息が白い。

 吐き出された吐息は凍てつくような冷気により可視化され、ほんの数瞬の間視界を白く霞ませ、やがて不可視へと還る。

 息のあまりの白さに、しづき紫月てんま天馬は嘆息した。それから、闇のあまりの深さに、彼はもう一度嘆息した。

 街灯一つない寂れた路地に、二度黒と白のコントラストが浮かび上がる。しかし、今の彼にそのようなものをゆっくり観察している余裕はなかった。

 天馬は肌を刺すような寒風に、亀のように首を縮めた。それでも、衣服のわずかな隙間から侵入する冷気は彼の体温を容赦なく奪い去っていく。自ずから、身体がぶるりと震えた。彼はさらに首を縮め、ついには頸部を完全に衣服の中に埋没させた。それで、ようやく人心地がつく。

 そんな、寒い寒い夜のこと――。

 季節は、粉雪舞い散る冬――。

 時は、闇色のマントに包まれた夜――。

 舞台は、人通りの疎らな道の途上――。

 役者は、お定まりの探偵とその助手――。

 ある冬の日の、探偵と助手のその帰途での出来事――。


   一


 雪は、日が落ちる前には降り止んでいた。


 しゃりしゃり、と音が鳴る。

 綿飴を敷き詰めたような雪の絨毯を二人が歩むたびに、しゃりしゃり、と音を立てる。他に、音はない。ただ単調に一定のリズムを刻むように、雪道に二人の足音だけが響く。

 しゃりしゃり、しゃり……。

 ふと、一方の足音が止んだ。

 道の先を歩いていた天馬は心持ち首を傾げつつ、後ろの連れを振り返った。

(何を、しているんだろう……?)

 立ち止まった彼の師の姿を視界に収めて、彼は首の角度を幾分急なものに変えた。

 彼の師――御津神冥介は立ち止まったまま、ただ空を見上げているようだった。他に何をする様子もない。ただ、それだけである。

 つられて天馬も空を仰いだ。

 そこには、月もなく星もない、まったくの曇天が深い闇色をたたえて、どこ果てるともなく広がっているのみ……。

 理解不能、だった。

 時々――いや、かなりと呼んでも差し支えないほどの割合で冥介の行動には理解不能なものが混じる。今回もその類か――と、白い溜息を吐き出した天馬に、冥介は驚くほど静かな声で話しかけた。しかし、視線を交錯させることはない。冥介の視線はいまだ、空の向こうにあるようだった。

「探偵にとって、大切なことは?」

 元々、迷うような問いではない。あまりの唐突さに天馬は訝しく思いながらも、数瞬考えて答えた。

「……観察することと、考察することです」

 それは、常日頃冥介が口にしている探偵の心得だった。今さら改めて問われるようなことではない。

 天馬の答えを聞いて、冥介はようやく視線を地上へと返した。

「うん、そのとおりだね」

 満足気な笑みとともに賞賛を贈る。

 それでも――師の言葉を聞いても、天馬の疑惑が晴れることはなかった。それどころか、疑惑はますます深く重いものになっていく。

 警戒を強めた天馬の様子を見て取って、安心させるように冥介は優しく微笑んだ。

「観察することとは、即ち謎を見出すこと……。考察することとは、即ち謎を解き明かすこと……」

「――その二つを為し得て初めて探偵となり得る――でしたよね?」

 後を引き継いだ天馬の言葉に、冥介は二度頷いた。

「上出来だよ。よく憶えていたね?」

「耳にタコができそうですよ」

「ああ、そうだったかな?」

 そう呟いて、冥介はかりかりと頭を掻いた。

 吹き抜ける風の冷たさに、天馬は身を縮こまらせた。しかし、冥介はそんな寒風の中でも平然としている。ただ単にコートのポケットに手を突っ込んだだけで、まるで木漏れ日の下にでもいるような表情で佇んでいた。

 寒さに耐性があるというよりは単純に寒暖に対する感覚が常人より鈍いだけだろう――暑い盛りに嬉しそうに今川焼きを頬張っていた彼の姿を思い出し、天馬はそうに違いない、と勝手に決めつけた。

「たまには実習というのも悪くないね」

 冥介の言葉に、天馬は意識を眼の前に戻す。

 彼の言葉には脈絡がない。それは、まるでそれまでの会話を無視したような調子だった。それゆえ、今回に限らず会話の途中で疲れを覚えることもしばしばである。

「……実習、ですか?」

「そう、ワークショップ」

 首を傾げたままの天馬の問いに、冥介はにこりと笑って答えた。糸のように細められた眼の奥に、輝きを秘めた純粋な子供のような瞳が見え隠れしている。

(あの眼は何か面白いことを考えついた眼だな……)

