豪雨

1 四年前 山の中の国道
あの日、キャンプからの帰り道、僕は父さんの運転するランドクルーザーの助手席で雷がひっきりなしに光り続ける光景を眺めていた。晴れていたら右側には壮大なパノラマが眺められるが今は生憎、霧のせいで何も見えない。更に山の国道には僕たち以外誰も居ない。それなのに父さんは制限速度ギリギリの速さで車を動かしていた。
「父さん。もっとスピードあげてよ」
 その時の僕はキャンプの最終日が予報外れの大雨の所為で丸潰れになって、少々苛立っていた。父さんはそんな僕の言葉に笑いながら返してきた。
「ははは。律君はせっかくのキャンプに水を差されて、随分おかんむりになっているみたいだね」
「別に、そんなんじゃないよ!」
「そんなにふて腐れなくても、また来年の春に来ればいいじゃないか。それに速度を上げ過ぎて、事故を起こしたんじゃ元も子もないだろう?」
「……」
 僕は良いように言いくるめられた感じを受け一層、不機嫌になり目を瞑った。やがて意識がまどろみ始めた時に、父さんが急ブレーキを踏んだ。シートベルトをしていたものの僕は急速な衝撃で頭を振り回された。
「うわっ!? な、なにするんだ! とう……さん?」
 乱暴な運転に抗議しようと睨み付けた僕が見たのは、どんな非常事態でも大抵なら笑って受け止める父さんが初めて見せた驚愕の顔であった。
「……」
僕は黙って父さんの視線の先を辿った。
「……嘘だろ」
その先には対向車線をはみ出して左側の崖に激突して前部が大きくひしゃげた白い大型乗用車があった。僕たち二人はその光景をしばらく呆然と見ていた。しかし、先に父さんが我に返り、携帯で連絡し始めた。僕も車を出ると事故車に駆け寄り、粉々に砕け散った助手席の窓の中を覗き込んだ。そこには頭から大量の血を流している女の人がいた。その人は目を閉じ、ぐったりしていたが僕の呼びかけに応えうっすらと目を開けて後部座席の方を指さした。
「……娘を……お願い」
見ると後部座席には僕と同い歳ぐらいの女の子が気を失っていた。シートベルトをしていなかったからなのか、重症のようだった。僕はフレームが歪んだ後部のドアを何とかこじ開けた。
「その子を……早く病院に……私と夫の事は構いません。唯、娘が生きてさえすれば……」
「とにかく、今、父が連絡を取っていますから、待っていてください」
 今、話している母親も運転席で気を失っている父親とおぼしき男性もひしゃげた車の残骸とシートに挟まっている状態で身動きが取れそうにない。僕は女の子を抱えると急いで父の車のドアを開けた。
「父さん。救急車はどのくらいで来るって?」
「大変だ。律君! 今さっきこの道は……!」
 父が驚愕で顔を引きつらせながら何か言おうとするのを轟音が遮った。雷とは比べものにならないソレは地をも震わせた。そして、再び僕が前方を見た時……
「っ! なっ……!」
 前方の道路が無くなっていた。斜面の一部が崖崩れを起こし道路を根こそぎ持って行ったのである。
「あ……」
 僕は今、目に映っている光景が信じられなかった。ついさっきまであそこには道路があって車があったのだ。その車には人が乗っていた。この娘の両親が。それが全部、あっという間に無くなってしまった。
「……嘘だ……」
 だって僕はほんの十数秒前まであそこにいたのだ。自分も怪我してるのに娘のことばかりを気に懸けていた女の人がいて、僕はその人とちゃんと話したんだ。
(私と夫の事は構いません。唯、娘が生きてさえすれば……)
さっきの言葉が僕の頭の中で何度も何度も再生された。
「嘘だ……」
何が構わないものか。何が娘が生きてさえいれば良いものか。あんた、こんな事になるとは思わなかったんだろ? ただ少し弱気になってそんなこと嘯いただけなんだろ? 本当はもっと生きたかったんだろ?
「嘘だ」
 なのに何で本当に死んだんだよ。あんた、無責任すぎるだろ。この娘、一人だけ残してどうしろというんだよ。なぁ、おばさん聞いてるの? 僕にどうして欲しいの?
「嘘だこんな事!」
 僕の心のそこからの絶叫は雷鳴によって、容易に掻き消された。


