラくんっ」
 有無を言わさぬ甲高い声が、ぼくのささやかな気づかいの言葉を力づくでかき消す。顔に苦笑いをはりつけたまま、ぼくはとりあえず四角いゴミ箱を目ざした。



 結局馬鹿正直に全身濡れ鼠になって帰ったその日の雨は、夜中まで続いた。あがるまで待とうとしなくてよかった。不幸中の幸いだ。
 あのとき、K――県上空の火山灰含みの雲は、全部雨になって流れ落ちてしまったのだろうか。ここ数日は、快晴続きだ。
 天気続きのこのごろに、そんな数日前のどうでもいいことを思い出してしまったのは、今日が水曜の一限目だからだ。ぼくと誠と愛理は、いつもこの時間、教室の後列に固まって陣取っている。共通科目、『英国史の中の女中論』。冗談のような内容と点の甘さのおかげで、ぼくや誠たちのような不真面目な生徒には人気の高い講義である。
 ファイルを机に出し、走り書き程度にメモをとったプリントをぱらぱらとめくる。ほどなく聞き慣れた二人の足音が、後ろのドアから近づいてきた。
 いつも通りに誠の腕によりかかったまま、いつも通りの甲高い声でおしゃべりを続ける愛理は、どうやらぼくのことなど眼中にないようだった。ただごくごく自然にぼくの後ろの列へ滑り込み、誠とくっついたまま席に腰を下ろす。
 その頃には、ぼんやりしていたぼくも不自然さに気づいていた。
 いやに静かだ。
 愛理はいつもよりうるさいくらいだが、誠が。
 首をねじり、振り向く。見てみると愛理は明らかに気まずげな焦りを表情のあちこちに覗かせていた。懸命な愛理の語りかけにも、誠は口を開かない。むっつりと押し黙って、分厚いファイルノートをばさばさとめくっている。
 ぼくの視線に、まず愛理が気づいた。すがりつくような視線をよこし、精一杯明るい声を、十分すぎるくらいに能転気な声を、出す。
「あっ、ナカムラくんだーあ。あはは」
 誠の肩を軽く掴んで、ゆさゆさと揺する。誠の太い指が、叩きつけるようにしてノートを閉じた。その反応に希望を見出してか、ひきつりがちだった愛理の顔がわずかに明るくなる。
 細い腕をそっと誠の肩に回し、愛理はつややかな唇の端を自慢げに吊り上げる。
「あたしたちねえ、ナカムラくんっ。あの後また海行ったんだよ。デンシャ、来たからそこでお別れしたけど、ねーっ」
 ねーっ、と言って顔を覗き込もうとする愛理の肩を、誠は素っ気なく押し退けた。ひどくうちのめされた顔を一瞬だけ見せて、なぜか妙にうらめしげにぼくの方を見やってから、愛理はすとんと座り直して笑顔を取り繕う。
「……なんかねー。雨の海って、なんか怖いの。ブキミっていうか。ナカムラくん、見たことある――」
「愛理」
 初めて、誠が口を開いた。
 それはなぜだか、ぞっとするほど冷たい声だった。
 愛理がぴたりと口をつぐみ、恐る恐る誠を見上げる。首を動かしもせず、誠は刺すような視線を愛理に返す。整えられた眉の下の、覇気に乏しい目には、色濃いくまが貼りついていた。浅黒い顔に嫌味なくらい満ちていた生気はなく、まぶたの皮膚はたるまんばかりだ。
 色褪せてささくれた唇をのろのろと開いて、誠は吐き捨てる。
「お前、うるせえ」
 何かが割れた。
 割れる音が聞こえた。
 少なくとも、そんな気がした。
 恐ろしくて、愛理の顔を見ることはできなかった。ぼくはただ必死で、その何やらやつれはてた友人に視線を送り、訴えかける。謝れ。いますぐ謝ってやれ。どうしちゃったんだお前。たしかにうるさい子だとは思うけど、それでも今までそれなりにうまくやってたんじゃなかったのか。
 がたん。
 響いた音に、ぼくの心臓が跳ね上がる。
 愛理が、立っていた。ショルダーバッグをぶん回すように手繰り寄せて掴み、その派手な目許でぎらりと誠を睨む。
 かつん、と硬い音が響いた。ぼくの足もとに、何か小さいものが落ちて転がる。硬直しているぼくも、激高している愛理も、視線を返しもしない誠も、だれ一人としてその音の行方に関心を払えない。
 眉間に濃い影を刻み、細い顎をきりきりと強張らせて、愛理は裏返った声で怒鳴る。
「もういいよ、ばいばい!」
 足音も荒く、愛理はきびすを返す。細い背中が教室の勝手口に消えていく。後ろ蹴りで閉められた立て付けの悪いドアが、ばふん、と間抜けな音を立てた。
 教授はまだ来ていない。それでも、教室は静まり返った。一拍おいて不穏なざわめきが決して狭くないはずの教室を満たす。何だ今の、誰あれ、エリじゃんどーしたんだろ。
 いたたまれない気持ちで、ぼくは誠を見た。数々の囁きと好奇の視線の集中点に座っていながら、その大柄な友人は何を感じている風もない。
 いや。
 誠の荒れた唇がじわじわと緩み、歪み、吊り上がるのを、ぼくは唖然と眺めた。