 長年の付き合いでそれぐらいのことは判るようになっていた。そしてその結果があまり愉快なことにならないことも、経験上容易に予測できる。

 そのことを思って、天馬は心中こっそり息を吐いた。

「わざわざ英語で言い換えなくても言葉の意味ぐらい判りますけど――」

「ん、そうか……」

「でも、実習って言ったって、いったい何をする気なんですか?」

「そりゃあ、探偵の実習に決まっているよ。つまり、観察と考察の実践だね」

「そう言っても、そんなことどこでやるんですか?」

「もちろん、ここで――」

 ちょいちょいと地面を指差し、冥介は事もなげに言い切った。

「そんな――」

 都合よく事件が転がっているはずがない――と続けようとした天馬の言葉は、冥介の次の台詞によって出番を永久に失った。

「謎がいつも密室とか首無し死体のように判り易い形で転がっている訳じゃない。時には日常に紛れて身を潜ませていることだって充分にあり得るんだ。そうした謎こそが多くは事件解明の端緒となる。そして、そうした謎を見逃さないためにも探偵は常に意識して物事を観察していなければならない。それが、僕の言う『観察』――探偵に必要なこと、なんだよ」

「…………」

 言葉もなかった。言い返すべき言葉も、見つからなかった。

 現場を、証拠を細かく検分すること――それこそが『観察』だと、そう思っていた。

 言葉の表面を撫でただけでそのすべてを理解した気でいた自分の認識の甘さを、ただ恥じた。

 俯き、地面の一点だけを凝視する。恥ずかしさに、顔を上げることができなかった。自分に注がれているはずの師の視線がこの上もなく痛い。物理的な影響力を持たないはずの視線がこんなにも痛いものだというのを、天馬はその時初めて知った。

「……先生――」

 天馬の気持ちを察したのか、冥介はふっと表情を緩めた。それから、俯いたままの天馬の頭を掌で優しく包む。

 くすぐったいような感触が嬉しくて、なんだか恥ずかしくて、天馬は眼を細めた。暖かな気持ちが頭頂を通して伝わってくる。

「天馬君――」

 優しく呼びかけられたその声に、天馬はゆっくりと顔を上げた。声と同じに優しい表情を浮かべた冥介の瞳が、天馬の視線を柔らかく受け止める。

「――今は、とりあえずそれでいいんだよ。知らなかったことを恥じる必要はまったくない。間違いを認めて、事実を受け入れることだって探偵に必要不可欠なことなんだからね。そして、君は今己の間違いを知り、それを受け入れた。――それで、いいんだ」

 優しく諭すような冥介の口調に、天馬は曇天のように曇りきった表情を五月の空のように晴れやかなものに変えた。

 その様子を見て、冥介も安心したように息を吐く。

「それじゃあ、早速実習を始めてもらっても構わないね?」

「任せてください!」

 冥介の確認に、力強く返事を返す。その声が、夜の静けさを破って辺りにこだました。

「課題は――『観察』。さっきも言ったように、今この場で謎を見出すこと――それが、第一課題だ」

天馬は闘志に瞳を燃やした。

 探偵をするということがこんなにもわくわくすることだなんて今まで全然気がついていなかった。眼の前に突きつけられた課題に、鼓動はどうしようもなく高まるばかりだった。

(先生はいつも、こんな感覚を感じているのだろうか?)

 こんな胸躍る瞬間を感じているのだろうか――と、天馬はこれまでよりも少し、探偵という存在を羨ましく思った。


   二


「よし――それじゃ、第一課題、開始!」

 冥介の言葉を合図に、天馬は周囲をざっと見渡した。

 『観察』の、開始である。

 彼の前後には薄く雪を被った道がただ真っ直ぐに続いている。左側を見れば、フェンス越しにやはり白く雪化粧をした無骨な線路を認めることができる。右側には五階建てのアパートがそび聳え立っていた。そして、その周囲にはごくごく一般的な一戸建て住宅が軒を連ねているだけだった。

(どこから検証していくべきか?)

 しばし黙考して、答えを出す。

 天馬はまず、右側のアパートから始めることにした。

 安普請といった言葉が似合いそうな、そして一部屋一部屋も大して広くはなさそうな、あまり高級そうではないアパート。こちらの道からは建物の側面と背面を見ることができた。道に面した側面には、建物端の部屋の窓が一階につき二つずつ並んでいるのが見えた。おそらく、端の部屋だけ部屋の側面分窓の数が多いのだろう――と推測する。ほとんど明かりはなく、ただ四階の一室の一部だけに明かりが灯されている様が目立って見えた。背面――つまりベランダのある側には、まったく明かりは灯っていない。そこは一切が闇の中に没している状態だった。――それだけである。

 これだけのことを観察して、天馬はふうと息を吐いた。

(ここは、こんなものか……)

 次に、道向かいに視線を移す。

 フェンス越しに見た線路は、何の変哲もないただの線路のように見えた。さすがに暗くて奥まで見通すことはできないが、眼の届く範囲で言えば線路の周囲を覆っている雪にしても不自然な点は見当たらない。ばらばらにされた轢死体が転がっている訳でもなく、また途中で途切れた足跡がある訳でもない。それどころか、当然のことながらフェンスの向こう側の雪はまっさらなままであった。滑らかな雪面が闇の中に白く浮き上がっている。――他に、特筆すべきことは見当たらなかった。