2 現在 ある日の朝
朝七時、それが僕の一日の始まりだ。中学三年の一年間、受験生という身分上、免除されていた朝食作りの仕事を第一志望の高校に無事合格してからまた再開することになったためだ。僕は着替えを済ませ一階に降り、台所で朝食を作り始めた。そして、全て作り終えて食卓に並べる頃にはいつも父が自分の席で待っている。
「ほぉ、今日はご飯とみそ汁、それに焼き魚。清々しいくらい典型的な日本の朝の食卓だ
ね」
「冷蔵庫の中のもので出来るのはこれぐらいだったからね」
 そう言うと僕は自分の席についてさっさと食べ始めた。母が父と僕を捨てて、父の仕事の担当者と駆け落ちして十年。これが僕の変わらない毎朝の風景だ。
「ああ、ところで……」
 父が徐に口を開いた。
「来週から一週間。取材旅行で長野県に行ってくるよ」
 父の職業は作家である。よく取材という名目で国内海外問わず旅行に行く。まぁ、そのお蔭で僕は一般家庭よりも裕福な生活が送れるわけなのだが、仕事に夢中で家の事を全て息子に任せっきりにするのはいかがなものかと。その所為で母さん逃げたんでしょうが。
「はいはい。わかりました。家のことは僕に任せて、仕事頑張ってください」
「ああ、そうするよ。ところでお土産は虫の佃煮でいいかい?」
「良いけど、まず自分で味見してね、父さん」
 父のマイペースな言動に振り回されつつ、僕はいつもの朝を過ごしていた。


3 同 始業前
「……でさ、これが俺の予想何だけど」
「いや、それは絶対無いって」
「確かに。剣崎、それでは今まで築き上げた設定に矛盾してるよ」
「……そうだけれどもだな……」
 八時二十五分、朝のホームルームが始まるまでの僅かな時間に教室中で生徒達があちらこちらでいくつかの集団を形成して雑談していた。僕はそんな中で三人しかいないグループの中にいる。今、友人の一人である日高が僕たちの間で流行っているライトノベルについて話していた。主人公の少年がラスボスだったというところまでで止まっているストーリーの続きについて彼が予想を立てたのだ。僕ともう一人の友人である伊能はその余りの荒唐無稽さに真っ向から否定し、日高はムキになり自分の意見を押し通そうとする。そんな中、教室の扉が開き、担任が入ってきた。僕たちはラノベ談義を中断して各々の席に着いた。全員が席に着き、点呼が終わった後、担任は徐に出席簿を教卓の上に置き、顔を上げた。
「ええ、皆さんもこの高校に入ってきて二ヶ月が立ち、高校生活にも慣れてきたと思います。ところで今日は転校生が来ました。この時期に転校してくるのは珍しい事ではありますが、他者を受け入れることは新しい自分を見つけ出す良い機会です。暖かく迎え入れましょう」
 担任のわかりにくい説明に生徒の大部分は苦笑していた。僕はと言うとそんなことには特には興味が無いので適当に聞き流して窓の外をボンヤリと見ていた。まぁ、どんな人が来ても僕には何の変わりもないし。あ、今日は雲一つ無い日本晴れだ。
「では、入ってきてください」
 その合図と同時に教室の扉が開いた。途端にクラスの男子の大半が歓声をあげた。どうやらその転校生は女の子だったらしい。クラスが一気に男子達の声で騒がしくなった。その声から察するになかなかの上玉なのだろう。僕も興味が湧いたので、前方に顔を向けた。

……えっ?

「初めまして、坂川優美です。中途半端な時期に編入してきたので、少し戸惑っているのですが、どうかよろしくお願いします」

……顔を見て、嫌な予感がした。名前を聞いて、その予感が正しいことが証明された。なんでこんな事になったんだ? 誰かの陰謀なのか? なぁ? 僕の中の葛藤など露も知らずに彼女はあの時からは想像できない明るく微笑んでいた。