 不気味な笑みで歪んだ両目でぼくを一瞥し、濁った白目をぎょろりと巡らせてまた手元に視線を落とし、彼はかすれた声を零す。
「――ずっと晴れてりゃ、いいんだ」
 前のドアが、軋みながら押し開けられた。途端に訪れた静寂が、ぼくから言葉を奪ってしまう。
 プラスチック籠いっぱいのプリントを抱えた教授が、教壇の前に陣取る。いつも通りの読み取りにくい字で、板書は始まる。
 ぼくは恐る恐る、ついさっき硬い音が聞こえた方、自分の足もとを覗き込んだ。手を伸ばせば届きそうでもあり、届かなさそうでもある位置に、それはひっそりとうずくまっている。
 それは、指輪だった。鉛色の光沢の、重たげで無骨な、あの指輪。
 そうするしかないような気がして浮かべた苦笑いはたぶん、とても情けない出来だったと思う。


 愛理と誠の破局は、すぐに噂になった。これ見よがしに涙で目を腫らしたまま構内をうろつく愛理の姿を、ぼくは何度か目にした。
 誠はといえば、こちらはおどろくほど平静、平穏、平常、とにかくまったく、冷酷なくらいに変わりなかった。ただ以前見せていた彼特有の人なつっこさや図々しさはまったく成りをひそめたように、ぼくは思った。彼は彼らしからぬ沈黙の中で、静かな日々を過ごしていた。
 ――なんとなく、アタマよさそーになった? と、他の友人は冗談混じりに話していたか。
 そこまで思い出して、ぼくは晴れた夜空に丸く冴え渡る、金色の月をふらりと見上げた。太陽まで突き抜けるような南国特有の強烈な快晴は、誠と愛理のたぶん最後のデートだったのだろうあの日から、ずっと続いていた。高く遠い真夜中の空から降りる生暖かい風が、ぼくの火照った体をぬるりと包んで通りすぎる。
 久しぶりの飲み会だった。少しハメを外しすぎたかもしれない。なんだかさっきから、真っ直ぐ歩けないでいる。ふらつく足をひきずって目的地にたどり着き、ぼくはアパートのエレベーターに飛び乗った。
 アパート。築30年くらいの、あまり綺麗じゃない、8階建ての。もちろん、ぼくが住んでいるところではない。こんな夜、帰る足をなくしたぼくのような自宅生は、よく一人暮らしの友人宅に押しかけるのだ。
 チャイムを鳴らし、応答を待つ。ほどなく戸が開き、ここ最近貼りつきっぱなしの仏頂面がぬっと突き出される。
 眠たげに濁った目をぎょろりと動かし、誠は戸をむき出しの爪先で押さえた。
「寝るだけな」
 無愛想に、そんなことを言う。妙な念の押し方だ。とりあえずありがと、と短く礼を言って、ぼくは誠の住む、相変わらず殺風景で寒々しい六畳一間へ上がり込んだ。

 タオルケットを一枚借りるや、ぼくは深い眠りに引きずり込まれた。
 酒がいざなう夢さえ見ない眠りを妨げたのは、服がぺたりと肌に貼りつく、ある種懐かしい不快さだった。汗だくの体で勢いよく寝返りを打ち、目を覚ます。
 喉から胸にかけてが、ぬるぬると汗ばんでいる。手の甲で拭った汗をズボンの尻にこすりつけ、伸びをする。
 汗臭い。酒臭い。べとつく肌にへきえきしながら、タオルケットをはねのける。
 無性に、シャワーが浴びたくなった。顔を上げて誠の姿を探す。ほどなく見つかった彼は黒いパイプベッドに丸太のように横たわって、耳障りないびきを響かせている。
 こんな深夜に頼まれもしないのに押しかけてきた身で、わざわざ起こすのは気が引けた。湿ったシャツを脱いで丸め、じんわりと湿気を含んでやけに重くなったジーパンを足から引っこ抜く。足音を忍ばせて手探りでバスルームの折り戸を開け、電灯のスイッチを探る。 誠の部屋は、これでも一応『バストイレ別』の物件なのだ。小さな洗面所に面した二つのドアが、それぞれ風呂と便所に繋がっている。ここに来る道みちで何度か済ましてきたので、もう片方のドアには今のところ用がない。
 スイッチは、見つからなかった。ぼくは諦めてパンツを脱ぎ、さきほど脱ぎっぱなしにした服の塊の方めがけて投げつけた。たぶん、同じところに落ちてくれたと思う。
 手探りで、バスルームに入る。水だけさっと浴びて、汗を流すだけでも多分、だいぶ違うだろう。闇に慣れない目で、シャワーの栓を見定めようとする。
 そんなぼくの鼻先を、魚屋の店先のような臭いがぶわっと塗り込めた。
 生臭い。
 ぼくは手をひっこめ、顔をしかめる。
 下水だとかそういった、『汚い風呂場』の臭いでさえない。まるっきり、ナマモノの臭いだ。生暖かい空気に嫌味なくらい溶け込んで、それは風呂場の狭苦しい闇を一色に満たしている。
 魚の血。海の風。はがれてひからびた鱗。そんなものを一気に連想しながら、ぼくは暗闇に目をこらす。
(いけす、やってるとか?)
