明日の私に会うために

 眠りから覚めて、初めて眠っていたのだと分かる。
「…………」
 そんな何回目かのまどろみが明け、私は目を覚ました。
 ブラインドからオレンジ色の光が差し込んでくるのが見える。今は夕方なのか……それとも、明け方なのか。
 分からないし、興味もない。何かを知ろうという気力――生きる気力が、根こそぎ奪われてしまった感じ。
『悪い。他に、好きな女ができた』
 終わりというのは、いつだって唐突に訪れる。
 私の恋も終わりは唐突だった。初恋の相手の、いとしい恋人の――そんな一方的な言葉。
 何度も泣いて、叫んで、けれども現実は変わってくれなくて。
 ……そうして家の中に引きこもり続けて、もう何日経つだろうか。
 胃がきりきりと痛んでいる。水は飲んでいるけれど、家にいる間は一切食料を口にすることはなかった。食べる気にならなかったこともあったし、何よりこの家にはもう食料は残っていない。
 あぁ、このままだと死んじゃうか、とどこか他人事のように思っている。水だけで生きていけるようには人間は出来ていない。栄養失調、餓死……いつか必ず体にガタがくる。
 だけど、それでもいいかなと思う。
 意識がすぅっと遠のいていく。また眠りにつくのか、それとも気を失うのか分からない。私は泥のような眠気に身を任せて……
 ぴーんぽーん。
「……」 
 そして私は、インターフォンの鳴る音を聞いた。
 私は動かない。続けざまに二度、三度とインターフォンが鳴る。私は動かない。インターフォンの音がノックに変わる。
「カナ? いないの?」
 懐かしい声。懐かしい声が呼ぶ、『カナ』という名前。
 ――あぁ、そうか。
 『カナ』は私だ。本名は小林加奈子。『カナ』は愛称。
「京、ちゃ」
 そして、私をそう呼ぶのは――片桐京子。私の友人。
 バイトにも大学にも出ない私を心配して来てくれたのだろう。その気持ちはありがたかったけど、今の私には重たすぎる。
 誰かと会うより、ただ一人でいたかった。
「……今は、誰にも会いたくないの……」
 私の掠れた声は、扉の向こうにいる京ちゃんに届いたのかどうか。
 きっと届いてはいない。その証拠にどんどんという音はまだ鳴り響いている。……うるさい。私はただ、一人にしておいてほしいだけなのに。
「カナ! いるんでしょ!?」
「……」
 ぎゅっと体を丸めて聞かないようにしていたけど、駄目だった。その音は私の心を直接打つように響いてくる。
 私は重たい体を起こし、玄関へと向かった。
「京ちゃん」
 扉に触れ、向こう側にいるであろう京ちゃんに語りかける。
「カナ……?」 
「うん」
 どんどん、という音が止んだ。
 一瞬の静寂が訪れる。もしかしたら京ちゃんにとっても、今の私にはどう話しかけたらいいのか分からないのかもしれない。
 京ちゃんが出した声はそんな、腫れ物に触るような声色だった。
「ねぇ、カナ……みんな心配してるよ」
「……うん」
「店長も、大学のみんなもさ……あんたが今どうしてるのかって」
「うん……ごめんね」
 その言葉には、純粋に申し訳なく思う。でも。
「だから……」
「ごめんね。今は……誰とも会いたくないから」
 私はそう言って、京ちゃんの言葉を遮った。
 話はそこで終わりにしたかった。私は扉に背を向ける。後ろからはひっきりなしに京ちゃんの声が聞こえてくる。
「でも、あんた! ずっと、そうやってるわけにもいかないでしょう!」
 ……そんなこと、分かってる。
「ずっと部屋の中で、引きこもったままで……そのままじゃ、いつか死んじゃうわよ!?」
 ……いっそ、死んでしまえばいい。
「あんな男のこと、ずっと引きずって……!」
「……!」
 ――そこまでで、もう限界だった。
「京ちゃん、もうやめてっ!!」
 叫んだ。
 血の味がする。がらがらの潰れた喉が痛い。
 けれども、止まらない。……止まれない。
「お願い、もうやめて……私に構わないで。京ちゃんには私の気持ちなんて分からないよ……!」
「……カナ」
 扉越しにでも、京ちゃんの顔が想像できる。手をさしのべた子猫に引っかかれたような、困ったような悲しそうな顔。
「カナ、あたしは……!」
 嫌だ。
 京ちゃんを困らせたい訳じゃない。こんなこと言いたい訳なんかじゃないのに……それでも私は上手く言葉にできなくて、目をつぶって叫んだ。
「帰って! 帰ってよ――!!」