(ここも異常なし、と……)

 続いて天馬は、彼が今まさに立っている道路の観察を開始した。

 前を見ても後ろを見ても、雪に閉ざされたアスファルトの道路。ただそれだけの光景。ただし、ここの雪は白くない。人に踏み固められたり、車の轍の跡が残ったり――といった状態でところどころ黒く煤けて見えた。それでも、足跡はそんなに多い訳ではなかった。幾筋かのみ残された足跡が、この道の人通りの少なさを物語っている。そのうちの二筋は眼の前のアパートへと続いていた。片方はアパートへ入っていくもの、もう一方は反対に出て行くもの――お互いに逆方向へとその跡は続いていた。――やはり、どこにも不自然な点は見られない。

(ここでもないのか……)

 最後にもう一度右側――アパートの周囲の住宅を観察したが、結局そこにも謎らしい謎を見出すことはできなかった。

 そうして、天馬は見るべきところをすべて見尽くした。しかし、謎はどこにも存在していないようだった。

(本当に謎は存在しているのか? ――もしかすると、謎なんてないんじゃないだろうか?)

 先ほどまでの意気込みはどこへ行ったのか、いつのまにか天馬の心を弱気な考えが支配し始めていた。

 そんな天馬を、冥介は優しく見守っている。天馬の観察に口をはさむことなく、ただじっと――。天馬と視線が合うと、彼は励ますように柔らかく微笑んだ。

(謎といえば、先生が唐突に実習なんて言い出したこと自体が謎なんだけどなあ)  

 何気なくそんなことを心中で呟いて、はたと気がついた。

(そうか! それだ! 何故先生は唐突に実習なんて言い出したのか? それは、先生がこの場で何らかの謎を見出したからではないか? だからこそ、先生はこのような実習を思いついた。――だったら、先生はどうやって気づいた? そのどこかに存在している謎に――。先生は何を見ていた? 何を見て実習を思いついた?)   

 その思いつきに、興奮が身体中を駆け巡る。

 冥介の表情を窺うようにその顔を覗き込んで、あっと声をあげた。天馬の脳裏に、先ほどの彼の不自然な行動が甦った。

(そうだ、空だ! 先生はさっき唐突に空を見上げて、それから急に実習の話を切り出したんだ)

 天馬は慌てて空を見上げた。

 冥介が見上げていた空、先ほど彼自身が確認した空――。しかし、そこにあるのはやはりただどこまでも広がっている黒い雲だけだった。

(おかしい。空じゃ、なかったのか?)

 諦めたように視線を下げようとして、天馬の視界にアパートの明かりが飛び込んできた。ほんの少し、目線を下げた位置にあったその光景から、眼を離すことができなくなった。

(まさか、先生が見ていたのは空なんかじゃなくて、これだったのか?)

 アパートの側面――道に面した側に並んだ端の部屋の窓達が並んでいる中、四階の部屋の窓――しかも二つ並んだうちの玄関側だけに明かりが灯っている、その光景――。

 その光景に、頭の隅で何かが引っかかった。

(おかしい。確かにどこかが不自然だ。何だろう、この違和感……?)

 じっとその光景だけを視界に収める。驚異的な集中力を発揮して、眼の前に存在する謎に全神経を集中させた。

いつの間にか、寒さはまったく気にならなくなっていた。

 …………。

 そして、ようやく天馬は視線をアパートから冥介のもとへ戻した。

「先生、謎の正体が判りました」

 晴れ晴れとした彼の表情を眼にとめて、冥介も心から嬉しそうに微笑んだ。

「そうかい。それじゃ、聞かせてもらおう、君の推理を――」

 居住まいを正すように身体を真っ直ぐに伸ばして、天馬は語りだす。

「やはり、違和感の正体はあのアパート四階に灯った明かりだったんです。普通あの手の面積の広くないアパートの部屋の構成としては、まず玄関を入ったところに風呂、トイレ、台所なんかがあって、奥に入ったところに居室がある――という感じになっているはずです」

「うん、そのとおりだね」

「――ということは、ここから見えるあの明かりは玄関に近いほうの窓のものなので、台所あたりの窓であると推測されます。一方、ベランダよりの窓――居室の窓には明かりが点いていません。これは、不自然です。普通に考えるなら、電灯の点き方の組み合わせとしては、台所と居室の両方とも点いているか、あるいは消えているか、さもなければ居室だけ電気が点いているか――この三種類しか考えられません。――両方とも電気が点いている場合はこうしたアパートではよくある話です。両方とも点いていなければ留守だと考えられます。居室だけ点いているのは台所に用がないからそっちの方は電灯を消していると考えられます。ところが、台所だけ電気を点けて居室は消してしまうという理由はちょっと考えられないんです。いくら台所で作業をしているからといって、狭いアパートでわざわざ居室の電灯を消してしまう人間はいないでしょう。――従って、その明かりの点き方こそが今この場に存在する謎であると指摘できます」