 バスタブで魚を飼う奴の話なんて、聞いたこともないが――
 とにかく暗い浴槽を、ぼくは覗き込んだ。外から差し込む薄明かりにぼんやりと輝く浅い浴槽には、何か大きなものがとぐろを巻いて押し込められているように見えた。
 びくりと、それが波打った。ぼくの視線に気づいたかのように、その仕種は敏感で神経質な空気を漂わせた。重たげな体に打たれた水面がびちりと跳ね、ぼくの顔に生あたたかいしぶきを掛ける。
 目が、闇に慣れてきた。
 バスタブに押し込められた大きなものは、じっとぼくを見据えていた。――見ているのだ。蒸し暑い闇の向こうに、古びたピンポン玉のような、丸く大きな目玉がふたつ、ひっそりと輝いている。
 遠い地響き。近づく唸り。外の道路を通ったトラックのヘッドライトが、バスルームに無言のまま差し込み、さっと横切る。
 うろこ。目玉。乳房。巨大な口。
 目に飛び込んだのは、そんなものだった。
 雲が流れる。月光がさす。ぬらぬらと照る厚いうろこに覆われたそれが、視界ににじむように現れる。
 人間に――それも、女性のそれによく似たフォルムの体を包む、分厚くきめ細かいうろこの群れ。人間なら乳房にあたる位置をふっくらと盛り上げている得体の知れない塊さえ、隙間なく覆っていた。
 それでいながらしかし、うろこから肉、肉からひょっとしたらさらにその下の何かまで届くような傷は、それの全身をあちこち、無様にささくれさせていた。ささくれたうろこはあちこちからライチのような白い肉を覗かせている。むき出された肉に細かく走った筋は濃い青に染まり、ぴくぴくとうごめいている。
 真横に引き延ばして平たく潰したような鼻腔が、そのうごめきにそってひくひくと震えている。あまりにも人間に似すぎている体格を裏切るかのように、それの顔はひどく扁平だった。
 それの肩から上は、完全に人間のものではなかった。首がなく、顎がない。平たく潰れた顔を真横に分けるように開いた口がわずかに開き、奥の短い、とげのような歯並びを見せつける。
 開いた口をまじまじと見せつけられてなお、ぼくは、何も言わなかった。
 ぼくの代わりをしようと言わんばかりに、それはおずおずと鳴いた。
 低く、細く、たよりなく、かぼそい、歯車のような音だった。声というより、軋みのように、生臭い空気を震わせる。その響きはあまりに悲痛で、そしてグロテスクだった。
 闇に慣れたぼくの目がぼんやりと捕らえる。顔と同化した肩に続いているはずの二本の腕は背後に堅く回され、うろこが剥けるほどに食い込んだビニールひもで拘束されている。それが身じろぎをするたびに食い込むビニールひもは、際限も容赦もなくうろこをこさぎとり、生臭いバスタブにその硬い欠片をぱらぱらと落としていた。
 二の腕のあたりに、すでにうろこは残っていない。青い血管にびっしりと覆い尽くされた白い肉が、汚らしくまとわりついているだけだ。ところどころ果肉のように弾けたそれが、得体の知れない半透明の体液をぷつぷつと吐き出している。
 ゆぶねの奥が、びちん、と鳴った。覗き込んだぼくの目に、不自然な図形がぼんやりと捕らえられる。狭い浴槽に体を合わせるためだろうか、とにかく目茶苦茶な形に折りまげられ、同じようにひもで堅く堅くくくられた、それでもシルエットだけなら人間のそれにぞっとするほどよく似ている、二本の、脚。
 ぼくはもう一度、それの顔を見た。
 扁平な顔からドーム状に突き出た二つの巨大な目玉に、表情はない。涙もなく、哀願もなく、悲しみもない。
 それでも、その喉が軋む。泣き叫ぶように、願うように、悲痛で異様な歌を歌う。
 ぼくは、手を伸ばす。恐怖や驚愕や混乱が現実に追いつく前に、何か意味のある行動をしておこうと、必死で手を伸ばす。
 指先を、浴槽の中の影にそっと差し込んだ。
 爪が紐に触れた瞬間、あるいは触れる直前。
 すさまじい衝撃が、ぼくの脇腹を雷のように打ち据えた。
「げっ」
 硬い息を破裂するように吐き出して、ぼくは無様に吹っ飛んだ。カランに激突した側頭が嫌な音を奏で、薄暗い視界に星が散る。痺れるような痛みに涙がにじみ、利かない視界がさらに歪む。
 声にならない呻き声が、喉からじりじりと漏れた。
 顔を上げる。カチッ、と澄んだ音がわずかに耳朶を打ち、闇に慣れた目を白い光が焼いた。あわてて激しいまばたきをくり返すうちに、周囲の光景がはっきりと現れてくる。
 明るいバスルームの中心に、彼が立っていた。
 電灯をつけたのは、彼だろう。ついさっきぼくの脇腹を思い切り蹴飛ばして耳の上にこぶをこしらえさせたのも、彼に違いない。
 誠。
 寝起きとは思えないほど激しい感情に揉み潰されたすさまじい形相で、彼はぼくをじっと見下ろしていた。
 生臭い空気に、沈黙が降りる。ぎらぎらと光る目で浴槽を一瞥し、誠はゆっくりと荒れた唇を開く。
「見たな」
 その声は、やはり、軋みに近かった。
「み、た、な」
 くり返される。ぼくは抜けた腰で座りなおし、小さく頷いた。
「そうか」
 口早に、誠は呻いた。分厚いてのひらがゆるゆると差し出され、ぼくの頭に置かれる。・じっとりと湿ったてのひらが、髪ごしにぺたりと貼りつく。
「そうか」
 優しげな響きさえ帯びた声と共に、目の前の、硬そうな膝頭がそっと上がる。
「そうか!」
 音は、衝撃は、鼻のずっと奥で弾けた。
 ぼくは長い呻き声を上げて再び転がった。熱をもった鼻が、慌てて当てたてのひらの下でぐらぐらと曲がる。揺れる。ずれる。ずれる? 顔から、鼻が?