 ――ぐぅ。


「………」
「…………」
 その時のことを、私は一生忘れないだろう。
 私の悲痛な叫びも二人の間に流れていた空気も『はい、そこまで』とばかりになかったことにして、ひどく滑稽な音が鳴る。
 ……きっと扉越しの京ちゃんにも、そのひどく場違いな音は聞こえていたのだろう。そう考えると恥ずかしさで死にたくなる。
 けれども誰も責める訳にはいかない。だって音の主は私なのだ。『三日間何も食べていなかった』私が、思わず叫んだ――お腹に力を入れて出してしまったその音は。
 扉越しに沈黙が流れた。それは長くて重くて、けれどもどこか白けた沈黙だった。
「……くくっ」
 扉の向こうから、京ちゃんの笑い声。さっきまでの悲痛な響きはどこにもなく、『我が意を得たり』と言わんばかりに。
「ねぇ、カナ。あたしはあんたの気持ち分かってないかもしれないけどさ、あんたの体のことはよぉく分かってるよ……ね、ちょっと覗いてみな?」
「……え?」
 何だろう。誘われるがまま、私は扉に付いている覗き穴を覗いてみる。
 魚眼レンズに映っていたのは紙袋のアップだった。その中には――道すがら買ってきたのだろう――美味しそうに湯気をたてている白い饅頭が。
 どっさりと。多分、これ全部肉まん。
 ごくり、と喉が鳴った。あぁこれ、多分京ちゃんの期待通りのリアクションなんだろうなぁ……
「これ、なーんだ?」
 私の代わりに腹の虫がもう一度、ぐぅ、と返事をした。