 一気にそれだけ喋って、天馬は大きく息を吐いた。

「うん、上出来、上出来――合格だよ」

 冥介はにこやかにそう告げる。それを聞いて天馬もぱっと表情を輝かせた。だがしかし、またすぐに表情を枯らしてしまう。弱気な口調になって告白した。

「でも――半分はインチキみたいなもんなんです。この謎は僕が自力で見つけたんじゃなくて、実習を言い出す前の先生の言動から、ただ単に推測しただけなんです。すみません――やっぱり、これじゃ失格ですよね……」

 そんな天馬の様子に、冥介はやれやれと肩を竦めた。

「なんだ、そんなことか……。『観察』とは、そういうことすべて含めたことをそう呼ぶんだよ。今君は周囲を観察するだけでなく、僕の行動をも観察することによって、答えに辿り着いた。すべてを観察することで謎を見出す――それが、『観察』なのだから、君はまったく正しい『観察』を実践したということになる。よって、君が謝る必要は一切ない。文句なしの合格だ」

「先生……」

 師の賞賛に照れたような笑みを浮かべていた天馬は、次に冥介の放った台詞に表情を凍りつかせた。

「さあ、今度は第二課題に移ろうか」

「……えぇっ!」

 眼を点にした天馬に、悪戯っぽく笑って冥介は付け加えた。

「さっき『第一課題』って言ったはずだけど?」


   三


「もちろん、第二課題が何か、予測はついているね?」

 冥介は白い息とともに、その問いを吐き出した。一瞬、眼の前の冥介の顔が白く霞む。

 天馬は問いに対して思考する。

 判らないはずがない。

(第一課題が観察の実践だったから、次は――)

「――考察の実践、ですよね?」

「ご名答! 観察によって謎を見出した探偵が次にすべきことは、その謎に対して考察を加えることと、その考察から真実を導き出すことだ。第二課題ではそれを君に実践してもらおう」

「……ええ、もちろん――判って、ますよ……」

 にこやかな笑みの冥介とは対照的に引きつった笑いを顔に貼り付け、天馬は答えた。だがしかし、本当のところは『判って』などいなかった。
(さすがに、考察のことまでは考えてなかった……)

「それじゃあ、早速考察を始めてごらん?」

 あくまで楽しそうな冥介の様子に、天馬は覚悟を決めるしかなかった。無理やりつりあげた頬の筋肉がぴくぴくと痙攣する。それを悟られないよう、くだん件のアパートを観察する振りをして冥介から顔を逸らした。

 アパートの明かりを瞳に映しながら、心中で盛大に溜息を吐く。

( うう……やるしか、ないのか……)

 笑顔の裏に涙を隠し、挫けそうな心を鼓舞しながら、天馬はそう決意した――いや、そうせざるを得なかった。

「それでは――」

 そう口火を切った天馬だったが、正直なところアイデアらしいアイデアがある訳ではなかった。しかし、状況がそれを許してはくれない。師である冥介の手前、問題を簡単に投げ出す訳にはいかなかった。

 しかたなく、即興の単純極まりない仮説を披露することにした。

「――僕は、この問題は謎と呼ぶほど大げさな代物ではないんじゃないかと思います」

 それでも、『それ』らしく振舞うのは忘れない。その点、彼も探偵見習の端くれであった。

「――と、いうのは?」

 冥介も、ただ聞くだけでなく合いの手を入れるのを忘れない。それに「はい――」と頷いて、天馬は推理を続けた。

「実に単純なことです。居室の明かりが点いてなかったのは蛍光灯が切れてしまったから――だから、居室の電灯を点けたくとも点けられなかった。――部屋の主は、きっと日が落ちて初めて居室の蛍光灯が切れていることに気がついたのでしょう。予備の蛍光灯も切らしている。しかし、この寒さではわざわざ外まで買いに行く気にもなれない。それで、今日だけは居室の明かりがないままで我慢することにした。――ただ、それだけのことだったんです」

「ううん――残念だけど、それは違うなあ」

 案の定――否定の言葉が飛び出したが、天馬にはそれも半ば予想済みのことだった。さすがに即興の推理で名探偵・御津神冥介を納得させられると思えるほど厚かましくはない。おそらく推理に穴があるだろうことは百も承知。それでも、その推理を提出せざるを得なかった自らの力量が堪らなく歯痒い。天馬はその悔しさに、ぐっと唇を噛みしめて耐えた。

「一応、どうして僕の推理が間違っているのか、その根拠を聞かせてもらっていいですか?」

「もちろんだよ。間違えた問題は間違いをそのままにしないできちんとその原因を確認する――それが、勉強の基本だろう? この場合も同じことだよ。君は自分が推理を誤った原因を知る必要がある。そのために、僕は推理を語ろう」