 折れた鼻から、暖かい液体は水道のように滴った。乾いたままの風呂場の床に、滴る赤が模様を描き、筋をつくり、川を作る。のたうつうちにきなくさいような生臭いような妙な臭いが鼻から喉を、喉から舌を塗り潰し、口の中をぬとつかせる。
「そうか、そうか」
 顔さえ上げられずにいるぼくを見ても、誠はどうやら満足しないようだった。
「やっぱり、そうか、お前。怪しいと思ってたんだ、お前」
 いくらか静かになりかけた声はまた次第に跳ね上がる。
「てめえ、オレから! オレから、盗ろうとしやがったな! わざわざ、こんな夜中に――わざわざ、泊まりにきて!」
 彼の声は熱を持ち、たかぶって。
「堂々と、忍び足で、オレが寝てるのをいいことに! 彼女を、オレの彼女を、そのオタクくせえぶよぶよした汚え手で! 脂身だらけのソーセージみてえな汚え指で! 彼女を、この部屋から、このオレから、彼女を、ええ、オイ!」
 そして、乱れる。
 ごつん、と音を立ててぼくの後頭部が踏みつけられ、額と床がくっついた。折れた鼻が床に潰され、ぼくは蛙のように呻いた。
 何度も降り下ろされた足がぼくの頭を踏む。踏んで、踏みつけて、踏みにじる。体を丸めて耐えるうちに、喉に流れ込んだ血が食道を伝い降りて、痛みに萎縮した胃を嫌な感じにひくつかせ始める。
 背が波打った。やばい、と思った。さっきから視界が揺れている。しかもぼくは酔っている。血を大量に飲んでしまった。たぶん、吐く。
 ――不意に、静かになった。
 ぼくはむかつく胸を押さえ、痛む首を力づくで回して、誠を見上げた。這いつくばったぼくから見れば雲を突くほどに高い長身の上に乗っかった、嫌味のない浅黒い顔に、尋常でないほどの至福と安らぎを刻み込んで、誠はそこに立っている。
 その目は酔いしれていた。うっとりと、安らいでいた。怒りにひきつっていたくちもとは柔らかく緩み、歌でも歌い出しそうだった。
 気配に押され言葉を飲むぼくを、誠はゆっくりと見下ろす。
「ナカムラぁ……」
 まとわりつくような声で、誠はぼくの名を呼んだ。
「そんなに、オレの彼女が、気に入ったのか。マオトコ? みたいの、したく、なるくらいに」
 彼女。間男。痛みにぼやけ、混乱した頭を押さえて、ぼくは横目に浴槽を見る。浴槽から覗く頭はやはりきめ細かいうろこにびっしり覆われ、二つの巨大な眼球を半ばはみ出すように埋め込んでいる。
 彼女。恋人。これが、こいつの。
 そしてぼくが、間男?
 あまりにも突飛なキャストのように、ぼくには思えた。誤解だと言う気さえ、まず起きないくらいに。
 力の抜けるぼくの様子を、彼はどうやら都合のいいように取ってくれたようだった。
「ムリだな。彼女は、オレのなんだ。ウンメイだよ。盗らせねえし、盗れねえ――お前には、お前以外にも」
 芝居がかった口調で言って、誠は芝居がかった口調で手を広げる。
「彼女と逢ったのは、あの日だ。覚えてるだろ、あの日。お前とマックで鉢合わせたあの日、あの女との最後のデートのあの日、最後に雨が降ったあの日!」
 あの女。名前さえ、彼はもう口にしない。取りつかれたように熱弁し、晴れやかな笑みを振りまく友人を、ぼくは呆然と見上げる。
「ざんざん降りだ! 世界が濡れていた! 暗い、灰色の海岸に、彼女は横たわっていた、この!」
 浴槽に突っ込んだ腕が、無造作に『彼女』の右肩を掴んだ。引っ張られた腕、うろこのほとんどなくなったそこに紐が食い込み、むき出しの脆い肉を斜めに削ぐ。切れ込みから溢れ出た薄青い半透明の体液でパジャマの膝を汚しながら、誠は続ける。
「この、美しい手足を、花束のように投げ出して――波打ち際から三歩離れた湿った砂の上で、おとぎ話のように眠っていた!」
 食いしばられた細かい歯から漏れる軋みは、彼の耳には届かないようだった。
「オレはすぐ、あの女を駅に追い返した」
 激情を不意に沈め、彼は噛み締めるように言う。
「そしてすぐに戻って、車に彼女を引っ張り込んで、エンジンを掛けた。彼女は暴れたけど、おとなしくなって――歌を歌い始めた。オレたちの愛の歌を、ちょうど今のように、あざやかに、激しく、そして優しく」
 なんでそうなるんだ、と言ったら、ぼくは殺されるに違いない。