昼休み、彼女の座席の周りには人だかりが出来ていた。ほとんどが男子だが女子も幾人か混ざっていた。僕はそんな人だかりを避けるように教室の隅で昨日買った小説を読んでいた。
「おや? 細川君、今日はお一人ですか?」
 頭上から降ってくる声に僕は仕方なく顔を上げた。案の定、そこには笹岡章子がいた。日に焼けた肌と短めな髪でどこか美少年然としたその顔に目一杯何か企んでるのが見え見えの笑顔を浮かべていた。
「日高も伊能も向こう行った」
 僕は黒山の人だかりを指さした。
「あー、わかるな。二人の気持ち。あんな可憐な美少女ならどんな男でも一度は声掛けたくなちゃうよねぇ」
 確かに、今日という僅かな間で彼女は皆を完璧に魅了していた。
腰まで伸びた艶のある綺麗な髪、黒子もシミも無い真っ白な肌、どこか優雅な立ち居振る舞い、道ばたで会ったら老若男女問わず立ち止まって振り返る程の美しさ、どんな相手にも分け隔て無く話す態度、それらが傍目から視てもうかがい知る事が出来る。その様は漫画や小説などで描かれる美少女がそのまま現実に現れたと言っても過言ではなかった。
「……のはずなのに、どうして君はそこにいるのかなぁ?」
 笹岡は呆れと好奇を混ぜた顔で僕に問いつめた。
「似合わないでしょ、普通に。僕なんかじゃ」
「ええ〜、そんなこと無いよ。だって細川君、顔と成績だけは校内一位なんだよ」
「……顔と成績以外の僕はどうだと言いたいの? 君は」
 僕の尤もな質問に笹岡は笑うだけで答えようとはしなかった。
「よ〜し、ならこの私が……」
「止めてくれない」
「えっ……、っ!?」
  笹岡は僕の低く抑えられた声に驚いて僕を見て、睨み付ける憤怒の瞳にひるんだ。僕はそんな笹岡を更に睨み付けた。
「君は面白半分でやっているんだろうけど、僕は本当に係わりたくないんだ。これ以上、君がこのことで僕にちょっかい出してきたら、僕は君を許さないよ」
「……うん」
 笹岡は普段は決して見せない僕の怒りにすっかり大人しくなり、その場を離れていった。僕はまだ怒りが収まらなかった。
「何も知らないくせに……」
 何故、避けていると思う? 何故、会わないようにしていると思う? 何故、恐れていると思う? 
 怖いんだよ。恐ろしいんだよ。僕がいると知った時の彼女の顔を想像するのが。僕と会った時の彼女の顔を見るのが。その時に彼女から放たれるであろう言葉が僕の心を突き刺すのが。あの時の様に……。


4 四年前 病室
「どうして……」
 病院の寝間着を着たその少女は誰から見ても異常だった。髪は乱れ、乾ききった唇には無数の瘡蓋が出来ており、頬は痩せこけて衰弱し、悲愴と憎悪で見開かれた目からは涙が止めどなく溢れてさえいた。そんな彼女の瞳には一人の少年だけが映っていた。少年は少女の容貌と雰囲気に圧倒され、唯立っているのが精一杯だった。
「どうして、死なせてくれなかったのよ!」
 少女の放った呪詛の言葉が少年に刃物のように突き刺さった。しかし、少年は意を決っして顔を上げると少女の顔を見た。少女の発する異様なオーラに耐えながら、思うように開かない口を必死に動かした。
「……たから……」
「……?」
少年は何かを喋った。しかしその声があまりに小さかったため、上手く周囲に聞こえなかった。
「君のお母さんが自分達はどうなっても良いから……」
「!」
 少年は静かに、しかし今度はしっかりと少女を見据え声を出した。
「……君だけに生きていて欲しいんだって、言っ……っ!」
 最後の言葉を言う前に少女は窓辺に置かれた花瓶を少年に投げ付けた。少年はそれが自分の額に当たり、床に落ち粉々に砕け散ってもじっと動かなかった。彼は自分の血で赤くなって行く視界の先で、看護士に押さえつけられながらもこちらを夜叉の形相で睨み付け罵倒の言葉を投げ付けてくる少女から目を離すことは出来なかった。


