――この村にはね、神様がいるのよ。
不意に脳裏によぎった母の言葉を、少女は頭を振って打ち消した。何も考えず、ひたすら走る。少女の家はもう見えず、青空に堂々と浮かぶ太陽から降り注ぐ日差しは暑い。
少女の体力は急速に奪われていた。足がもつれ何度か転ぶこともあったが、しかし走ることだけはやめない。折れてしまいそうな腕を振りながら、幼い顔に玉のような汗と涙を浮かべながら、前へ前へと進んでいく。
――本当に辛くなった時はね、神様がやってきて励ましてくれるから。優しく、あなたを包んでくれるのよ。
再び浮かんだ母の言葉に、嘘だ、と少女は心の中で叫んだ。神様なんかいない。
神様は少女が母親を亡くした時に優しく包んでなどくれなかったし、怠け者の父を改心させてもくれなかった。その後の苦難の日々に対しても、何も施してはくれなかった。
神様なんていないのだ。だから、私を救ってる人などいない。そんな思いにとらわれる。
少女は疲れていた。
きっかけはなんであったか、少女はよく覚えてはいない。気付けば少女は泣きながら、村から逃げるように駆け出していた。滅茶苦茶に道を、野原を駆け抜ける。その先には、村を取り囲むように広がる森があった。少女は逃げるように、深い森へと入り込んでいった。木々の合間をすり抜けて、奥へと進む。
しかし、次第にその速度は落ち、体は重くなっていった。先程までの平坦な道とは違い、木々の密集した森は複雑に入り組み、歩くことも容易ではない。前へ前へと動かしていた足も、もはや木の根を飛び越えることにすら四苦八苦してしまう。ぼろぼろの少女は、倒れこみたくなる衝動をこらえながら、のろのろと森を進んでいった。
しかしついに、少女は一本の大木に倒れるようにして寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。
頭を木にもたれさせ、荒い息を吐く。ぽっかりとあいた枝葉の隙間から見える空はつい先程までの青さを失い、まるで少女の心を写すかのように曇っていた。
ざわめく木々の中、いまだ落ち着かない少女の頭の中でぐるぐると記憶が駆け巡る。母の葬式で、手を合わせる村の人たち。片親という理不尽な理由で苛める同級生。家にばかりいて、仕事を嫌がる父親。優しかった母の姿。
少女の目に、再び涙が浮かぶ。寂しくて、悲しくて、少女は泣いた。
もうどうなっても構わない。
少女はそのまま、顔を伏せた。
しばらくしてふと、少女が顔を上げた。誰かに首筋を撫でられたような気がしたのだ。慌てて首筋を触ると、生温い、湿った感触があった。
雨だ。
少女が顔を上げる。空の色は暗く、生温い雨がぽつり、ぽつりと降り始めていた。何滴かの雨粒が、少女の顔にも降り注ぐ。次第にその雨は強くなっていった。
轟く雷鳴、突風と共に突き刺さるように降る豪雨。目を開けていられず、少女は強く目を瞑った。殴られるような衝撃を身体に受けながら少女は、この雨が村に言い伝えられていたものだという事を思い出していた。
ほんの僅かな間だけ猛烈な勢いで降り注いで、瞬く間に止む。空の神様が天の道を駆ける時、その雨が降る――。
はっとして少女が目を開けると、もう雲は通り過ぎ、青い空が見え始めていた。雨が降っていたことが嘘に思えるほどの綺麗な青空だった。そして、雲に隠れていた太陽がゆっくりと顔を出す。
その瞬間、少女は息を呑んだ。
葉に、枝に、草に。その場にある物全てについた水滴が、陽の光を浴びて一斉に輝いていた。風になびいた枝葉に合わせて、ぽつぽつと落ちる水滴もまた、きらりと光っている。全てを埋め尽くす光の粒に、少女は圧倒されていた。眩く光るその景色は、不思議と心地良く感じられた。
湿り気を帯びた風が少女の体を撫でるように吹き抜けていく。まるで、世界が少女をなぐさめているかのように。
少女は風に当たりながら、自分の心の暗い思いが少しずつ溶けていくのを感じた。
――この村にはね、神様がいるのよ。
――本当に辛くなった時はね、神様がやってきて励ましてくれるから。優しく、あなたを包んでくれるのよ。
再び、母の言葉が蘇る。今は、その言葉がなんとなく分かる気がした。彼女を包んだ雨は確かに、優しかった。先程の雨を思い出して、少女は穏やかに微笑んだ。辛い日々を送っていた少女が、久しぶりに見せた笑顔だった。
そのまま、自然に身を任せる。村では決して得られなかった、満ち足りた気持ち。そんな気持ちを抱いたまま、いつしか少女は眠りについていた。
遠くに人の声を聞いた気がして、少女は目を覚ました。日は沈み、夜が来て、太陽のあった場所には満月が煌々と光っていた。先ほどまでの静かで優しかった森の空気が、夜の冷たさと鋭さを持って少女に迫ってくる。ここはお前の住む場所ではない、そう告げるかのように。
少女は立ち上がり、耳を澄ましてみた。確かに声が聞こえる。村人の声だ。いなくなった少女を心配して、探しに来てくれたのだろうか。その中で、一際大きく必死に少女の名を叫ぶ声があった。それは間違えようもない。少女の父親の声だった。
声のするほうへ走る。近づくにつれて、父の声は益々大きく、近くなっていく。少女が視界に父を捕らえた時、父も同様に少女を見つけたようだった。父は涙を流しながら少女の元へ走ると、強く少女を抱きしめた。父は泣きながら、後悔、謝罪の言葉を繰り返し、少女に、もう辛い思いはさせない、と言った。少女もまた、父の体を強く抱きながら、家を飛び出してごめんなさい、と謝った。
村人も口々に慰めと気遣いの言葉をかけ、少女はそれにお礼を言った。大人に連れられて村に帰ると、少女を苛めていた同級生たちとその親が、涙を浮かべながら森の外で待っていた。皆が頭を下げ、改めて仲良くしようと言ってくれた。少女はそれに、笑顔で答えることができた。
村人にお礼を言ってからは皆が自然に解散していき、少女は父と二人で家への道を、手を繋いで歩いた。少女は森であった出来事を話し、父は母の思い出話を語った。今までにない、満たされた時間。二人は明日への活力が沸いてくるのを感じていた。
その帰り道の会話の中で、少女は突然立ち止まった。あのにわか雨には名前がついていた事を思い出したのだ。それは、母の言葉を思い起こさせる名前だった。少女は慌てて父にそのことを告げると、父は驚きながらも、お母さんの言うとおりだったね、と言って少女に笑いかけたのだった。
――突然猛烈な風とともに降り注ぎ、一瞬で去っていく豪雨。この地方ではそれを、殴雨……なぐさめと呼んでいる。
了