 何にせよ、さっきのぼくは勘違いしていたようだった。今も響く彼女の『歌』は、誠に届いているのだ。たぶん誰よりもあざやかに、激しく、そして優しく、少なくとも、誠にとっては。
「海岸沿いを、ずっと走った。あの雨はひどかったな。水の壁にはさまれてるみたいな、そんな雨の中の、まっすぐな道を、オレたちは走ったんだ」
 酔いしれるようにそこまで続けて、そして誠はにやりと笑う。
 なぜだかとんでもなく勝ち誇った、まさに勝者の微笑だった。
「そして、あいつが来たんだ、雨の向こうから」
「……あいつ?」
 ひどくかすれた声で、ぼくは尋ねた。
「あいつだ」
 熱のこもった声で、誠は答えた。
「――彼女の、夫だ」
 『彼女』が、ぼくを見た。
 感情のない目が、色のない瞳が、動きのない眼球が、ぼくを、ぼくたちのいる世界を、いかにも憎たらしげに、恐ろしげに、ぐしゃぐしゃに歪めて、映した。
「そう、夫さ」
 『彼女』の頭をそっとかき抱き、その鼻先を傷ついたうろこに押し当てて、誠はうっとりと言う。
「海岸から這い上がってきて、オレの車を追ったんだ。阿呆のように両腕を振りかざして、ケダモノみたいに吠えて、雨を弾いて、雲を揺らしながら、オレに女をとられるのが悔しくて、しつこく、しつこく」
「追った? 車を、走って……」
 ぼくはぞっとして、周囲を見回した。もちろん、ぼくと彼と『彼女』以外に、動く者はいない。
 誠は満足げに頷き、『彼女』のうろこにキスをした。
「走ってだよ。走って追ってきやがった。オレはこのままじゃいけないと思ってね。Uターンして、思いっきり向かってやったんだ――」
 空いた腕を、大げさに真横に振る。
「ばあーん!」
 びくりと、『彼女』が震えた。
「あいつはぽっきり折れて、防波堤の向こうに吹っ飛んだ! あれじゃ生きていない、生きてたとしても、ここ最近の陽気で、この距離だ! あいつは一生、ここにたどりつけない! 空さえ、天気さえ、世界さえ、オレに彼女を手に入れろと言ったんだ!」
 その目を燃え立たせるのは、おかしいくらいに健全で明るい快楽だ。
「オレは勝った! 完璧に、完全に! オレは、彼女を手に入れた!」
 誠の厚い唇が、今度は『彼女』の鼻先に触れる。数秒くっついていた唇を離して、誠はねばりつくような優しい目で動かない眼球を見つめる。
「もうダメだよ、こうなっちまうとな。彼女より美しいものも、静かなものも、優しいものも、この世界には存在しない」
 涙の流れない丸い目が、わずかに揺れた、気がした。
「オレは愛に生きる、彼女との愛にだ。だから、彼女はずっとここにいる」
 穏やかな声でそう宣言し、『彼女』の細く生臭く頼りない体を抱き寄せて、誠はぼくを、いやたぶんこの世界を、まっすぐにみつめる。
「彼女はオレのものなんだ。わかったら、妙な気を――」
 『彼女』が、ぐい、と、体を反らした。
「え」
 言葉を切り、誠は腕の中の『彼女』に視線を落とす。
 『彼女』は体を反らしていた。扁平な顔を天井と向かい合わせ、裂け目のような口をぱっくりと開いて、動かない眼球で見えない空を睨んでいた。
「ど、どうしたんだ?」
 さっきまでの調子をまったくかなぐりすてて、うろたえた様子で誠が『彼女』に尋ねる。彼の中のあふれるほどの愛は、『彼女』にはまったく届かない。あの異様な熱意さえ届かないのに、言葉が通じるはずもない。
 平たい口が、ますます大きく開いた。針のような歯をひっそりと光らせながら、天井に食らいつかんばかりに。
 そして、『彼女』は歌いはじめる。
 長い長い声が、生臭い風呂場にゆっくりとこだまする。
 その穏やかな声は、祈りのようでもあり、囁きのようでもあった。感情のない扁平な顔をまっすぐ空に向けて、針のような歯を輝かせて、『彼女』は歌う。
 ぽかんとしているぼくを、誠が興奮した顔で覗き込んだ。
「聞こえるか、おい! なんて、なんて美しい声なんだ」
「美しいかどうかは、よくわからないけ」
 続きは口にできなかった。折れた鼻を無造作に蹴られて、ぼくはうずくまった。突き抜けるような痛みに涙を浮かべて、漏れ出る鼻血に指を汚しながら、何事もなかったかのように『歌』に聞きほれる誠を見上げる。
 美しいかどうかは、よくわからないけど。 そもそもこれは、歌なのか?