「お願いします……」

「うん――さて、何故君の推理が間違いであると断定できるか、というとだね。その理由は単純明快。あの部屋には現在誰一人いやしない――というのがその根拠だよ」

「ええっ? でもどうしてそう言い切れるんですか? 部屋の中を見てきた訳でもないのに……」

「う〜ん、その点は君の注意力不足だね。見るべきところをきちんと見ていない――その点は、気をつけた方がいいかな」

「見るべきところ?」

「アパートのベランダだよ。ほら、各部屋ごとにエアコンの室外機が備え付けられているだろう? ところが、どの部屋の室外機も動いている様子はない。これだけ寒いんだ、部屋の中にいてエアコンをつけないなんてことがあるはずがない。従って、エアコンが作動してない以上、室内に人がいるはずがない――という訳だよ」

「――って、ちょっと待ってください! 先生、見えるんですか、あれが……?」

 驚いたようにそう訊ねた天馬に、冥介は事もなげに頷いた。

「ん? もちろんだけど……?」

 心持ち傾げられた彼の首には微妙に不思議そうなニュアンスが込められている。

 天馬は絶望的な気分でアパートを見上げた。

 視線を四階端の部屋のベランダに定める。しかし、どんなに瞳を凝らして見ても、室外機が動いているかどうかなんて確認することはできなかった。闇の中に薄ぼんやりと箱型の影が浮かび上がっていて、どうにかそれが室外機であると確認できる程度だ。他の部屋にしても同じことだった。下の階ならともかく、四階以上の部屋の室外機についてはいくら努力しても肉眼で確認することは適わなかった。
(人間業じゃない……)

 探偵は頭だけではない――そのことに初めて気づかされた一日だった。

「他に、何か意見は――?」

 当初、天馬の頭の中には部屋の主が電気代を節約するために、使っていない居室の明かりを消したのだ――という仮説があったが、それも冥介の推理で先ほどの仮説ともども見事なまでに粉砕されてしまった。それだけではない。その後に思いついた様々な仮説達が、部屋の主の不在というその一点だけのために海の藻屑と消え去ったのだった。

(――となれば――)

「今の先生の推理によって部屋の主の不在が確定されました。それならば、答えは一つしかないでしょう。――答えは、ただの消し忘れだったんです。人間誰しも明かりの消し忘れぐらい経験があるものです。そして、あの部屋の主も出掛ける時にうっかり台所の明かりを消すのを忘れて出掛けてしまったんです。この説ならば先生の――部屋の主は不在であるという推理にも矛盾しません。――先生、今度はどうでしょうか……?」
「う〜ん、この説もなあ……」

 またしても冥介の歯切れは悪い。言いにくそうに頭を掻いていたが、意を決したのか天馬に向き直ってしっかりとした口調で喋りだした。それでも、口調に混ざる申し訳なさそうな雰囲気は隠しきれていない。

「今度のポイントは、時間かな。君は今、部屋の主は明かりを消し忘れて出掛けたんだ――と推理したね?」

「――はい……」

「――ということは、だ。部屋の主が出掛けた時、既に外は暗くなっていたということになるね?」

「――まあ、そうなりますね」

「ところが、こう考えると一つの矛盾に突き当たってしまうんだ」

「――矛盾、ですか?」

「そう、矛盾だ。――これを見てごらん?」

 そう言って冥介は天馬をアパートの入口付近まで誘うと、そこの地面を指で示した。それにつられて天馬もしげしげとそこを観察する。そこには、アパートに入るものと出るものの二筋の足跡が残されていた。

「……もしかして、足跡ですか?」

「察しがいいね。そう――この足跡こそが君の推理が成り立たないということを証明してくれる証拠なんだ」

 そう言われても、天馬にはどうしても納得がいかない。たかが足跡でどうして自分の推理が否定されてしまうのか、理解が及ばなかった。
「それでは、天馬君? 雪はいつ頃止んだかな?」

 その問いに、天馬は記憶を辿ってしばし沈黙する。それから、おもむろに口を開いた。

「……確か、夕方前――少なくとも日が落ちる前には止んでいたと、思います……」

 心なしか、その口調には覇気が感じられない。

 天馬の答えを受けて、冥介は満足げに頷いた。

「そうだね。――さて、部屋の主が暗くなってから外に出た――ということは、雪が暗くなる前に止んでいたことから考えても、ここにその足跡が残っていないはずがない」

「それじゃあ、そこの足跡がそうなんじゃないですか?」

 天馬は自分の足元から続いている一筋の足跡を示して言った。だが、そんな天馬に冥介はゆるゆるとかぶりを振る。違う、ということらしい。

「ところが、そう考えてもまだおかしいんだ。ここで、もう一つの足跡の方に注目して欲しい。そこの、アパートに入っていく方の足跡だ。ここに足跡が残っているということは、その何者かは雪が降り止んだ後になってからこのアパートへ侵入したことになる。そして、唯一残された出て行く足跡はあの部屋の主のものだ。ということは、その雪が降り止んでから侵入してきた人物は出て行く足跡がない以上、いまだこのアパート内にいる――ということになる。ところが――」

「――先ほどの推理によりアパート内には現在誰もいないことが確認されている……」

 後を引き継いだ天馬の言葉に、冥介はゆっくりと頷いた。

「そうだね。以上の推理よりあのアパートから部屋の主は出て行かなかったということになる訳だよ」

 冥介は簡単に断定してしまったが、天馬にはまだ完全に納得がいってなかった。

(まだ、この推理には綻びが存在するのではないか?)