「……父さん」
「……なんだい? 律君」
 帰り道、サイドミラーに映る頭を包帯に巻かれた自分の情けない姿を見ながら、少年は父に尋ねた。
「あの娘、助からなかった方が良かったのかな?」
「……難しい質問だね」
 きっかけは昨日の夜七時頃、病院から電話がかかってきたのが発端だった。あの事故から二週間が過ぎ、少女の容態は安定していた。そんな彼女が自分を助けた少年にどうしても会いたいと何度も懇願しているとのことだった。会ってどうするかまでは教えてくれなかったが病院関係者はお礼がしたいのだろうと思い、その旨を伝えたのだ。しかし、彼女が言ったのは感謝ではなく憎悪の言葉であった。あの後、少年はその場を離れ、花瓶をぶつけられた傷の治療を受けた。その後、少年は少女が尚も暴れたため薬で眠らされたと伝えられた。見せられたその姿は先程の有様が嘘のように穏やかに目を閉じ、眠りについていた。
「あの娘はご両親のことがとても好きだったんだって。でも自分一人だけ残されてしまったから凄く寂しいんだろうね。父さんは以前言ったよね。人は孤独に苛まれると生きていけないって。だから、人は人でも物でも金でも何でも良いから、あるものを精神の拠り所にしているんだって。今のあの娘にはそれが無くなったんだよね。じゃあ、彼女はもうどちらにしても生きてはいけなかったんじゃないのかな?」
「本当に難しい質問だよ。律君」
 父は苦笑を浮かべながら、また同じ言葉を繰り返した。
「確かに、人は精神の拠り所がないと生きてはいけない。けど例えそれを失ってもまた作り出す力を人は持っているものなのだよ」
「じゃあ、あの娘にもそれが出来るの?」
「それはわからない。でも、生きている限り、その可能性はゼロパーセントではないのだよ」
 父は自分を気遣ってこんな事を言っているのだと認識した少年は黙って、遠くの山に沈み行く太陽を眺めていた。その色は彼の今の心とは嫌みなくらい真逆な美しい茜色をしていた。

 それから彼女とは二度と会うことが無かった。このまま一生会うことがないと思うようになった時に再会するとはまったく……。まあ、今の状態を察するに彼女は本当に新しい精神の拠り所を見つけたらしい。なら、それは喜んであげよう。そして、彼女には関わらないでいてあげよう。彼女にとって、僕は今でもあの悲劇の象徴のはずだから。


5 現在 思考中
 彼女が転校してきて、一週間が過ぎた。彼女の噂は全校に広まり、僕のクラスには見慣れない男子生徒が押しかけてくるようになった。いつもの話し相手達が向こうに行って、お節介な女子生徒もあの一件以来、この話題を振ってこないので僕はいつも教室の隅の自分の席で本を読んでいる。その為かどうか判らないが彼女は僕に気付いてはいないようだった。そう言うわけで僕は読み古した文庫本を読みながら一週間ぶりに帰ってくる父に食べさせる料理をゆっくり考えていた。まぁ、どうせ向こうで連日おもてなしをされていたはずだから、大した物でなくてもいいんだけどね。

 夕方、僕は日直の仕事を終えて家に帰り着くと鍵が開いていることに気が付いた。父さんが既に帰ってきているのだろう。扉を開けると案の定、父さんが玄関に立って僕を待っていた。
「ああ、父さんおかえり……って、どうしたの?」
 しかし、僕はあることに気が付いた。何で、父さんは僕を玄関で待っているんだ? いつもなら、居間なり、自分の書斎なりでさっさとくつろいでいるはずである。それをわざわざ玄関で待ちかまえているとは……。
「律君」
 父さんは僕の疑問など構わずに話しかけてきた。その顔はいつもと違い真剣そのものだった。
「私が帰ってきた時に玄関前で君のお客さんが待っていた。今は上がって貰っているから急いで客間に行きなさい。あ、その前に手洗いうがいはしっかりしないと駄目だよ」
 その声には有無を言わせない響きが混じっていた。僕は頭の中に疑問符を無数に浮かべながら言われた通りに客間の扉を開けた。
「あ……」
「っ! ど、どうもすみません。突然、押しかけたりなんかしてしまって……」
 僕が入って来るなり、彼女はそんなことを言って来た。でも、僕の耳にはそんな言葉など入ってこなかった。唯、目の前にいる少女の存在があまりに思いがけなかったため動揺することしかできなかった。
「貴方は……」
 何故、彼女がわざわざ僕に会いに来たのか判らなかった。……何故、彼女がわざわざあの悲劇を思い出させる存在の元に会いに来たのか、まったく……何にも。
「優美……さん」
 