 声に出さなかった問いに応えるかのように、窓から吹き込んだ一陣の風が風呂場をぐるりと巡った。
 妙に、心地好い風だった。たっぷりと湿気を含んではいるが、涼しく、静かだ。風呂場の生臭く生暖かい空気を追い払うかのように、風は窓から折り戸へ吹き抜ける。
 髪が揺れた、と思う間もなく、風はまた吹き込んだ。こんどはさっきより強く、長く、さらに冷たく。
 不審に思い、ぼくは誠を見上げた。誠はなおも歌い続ける『彼女』を後ろから両腕でかき抱きながら、紅潮し切った顔をだらしなく緩ませている。
「すごいぞ! オレの彼女は――こんなに、気持ちのいい風を、呼ぶ歌を歌える」
 びゅうッ、と、風が唸った。
 頬を軽く打たれたような衝撃。こめかみが冷たくなる。水滴が頬に伝う。ぼくははっとして、風呂場の窓を見上げた。
 分厚い曇りガラスに、水滴がびっしりとまとわりついている。
 強い風が吹いた。横殴りの水滴が、半開きの風呂場の窓をすり抜けて、すでに空気の入れ代わった狭い空間へ次々に叩きつけられる。 遠い空に、光が走った。車のヘッドライトなどとはまったく違う、明るく、激しく、鋭い光。一拍おいて、腹を突くような轟音が空気を叩く。
 激しい、耳鳴りのように激しい雨音が、アパートを包んでいる。
 雨音――雨だ。
 雨?
 ぼくは先刻の会話を思い出し、恐る恐る誠を見上げる。
 しつこく、しつこく。ここ最近の陽気で。空さえ、天気さえ、世界さえ。
「嘘だ」
 誠の声は、がらりと変わっていた。
 しわがれたような、ひびわれたような、醜い声で、誠は呻く。
「さっきまで、あんなに晴れて、月も星も。こんな、こんな雨、いきなり」
 鋭く白い光と共に、頭を割らんばかりの凄まじい音が響き渡った。皮膚が、髪がびりびりと震え、バスルームのいたるところに残響を残す。
 すぐ近くに落ちた雷を喜ぶかのように、雨音はますます激しい。高い位置の小さな窓から吹き込む雨粒で、ぼくの髪からはすでに雨だれが落ち始めている。
 人魚は動じない。かびだらけの天井を見上げ、吹き込む風に、流れ込む雨に、傷ついたうろこを、うろこの下の肉をさらし、歌い続けている。
 また、光る。目を焼くほどに激しく、稲妻はひらめく。
 がァん――
 唐突に響いた音が、ぼくの意識を強制的に数秒シャットダウンした。気がついたときにはぼくは雨粒で鼻血をきれいに洗い流した床に突っ伏していて、誠は『彼女』に緩く腕を掛けたまま浴槽に寄りかかっていた。
 電灯が消えていた。停電だ。
 ガラスが散らばっている。窓が割れたのだ。
 闇に沈んだバスルームに吹き込む雨は痛いほどに激しく、風は凍てつくほど冷えている。たまった雨水が、見る間に排水溝に大きな渦を作り始める。
 雨水にパジャマのすねをびっしょり濡らされ、誠が焦点の合ってない目をゆっくり開いた。
 開いた目にこの惨状が映り、さらに生まれた闇もゆっくりとなじんでいく。何より今自分を濡らしているシャワーのような何かが雨水だと気づいたのだろうその瞬間、誠は暗闇の向こうではっきりと絶望的な表情を見せた。
「雨、雨だ、嘘じゃあない、雨が、こんなに!」
 ぶつぶつと呻きながら、誠は何のためらいもなく右手を『彼女』の口に突っ込んだ。太い指先でその舌先を探りながら、苦しげに顔をしかめる。
「なんでこんなことをするんだ、オレと一緒にいなきゃならないのに、雨を降らせるだなんて、ほんとに――」
 指先に、力がこもる。
「ほんとに、困った子だ!」
 ぶづっ、と嫌な音を立てて、いやに脆く柔らかい『彼女』の舌が、もぎとられた。
 びいいいいい、と、その喉から吐かれた音が悲痛な叫びをこだまさせる。続けざまにひらめいた光が、轟いた音が、常識外れの頻度で目を焼き、足もとを揺らした。
 半透明の青い液体で濡れそぼった誠の指先は、数秒もしないうちにまた叩きつけられる雨で洗い流される。指からこぼれ落ちた青い舌が、ぼくの鼻先でびちびちと踊った。
 また雷。ずっと雨。そろそろ起き上がらないと、溺れるかもしれない。すでに風呂場の床は雨水であふれ、排水溝は渦をつくってさえいない。
 凄まじい雷の責めの中、一向に弱まらない雨の中、ぼくはのろのろと身を起こす。誠は少し上の方、割れた窓をあおいで、ぽかんと口を開け、座り込んでいる。
 ぼくもつられてそこを見る。風呂場の窓からこの階のすぐ下の非常階段の一角が見える位置に、誠の部屋はあり――
 その非常階段には、異形が立っていた。
 上の階段の床に頭をこするほど、大きい。3m近くはある、巨大な影。その影の形は言うまでもなく、『肩から上を平たい魚のようなものにすげかえた人間の男』のような、奇怪なラインをしている。
 『夫』だ。
 『夫』が、拳を振り上げる。掲げた拳が、非常扉に叩きつけられる。