 天馬はどうしてもその点を確認しない訳にはいかなかった。

「でも、こう考えたらどうでしょう? 部屋の主は部屋を出たといってもアパートから出た訳ではなかった。外に用事があったのではなくてアパート内に用事があったんです。そう考えれば足跡の矛盾は見事にクリアできます」

「ところが、そう考えるとまたしても先の推理と矛盾をきたしてしまうんだ。さっきも言ったとおりアパート内に人はいない。その事実が厳然とある以上、部屋の主が誰かの部屋を訪ねたという可能性は決して存在し得ないんだ」

「……それなら、この二筋の足跡が同一人物の――つまり部屋の主のものだったとしたらどうでしょう? そう考えればアパートが無人であることも、足跡の問題も、明かりの問題もすべて解決することができるはずです」

「う〜ん、それは論理よりも証拠の問題だなあ。確かにこれまでの論理に照らし合わせてみても今の説に矛盾はないだろうね。だけど、君は一つ大事なことを見落としている。この二つの足跡を比較してよく観察してごらん?」

 天馬は言われるままに雪道にしゃがみこむと、地面と十数センチの距離まで顔を近づけて足跡を観察した。道路に降り積もった雪から放射される冷気が頬を冷やしたが、そんなことに構っている余裕はなかった。彼の瞳は真剣に問題の足跡だけを映し続けている。

 しばらくの時間を経て、やがて天馬は足跡から顔を上げた。

「――先生の、仰るとおりでした。あの二筋の足跡は確かに別人のものです。靴跡も違えばサイズも随分違っているようです。ということは、僕の推理はこれで完全に息の根を止められた――ということになります……」

 少し寂しそうにそう呟いた。言葉には、どこか自虐的な響きが込められている。

「僕にできるのは、どうやらここまでのようです……」

 ようやくの思い出自らの敗北を宣言する言葉を紡いだが、天馬の頭は今、この上もなく混乱しきっていた。

 今の二つの推理が否定されたこと――その事実の持つ意味が天馬の頭をぐるぐると掻き回す。

(どういう、ことだ? アパート内は無人で、それなのに出て行ったのとは別に入ってきた人物が存在する。 それじゃあ、その人物はいったいどこに消えてしまったと言うんだ? そして、あの部屋の不自然な明かりの点き方との関連は?)

 天馬は自らが気がついたその事実に小さくうめいた。

「もしかしてこの事件は――」

 驚愕に見開いた眼を冥介に向ける。彼は柔らかく微笑んで、天馬の台詞を引き継いだ。

「気がついたようだね。密室内からの人間消失――それがこの出来事に秘されたもう一つの謎だったんだ」


   四


 天馬は不思議な思いに囚われていた。

 謎を解きほぐすはずの論理が新たな謎を紡ぐ、その不思議。

 唐突に、眼の前に現出した不可能状況。

 眼前に静かに佇む、自在に論理を操る探偵。

(まるで、魔法だ……)

 心の底からそう思った。

 ただ静かに、たおやかに微笑む探偵を見つめながら、そう思った。

 探偵は、微笑む。

 不意に、その瞳が鋭く細められた。

 表情は微笑んでいるのに、ちっとも笑っているように見えない。

「それじゃあ――ここから先は、僕が手本を示そう。探偵の操る論理を、見せてあげるよ……」

 そして、探偵が口を開く。今度は謎を紡ぐためでなく、謎を解体するために――。

 天馬は小さく身体を震わせた。

 たった今、空気が変わったのがはっきりと感じ取れた。冥介の周囲に張り詰めたものが走る。周囲の気温が下がったようなその感覚を、天馬は敏感に察知していた。

(これが、探偵――。これが、御津神冥介――)

 探偵の放つ独特の存在感を肌でじかに受け止める。

 初めて相対する真剣そのものの瞳――。

 闇を映したような深い色の瞳に、今にも吸い込まれてしまいそうな気がした。

「さあ――絵解きの時間だ……」

「…………」

 探偵の宣言に、天馬はごくりと唾を飲み込んだ。

(いよいよ始まる。先生の、解答編が――)

「まずは、謎を整理することから始めよう。さて、これまでの推理によって、アパート内に侵入した人間がいることと、その人物が外に出ていないこと、そして現在アパート内に人がいないことが判明した訳だね。人が入っていったにもかかわらず中には誰もいないというこの矛盾した状況。果たして、その人物はどのようにしてこの雪に閉ざされた巨大な密室から消え去ってしまったのか? つまりは、そういうことだね?」

「――はい……」

 冥介の確認に、天馬はただ頷くだけで答えた。

「一応、確認してみるといいよ。アパートの周囲にそれ以外の不審な足跡があるか否か――」

 またもこくりとだけ頷いて、天馬はアパートの周囲をゆっくりと周った。

 白くまっさらな雪に天馬の足跡だけが印されていく。ただそれだけでその他に一切の足跡は存在していなかった。周囲の建物とも数メートルの隔たりがある。とても入口以外から人が出入りしたとは考えられない。――結局、密室は密室のままだった。