6 同 客間
「……」
「……」
 あれから二十分、僕たちはお互いに黙り込んだまま俯いている。
「あの……」
 その沈黙を彼女の遠慮がちな声が打ち砕いた。
「あの学校にいらしたのですね」
「……ええ、まぁ……。いつ頃、気付きました?」
「一日目に職員室で出席簿を眺めていたら、あなたの名前があったのでもしやと思い、実際にあなたを見て確信しました」
 ああ、そうか。最初から僕がいるのに気が付いていたのか。まぁ、『ほそかわ』は兎も角『りつ』なんて名前はそうざらにいるものではないからな。
「っで、僕なんかに一体何の用が?」
 自分でも思うのだが今の言い方はどこか突き放した感がある。でもしようがない。僕の頭の中で病室の彼女の顔がどうしても思い出されるのだ。どうやら、彼女の方も判っているのかそれで気分を害した様子ではなかった。唯、僕の問いに答えるのに少し躊躇しているようではあった。
「……私、絵を描いているんです」
「……?」
「中学から始めたのですけれど、先生から筋が良いと誉められましたし、全国的な絵画コンクールで何度かグランプリも取りました」
「……はぁ……凄いですね……」
「始めは何ともなかったんですけど、やっているうちに凄く楽しくなってきて、絵を通じて色々な人たちと交流を深めるようになっていきました。もし、今生きていることは楽しいかと聞かれたら、自信を持って楽しいと言えます」
 そう言う彼女の顔は気恥ずかしそうではあったがどこか輝いている。どうやら、彼女は絵という新しい生き甲斐を見つけることが出来たようだ。
「あの……それで……あ、ありがとうございました」
「? 何がですか?」
 唐突に彼女が言ったお礼の言葉に僕は訝しんだ。
「もし、あの時……律さんが助けてくれなかったら……母の最後の言葉を聞かせてくれなかったら、私は何よりも大切だった母を悲しませていたと思います」
 先程まで明るかった彼女の顔に悲愴の念が混じりその顔を少し曇らせた。
「……今だから話せますが私は自分だけが助かったと知った時、自殺しようと思っていたんです」
「……」
「だから、あの時は死ぬ前に貴方に鬱憤を晴らしてやりたいと思い呼んで貰ったんです。」
 彼女の独白に驚くことなく僕は黙って耳を傾けることが出来た。この事はなんとなく予想できていた。あの時の彼女はどう見ても生を望むような感じではなかったから
「……でも、そしたら貴方は私に母の最後の言葉を伝えてくださいましたね。『この子にだけは生きていてほしい』と」
「……」
「あの時、私はその言葉に驚いて、もうどうして良いか判らなくなって、貴方に非道いことをしてしまいました」
 そこまで言うと彼女は悲しそうな目で僕を見た。確実に彼女は僕に花瓶を投げ付けたことを後悔している。
「……別に良いですよ。あの傷もそんなにたいしたこと無かったんです」
 実際もう額には傷跡など残っていない。それを聞いて彼女の顔に少し安堵が戻った。
「……私はしばらくの間、その言葉の意味を考えてみました。それで、判ったんです。母は私に死んで欲しくなかった。後を追っての自殺なんか望んではいないはずだと。だから、私は決めたんです。死んで……しまった両親の為にも私は死ぬわけにはいかない。……しっかり……生きて行かなければならないのだ……と。その事を考えてずっと……ずっと生きてきました」
 次第に彼女の声が震え出した。
「でも、まだ公開しているんです……」
 彼女の頬を涙が一筋、流れ落ちた。
「……母の最後の言葉を知ることが出来たのも、……今の私があるのも……みんな、貴方のおかげなんです。なのに……なのに、わたし……」
「っ! ちょっと待って!」
 彼女の態度が次第におかしくなり始めてきた。どうも彼女は四年前の僕に対する仕打ちに後悔してずっと胸の中に溜め込んできたのだろう。
「君がそこまで気に病む必要なんかないよ。僕はこの一週間、君に会わなかったのも、君にまた何か言われるのが怖かったからなんだ。そんな情けない奴なんだよ……僕は」
「……いいえ。怖かったのは私も同じです。私はずっとあなたに会いたかった。会うことを待ち焦がれていた。……でもいざ会ってみると、私のことを許してくれなかったらどうしようと考えてしまい、どうしても貴方に会いに行けなかった……。……律さん、これを見てください」
 そう言うと彼女は涙を拭い、鞄からスケッチブックを取り出した。そして、開いたページには僕が教室で本を読んでいる絵が綺麗に描かれていた。