 響く音は、こちらには届かない。二度、三度、四度をくり返す前に、非常扉は鉄クズになって転がった。巨体をぐらりと揺らし、『夫』は非常階段を抜ける。
 あそこを抜けてしまえば、あと数歩で、この部屋の扉に行き着く。
 ぼくは誠を振り向いた。誠は『彼女』に抱きつき、かすれた声で哀願した。
「静かに――静かにしてるんだ、静かに、ねえ、オレの運命の人」
 人魚は応えない。大きな口から半透明の体液を垂れ流し、うつろに天井を眺めているだけだ。なのに、なぜ。
「そう、そうだ、いい子だ、愛してるよ」
 なのに、なぜ、それを、肯定だと、承諾だと、愛だと、この男は思ってしまうのか。
 ぼくは暗澹たる気持ちで幸せそうな友人を眺めて、ただ座り込む。『夫』の足音が近づく。があん、があん、と、まるでコンクリートを削っているかのような、破壊そのもののような、破滅そのもののような、剣呑で不穏きわまる音が、ぼくたちに近づいてくる。
 耳をふさぐ。誠は『彼女』を抱きしめる。愚かしいくらいおびえて、羨ましいくらい幸せそうに、抱きしめる。
 止みも弱まりもしない雨の弾幕の中で、『彼女』のうろこはねずみ色に濡れ、奇妙な艶と生気をもっていた。
 足音が、部屋の前にさしかかる。
 雨に潤いを与えられた『彼女』の両眼がぎらりと照り、光り、輝く。
 大きな口をばくりと開いて、灰色の声帯をさらけ出して、彼女は、長く、遠く、高く、吠えるように、叫ぶように、雨に向かって、空に向かって、海に向かって――
 歌った。
 ぼうぼうぼうぼう、と、汽笛のような音が、雨音さえ圧倒して、力強く響いた。
 誠が叫ぶ。叫んで、『彼女』を抱え上げる。
 ほぼ同時に、響く轟音。雷のようなそれは、しかしあり得ないくらいに身近で奏でられた。があん、があん、と立て続けに響く破壊音が、丸めたティッシュのようにもみくちゃになったこの部屋の扉を想像させる。
 歌い続ける『彼女』に、誠は顔を近づける。人間の手のひらでさえとうてい塞げそうにないその幅広の口に唇を押しつけ、塞ごうとする。
それはただの接触だ。誠がいままで施してきた暴力的ななにかの一つにすぎない。すくなくとも、『彼女』にとっては。だから、歌は止まらない。巨大な口の端っこに人間の唇をひとつくっつけたまま、歌い続ける。
「愛……してる、よ」
 いやに満足げに、誠はそう呟いたのだ。誠の熱情が『彼女』に届かないように、『彼女』の拒絶も誠には届かないのだろう。
 ひときわ大きく響いた音は、ドアの残骸を蹴り飛ばした音なのだろうと、勝手に見当をつける。
 誠も同じ結論を出したようだった。穏やかにさえ思えるほど静かで優しい声で、呟く。
「一緒にいこう。一緒に逃げよう。オレたちが出会ったときのように」
 『彼女』は答えない。誠は走り出す。その向こうにあるのはベランダだ。非常階段もエレベーターも緊急はしごもない、ただの八階のベランダだ。
 ぼくは風呂場から首だけ突き出して、それを見守る。誠が空いた手でベランダの窓を開け放つ。吹き込む雨が座卓のパソコンを容赦なく水浸しにする。雨の幕をかきわけて、誠はためらわずその先に手を伸ばす。
 誠の指先がベランダのフェンスに触れた瞬間、あるいは触れる直前、また轟いた雷鳴が、閃光が、ぼくの思考を白く焼き、記憶を黒く塗りつぶした。
 ――ざあざあざあざ……
 ――ざあざあざあざ……
 ――ざあ……
 ぼくの全身をゆるやかに包む雨水の膜が断続的に叩かれて、ぼくはあわてて体を起こす。雨水で満たされた風呂場、開け放たれたベランダの窓、銀色に濡れ光るノートパソコン、何もかもが変わらない。まったく、変わらない。
 ぼくは風呂場を這い出す。折られた鼻の痛みをこらえながら立ち上がり、ベランダに身を乗り出す。風呂場のそれに数倍する雨粒を身に受けて、ぼくは身をすくませる。
 雨に満たされた闇の遙か下、透明な雨水の海の中に、彼と『彼女』は折り重なって、まざりあって、絡み合って、うち捨てられている。
 流れ出た赤黒い染みが蜘蛛の巣のように雨に流れ、広い水たまりと合流して薄まる。
 ぐしゃぐしゃに折れた誠。その下敷きになっているらしい、『彼女』。その姿は、この闇を隔てると、まるで一匹のおぞましい怪物のように見えた。
 ぼくは立つ。立ちつくす。ベランダのてすりの冷たい金属を握りしめて、雨に体温を奪われながら、立ちつくす。
 不意に、背後で何かが揺れた。
 ぼくは振り向きもせず、ただ冷たい、硬い、重い、腹の奥を凍りつかせるような絶望を覚えて、その場にぺたりと座り込んだ。
 ぼくの肩ごしに、腕が伸びる。ねずみ色のつややかなうろこに覆われた、太くたくましい腕が、僕の頬をすり抜けて伸び、てすりをつかむ。
 ぼくの頭の上に、頭が突き出される。その平たい、不格好な顔が突き出した二つの眼球が、ぼくの視界の上端ぎりぎりでぎょろりとめぐらされる。