「ご苦労様。これで論理の輪は狭められた。おかげで随分とやり易くなったよ」

 冥介はより強固となった不可能性に怯むどころか満足そうに頷いた。

「でも、判りません。その人物がどのようなトリックを用いてアパートという巨大な密室から足跡を残さずに消え失せたのか……」

「はははっ。なるほど、トリックか……。ふふ、僕はこの不可能状況を演出しているのはトリックというよりは論理の陥穽ではないかと考えているよ。――如何にして一人の人間がここから消えうせたのか――なるほど、レトリックとしてはそう言えないこともない。そういう意味でなら、確かに一人の人間がこのアパートから消え去ったんだ。それも、周囲に足跡一つ残すこともなく、ね」

 そこで冥介はさもおかしそうに声をあげて笑った。しかし、天馬には冥介の笑いの意味が欠片ほども理解できない。硬い表情のまま、探偵の次の言葉を黙って待ち続けた。

 ひとしきり笑って、冥介はようやく落ち着いたように息を吐いた。

「ごめんごめん。君がなかなか面白いことを言うものだから――」

「先生、トリックというよりは論理の陥穽――というのはいったいどういう意味なんですか?」

「文字どおり、先ほど僕が展開した論理の中に事実を錯覚させる陥穽が潜んでいたということだよ。そして、それこそがこの不可能状況を構成しているものの正体なんだ」

「それじゃあ、あの推理のどの部分が誤っていたというんですか?」

「少し考えれば判ることだよ。雪が降り止んだ後に一人が入っていって、別の人間が出て行った。そしてそれ以外の人の出入りはあり得ない。そこの雪上の足跡がある以上、これは確実だ。それならば――もう一つの、アパート内が無人であるという推理を疑うしかない」

「でも、この寒さの中室外機が動いていないのだから室内に人がいるはずがない――というあの推理も充分妥当なもののように思えました」
「本当にそうかな。実はこの論理には一つだけ穴がある。室内にいるにもかかわらずエアコンをつけることができない状態が、決してない訳ではないんだ。そして、今回は正しくそのパターンだった。それはあの部屋の不自然な明かりの点き方を考え合わせても一目瞭然なんだ。」

「じゃあ、やっぱりあの部屋に何か秘密が――?」

「そういうことになる。そして、答えはつまらないぐらいに単純だ。きっと、君が知ったらがっかりするぐらいにね」

「教えてください。その、答えを――」

「――それじゃあ言おう。答えは、部屋の主が帰宅直後に玄関先で殺害されてしまった――ただそれだけのことだったんだ。――ほら、つまらない答えだろう?」

 冥介は本当につまらなそうに呟くと、肩を竦めた。

 天馬の方は唖然として口を開くことができない。頭の中で冥介が下した結論の正当性を検証していく。

(部屋の主が玄関先で殺害されたのなら、確かにエアコンがついていなかったのも納得がいく。玄関先で殺られたのならエアコンをつけにいく余裕もなかっただろうし、死者なら寒さも気にならなかっただろう。そして、あの不自然な明かりの点き方――あれも居室に辿り着く前に殺害されたからだと考えれば筋が通る。足跡の問題にしてもそうだ。エアコンの問題が別の理由で解消した以上、それは既に問題でもなんでもない。――本当に、すべての疑問が解けてしまった。街中でふと見かけた不自然な明かりの点き方と二筋の足跡――ただそれだけの疑問から、これだけの事実を喝破してしまうなんて……)

 天馬は彼の師が見せた実力に薄ら寒いものを感じた。

(これが、探偵なのか……)

 まるで、眼の前の冥介が――探偵という存在が、人外のもののように思えてしまう。

「これで、さっき僕の言った意味も判っただろう? レトリックで言えば人が一人消えたと言えないこともない、と――」

「つまり、その人物は殺害されることによってこの密室から脱出し得たんですね。屋外に足跡一つ残すことなく……」

 冥介は天馬の答えに満足そうに頷きを返す。

「まあ、そういうこと。――さて、それじゃあ推理の確認といこうか? ま、僕は死体の存在を確信してるけどね」

 冥介はそれだけ言うとそのまま躊躇うことなくアパートの中へと入っていった。その後を、慌てて天馬が追いかける。

 二人は揃ってアパートの中に姿を消した。


   五


 高まる鼓動を鎮めるように、天馬は心臓に手をあてた。どくんどくんと心臓がいつも以上の脈拍で脈打っているのが掌を通してはっきりと伝わってくる。自分が今極度に緊張しているのだということを、はっきりと自覚させられた。

 それもそのはずだ。天馬は今、件の部屋の前に立っている。冥介の推理が正しいとすれば、すぐ傍に死体が転がっているはずの部屋の前に――。

 これで緊張するなと言う方が嘘だ――と天馬は思う。だが、彼の隣に佇む冥介からは一切の緊張の兆候を読み取ることはできなかった。天馬の見る限り、まったくの自然体のようである。時折口元に手をやっているのは、おそらく欠伸を噛み殺しているのだろう。