「これは……?」
「私、ずっと教室であなたをこっそり見ていました。そして、気付いたんです。怖がって見ているだけでは駄目だと。だから決めたんです。この絵を完成させてから、自分の秘めた想いをあなたに伝えようと。そのためにここへ来たんです」
「君の……秘めた想い?」
「律さん……」
 怪訝そうな顔を浮かべているであろう僕に構わず彼女は言葉を紡いだ。
「私……貴方のことが……好き……です……」
 紡がれた彼女の言葉に僕は『好き』と言う単語の意味を一瞬理解できなかった。やがて、その意味を思い出そうとするうちに自分でもわかるくらい動揺し始めた。
「……………………はい?」
 告白……何だよね、これって……? まさかこのためにわざわざ家に来たってこと? ちょっと待って。告白? この僕に?
「これが……これだけが、貴方に伝えたいことの全てです。この想いを伝えたいが為に今日、この日まで生きてきたんです」
「……ごめん。本気で考え直したほうが良い」
 でも僕はすぐにわかった。彼女は自分の中でイメージした僕に対して好意を抱いているのだ。もし今、これ幸いと彼女の告白を受け入れても、彼女をまた傷つけるだけなのは目に見えている。だから、まだ彼女の失望が軽い内に自分の正体を明かして方が良い。
「僕は君が思っているような崇高な奴じゃないよ。学校では真面目で大人しい読書好きで通っているけど、部屋の中は年を誤魔化して買ったPCゲームが山と積まれているし、棚には特撮ヒーローとロボットアニメのフィギュアが群をなしているんだ。おまけに最近は毎晩、動画投稿サイトで今やっているアニメを見ては保存して、日曜の朝は特撮ヒーローものを見る為に七時二十分に必ず起きる日々を過ごしているんだよ」
 我ながら、よく自分をここまで卑下出来るな。しかも、自分を好きだと言ってくれた女の子の前で。でもこの方が彼女にとって良いんだよね。
「律さんはそんなものに興味がおありなのですか」
 うっ! そんなもの呼ばわり? でも普通はやっぱりこんな反応なんだろうね。
「……わかりました」
 ああ、彼女の声色がどこか剣呑な雰囲気を醸し出し始めた。これは完全に嫌われたな。
「では、律さんがそんなものから興味を無くすぐらい頑張らなくてはいけませんね……」
 ……今なんて? 突然、彼女は立ち上がり僕に近づくとそのまましゃがみ込み、僕の顔を掴み無理矢理自分の方に向かせた。
「やっぱり律さんは良い人です。自分の恥ずかしい性癖を晒すことで、私が深く傷つく前に嫌われようとしたのですから」
 ああ、読まれていたの? 僕の考え……。
「でも安心してください。私……律さんがどんな人間でも、私にしか興味を持てなくなるくらいに律さんを魅了してやろうとずっと思ってきたんです」
 その表情は今までの苦悶と葛藤がまるで嘘だったかのように恐ろしく晴れやかでとても魅力的だった。こんな状況でなければ……。
「ですから、覚悟しておいてくださいね、律さん。一応高校生という立場上、節度ある関係を保たなくてはいけないのは残念ですけれど」
 小首を傾げるような仕草をしながら、満面の笑みで優美さんはそう言った……。


7 同 次の日の校門前
「「……」」
 日高と伊能が悲愴と憎悪の感情剥き出しで僕の方を睨み付けてきている。いや、彼らだけでなく、周りの男子全員が僕に敵意剥き出しの視線を送っている。朝の校門前、僕はいつものように登校している。昨日までと違うのは僕の右手を握って笑いかける女の子がいるって事ぐらいだ。
「あの……細川君」
 遠慮がちな声に反応して、左を見ると笹岡が困惑したような顔で僕を見ていた。
「……何があったの?」
 ……そう言うよね。一週間前はあんなに優美さんと会うことを拒絶していた僕が仲良さそうに手を繋いで歩いているんだから。
「まぁ、笹岡さん」
 突然、優実さんが手を離したかと思うと僕に抱き付いてきた。
「人が恋に落ちるのはいつも突然ですよ」
 その顔はどこかいたずらっ子のように可愛らしかった。……ええ、まぁ可愛いのは認めますよ。
「ええと……」
 僕は驚愕で目を見開いて固まっている笹岡を見ながらこう言った。
「事実は小説より奇なりと昔から言うわけで……」


                   【終劇】


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