 ぼくの背中に、冷たい腹がぺたりとくっつく。重く低い鼓動を奥に隠した無機質な腹が、ぼくのかっと熱い背中に貼りつく。
 『夫』。
 今、たぶん、下を見ている。何も通じないまま、何も感じないまま、身動き一つとれない化け物になりはてた妻を、見下ろしている。
 怪獣映画じみた現実感のない雄叫びが、豪雨の中に響き渡る。
 その声が、ぼくには通じた。初めて、通じた。
 それは悲しみだった。怒りだった。無念だった。
 そして、忠義だった。
 ぼくは振り向いた。そこに立っている『夫』を、ぼくはまっすぐに見上げた。
 なんとなく、わかってしまった。はっきりと、わかってしまった。今降っているこれは雨じゃない、少なくともただの雨じゃない。
「なみだ、だ」
 丸い目がぎょろりとうごめき、その平たい口がもの言いたげにうごめいた。通じた。通じている、ぼくの言葉が、少しであっても。
 どうしようもない安堵に涙をにじませながら、噛みしめるように呟く。
「泣いている、空が――いや、雨が、泣いてる」
 目の前のこれは、『夫』は、たぶん『彼女』の夫ではない。
 『彼女』の、誠の身勝手な横恋慕と不理解のはてに挽肉のように潰れてしまった『彼女』の夫は、そう。
「雨だ」
 雨足は弱まり、雷鳴は嘆くように遠く、低く、うつろに轟く。降り注ぐ雨が『彼女』を優しく、悲しげに、幾度も撫でているように、ぼくには見えた。
「彼女は、雨の妻。あなたは、雨の使い」
 もう、ぼくの身勝手な言葉は通じない。雨の使いの腕が銀色のフェンスを破り、引っこ抜くのを、ぼやけかけた意識の中で眺める。そのねずみ色の巨体がふらりと翻り、雨に埋め尽くされた高い高い闇の中を落ちていくのを、忠実な召使いが雨の妻の、雨の妻の間男のあとを追うのを、ぼくは見送っていない。



 最後の台風が、九州を抜けた。
 ぼくは久々に、車を出すことにした。油照りに晴れた誠の葬式以来、一ヶ月ほど、出番のなかった紺色の軽。火山灰で白く薄汚れたそれを、国道沿いの海岸目がけて駆る。
 助手席でなにやらさっきから無意味にはしゃいでいた愛理が、ふと口を閉ざして窓に顔を近づけた。
「うっわ見てナカムラくん、すっごい!」
 ぼくのような若葉マークに向かって、ずいぶんな注文をつけてくれるものだ。ぼくは慎重に慎重に、横目にサイドウィンドウごしの景色を眺める。
 濁り気味の藍色の空を、海に沈む夕日が焼いている。湿った雲にいびつに染みる赤黒い陽光は、水浸しのアスファルトに蜘蛛の巣のように広がったいつかの赤いものに、よく似ていた。
「すごーい、怖い、キレー。でもさでもさ、雨の海も怖いよ、あんまキレーじゃないけどお」
 能転気に口にされる言葉は、たぶんいつかの、もう戻ってこない思い出から学んだものだろうに。まったく屈託のない笑顔を浮かべられる愛理が、なんとなく羨ましい。
 ぼくは車を止めた。降りるやいなや軽いドアを叩きつけるように閉めて、ささやかな岸壁に、立つ。
 愛理があとに続いた。夕日の海をわたる風にふわふわした髪を押さえながら、はしゃいだ声を上げて、ぼくの隣に並ぶ。
 ぼくは片手を掲げた。けっこう値の張った花束が、がさりと鳴って斜陽を透かす。
 思い切り勢いをつけ、ぼくは花束を放る。和紙とセロファンでシックに包装された花束は、巨大な夕日に飲み込まれそうなほど小さな色彩をくるくると回しながら、暗い海の中に落ちていく。
 えーっ、と、愛理が叫んだ。
「イミわかんなーい。あたしにくれると思ってた、それ!」
 菊の花束もらって嬉しいのか、この女は?
 笑って適当にいなして、ごまかして、ぼくは軽く合掌する。
「えーナニ、ナカムラくんの知ってるひと、誰か海で死んだのお? このへんで?」
「このへんじゃ、ないんだけどね」
 海で死んだんじゃない、とか、本当は空に届けたいんだけど、とか、たぶん絶対に通じそうにない言葉が、ぼくの中をぐるぐるとかけめぐる。
 なんとか適当に折り合いをつけた言葉を探して、ぼくは言った。
「いつか、届くでしょ、海に投げたら」
「んー」
 これでもたぶん、愛理には通じないだろうと思ったのだが。
 ぼくの予想に反して、愛理はリスじみた顔を愛くるしい笑みで緩ませる。
「そーだね、つながってるもんね、海って――海にも、川にも、空にも!」
 思わず言葉に詰まるぼくに、愛理はしたり顔で続ける。
「だって、海の水って、雨になるんでしょ?」
 通じる。通じている。
 うなずいて、ぼくは笑った。なんだかとんでもなく嬉しくて、安心して、笑ってしまった。
 海と空を滲むような陽光でつなぎながら、結びながら、通じ合わせながら、夕日は沈む。のろのろと、沈んでいく。




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