「……、……っ!」
「いや、そんなにがっつかなくても。取ったりしないから」
「……っ…………」
「あぁもう、こんなに口の周り肉まみれにして……いいよ、あたしが取ったげるから」
「……? ……、」
「美味しい?」
 こくこく、と頷く。口の中は肉まんでいっぱいになってるから、動作だけで。
 はしたないとは思うのだけど、肉まんにかぶりつく口は止まらない。ついさっきまで全く食欲が無かったのが嘘のようだった。
 いや、京ちゃんの話によれば私は三日間も閉じこもっていたらしいから、お腹が空いていなかったはずがない。食欲がなかったというか、単に『お腹が空いたことに気づいていなかった』だけだろう。 
「そう。ま、今のあんたは何食べても美味しいかもねぇ……それにしても」
 京ちゃんがくくっと笑う。
「『お医者様でも草津の湯でも、恋の病にゃ効きやせぬ』っていうけど、恋の病も空腹には勝てないのねー」
「……んぐ」
 それは、言わないでほしい。
 ――結局の所、私は京ちゃんを部屋の中に入れてしまった。
 あの肉まんが決定的だった。あれを見たとたん、体が勝手に動いて扉の鍵を開けていたのだから仕方がない。……仕方がない、のだろうか。
 六個目の肉まんをそろそろ食べ終える頃になってこういうことを言うのもどうかと思うのだが、私はその事実にとても落ち込んでいる。
 彼に振られてしまったときは、それはそれは深く傷ついたのだ。部屋に閉じこもったまま、いっそのこと餓死でもしてしまえばいいと思ったくらいに。けれども蓋を開けてみれば、私は友人の持ってきた肉まんにまんまと釣られ、いとも簡単に扉を開けてしまっている。
 私は本当に傷ついていたのだろうか? 傷心が肉まんに負けてしまうだなんて、そんな恋、大したこと無かったんじゃないだろうか。
 六個目の肉まんを飲み込んで、私は少し俯いた。
「……私、今ものすごくかっこわるい」
「ばかたれ」
「あいたっ」
 京ちゃんのデコピンが飛んだ。
 何かコツがあるのかは知らないけれど、京ちゃんのデコピンは痛い。ものすごく痛い。思わず右手で額を押さえてしまう。……あ、ちょっと腫れてる。
「……あのねぇ、カナ」
 京ちゃんは少し体を私の方に傾け、私はそれを見てぴくんと震えた。
 怒っている。京ちゃんは怒っている時は前のめりになる癖があったし、何よりも今の彼女の目がそれを物語っていた。
「かっこわるいって言うのならそれは今のあんたのことよ。男一人にふられて三日も引きこもって、その間大学もバイトも無断で休んで」
「……う、うん」
「来てみたら幽霊みたいな顔して何も食べてないって言うし、やっと食べたと思ったら今度はそれがかっこわるい? ふざけるんじゃないわよ」
「ご、ごめんなさい……」
 謝る他はなかった。
 怒られたから、怒った京ちゃんが怖かったからじゃない。ただ純粋に申し訳ないと思ったからだ。きっと京ちゃんは、私のことを心配してくれていたのだろう。だからこんなに、私のことを怒ってくれるのだ。
「……他人の目を気にする前に自分のこと気にしろってのよ。バカ」
 京ちゃんは私を見ている。
 まっすぐに見ている。……きっと。別れた彼よりもずっと真摯なくらいに。
「あんたはさ。彼氏に振られたこの先もずっと、生きていかなきゃいけないんだから。」
「…………うん」
 ……あぁ、やっと。
 やっと、だ。
 やっと私の中で歯車がかみ合った。胸の中でかちりという音がして、何かが動き出した。
 何が動き出したかは分からない。けれど、何かが始まったのだということは分かる。物事には全て終わりがある。終わった後に、もう一度始まりを始められるように。
 私は今、やっとスタートラインに立ったのだ。恋をして傷つく一人の乙女ではなく、明日を生きる小林加奈子という一人の人間として。
「……ほら。肉まん、まだあるからいっぱい食べなさい」
「うん。……食べ、る」
 そう思った瞬間、何だか無性に泣きたくなった。悲しいから泣くとかそういうのではなしに、ただ泣きたいから泣きたいのだ、という風に。
 それでもやっぱり友達の前で泣くのはためらわれて、私は京ちゃんから受け取った肉まんに思い切りかじりついた。
「……んむ……ふぇ……む……」
 口を塞いでも嗚咽は勝手に漏れてくるし、涙もじわっと滲んでくる。
 そんなぼやけた視界の先で、京ちゃんが「仕方ない」というように笑っているのが見えた。
「たくもう、このええかっこしぃ……いいよ。あたしのこと気にしないで好きなだけ泣きな」
 ……そういう優しさって、ものすごく卑怯だと思う。
「んんぅ……もぁ……んん……っ、う゛ぇぇ……っ!」
 あぁ、ものすごくかっこわるい。肉まんにかじりついたまま泣く女なんて私くらいのものだろう。その肉まんま涙がぼたぼた垂れて皮がふやけちゃってるし、私の嗚咽だってくぐもって酷いことになっていて。
 けれど、それは必要なことなのだった。食べることも、泣くことも……明日また、私が笑って明日を始めるために。
 だから、今は――。


「んぐっ!? げほっ、げほっ!!」
「あー……でも、危ないから泣くか食べるかどっちかにしときなさい。ね?」
 ――むせないように、ちょっとずつ、肉まんを食べよう。

<了>

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