「開けてごらん?」

 冥介の言葉に、天馬はびくりと震えた。

「ぼ、僕が――開けるんですか?」

「大丈夫。おそらく鍵なんてかかっていないはずだから」

 冥介は安心させるように笑いかけたが、当然天馬が心配していたのはそのような些末なことではない。

「ほらほら、早く――」

 冥介の急かしに、天馬は覚悟を決めるしか道はなかった。

 一つ呼吸して、乱れた心をでき得る限り落ち着かせる。それから、部屋の扉に手をかけた。外気で冷えた真鍮製のノブがひんやりと冷たい。それに構わず天馬はゆっくりとノブを回した。抵抗なくノブはスムーズに回転する。扉を引けば、チェーンが掛かっているということもなく、部屋は侵入者二人を大人しく招じ入れてくれた。

「ふうん、やっぱりこういうことか……。たぶん事件の経緯としてはこんなところだったんだろうね。――日が落ちてから帰宅した部屋の主は玄関の明かりを点けたところで部屋に侵入していた何者かとばったり遭遇してしまった。慌てた侵入者は手近にあった刃物を使って部屋の主をめった刺しにして殺害。それから、現場から逃走した」

 冥介は冷めた視線で現場を見下ろして、冷めた声音でそう分析した。

 一方、眼の前に広がった光景に、天馬は思わず息を呑んだ。予想していたとはいえ、それでも喉元までせり上がってくる不快感は抑えられない。口元を押さえ、視線をそこから外した。

 これまでにも何度かこのような現場にも立ち入ったが、いまだに慣れることはできなかった。特に、血に塗れた現場は天馬の最も苦手とするものだ。そして、今回の現場は正しくそれに分類されるタイプの事件現場であった。

 玄関を入って少し行ったところに倒れた若い男性は苦悶の表情を浮かべたまま事切れていた。確実に生きてはいまい。仰向けに倒れた被害者の腹部にはその原因となった創傷がいくつも赤黒い傷口を広げている。そこから流れ出した血液が被害者自身の服も、その周囲の床をも赤く染めていた。血に浸された果物ナイフが蛍光灯の明かりを受けて硬質な光を照り返している。

 こんな死に方はしたくない――天馬にそう思わせるほど、被害者の死に顔は悲惨なものだった。とても直視し続けることはできない。

 天馬は堪らず部屋から飛び出した。

 血の匂いでない、新鮮な夜の空気を吸って気持ちを鎮める。深く深く、深呼吸した。肺の中の血の匂いをすべて吐き出すように、深く――。

 それから数分後、部屋の扉を潜って冥介が姿を現した。

「一応、通報はしておいたよ。善良なる市民の義務だしね」

 部屋から出てきてそのまま帰ろうとする冥介を、天馬は慌てて呼び止める。

「先生、現場の調査はいいんですか?」

「ん? ああ、いいんだよ。無駄なことはしない主義なんだ」

「無駄って、何か犯人を特定する手掛かりが残されてるかもしれないじゃないですか?」

「いいんだよ、そんなもの――」

「そんな……」

「そんなことより先を急ごう」

「でも、これから警察が来るんじゃ……」

「そんなことよりも、こっちの方が最優先事項だ。ぐずぐずしているとせっかくの犯人を辿る手掛かりが消え去ってしまう」

「えっ? それじゃあ、先生――?」

 冥介は前髪を軽く掻き上げると、次の台詞を口にした。

「さあ、急ごうか。アリアドネの糸玉を辿って、迷宮の出口へ――」


   六


 二人は薄く雪の積もった道路を歩いていた。冥介言うところの、アリアドネの糸玉を辿って――。

 その間も、冥介の推理は続く。

「ここでまた、問題は足跡に帰結するんだ。さっき確認したとおり、あの部屋の中には死体が転がっていた。ということは事件の経緯は先ほど僕が推理したとおりであると考えて問題ない。そして、このことから大まかな犯行時刻を割り出すことができる。被害者は帰宅してまず明かりを点けたのだから、その時既に周囲は暗くなっていたということが判るね。つまり、犯行時刻は日が落ちてから僕達があのアパートに辿り着くまでの時間に限定される訳だ。まあ、そのこと自体は大した問題ではないんだけど。このことから、一つの重要な事実を導き出すことができるね?」

「重要な事実、ですか?」

 首を傾げて訊き返した天馬に、冥介は笑い返す。

「そうだよ。被害者が殺害されたのは日が落ちてから、そして雪が止んだのは日が落ちる前――ということは、被害者が帰宅したのも雪が止んだ後であるということになる」

「あっ――それじゃあ、あのアパートに入っていく足跡は――」

「そう――あれこそが被害者がアパートに入る時の足跡だったと確定することができるんだ。さて、それでは次に犯行後の犯人はどうしたか――」

「アパート内に被害者以外の人はいなかったんですから、当然アパートから出て行ったことになりますね」

「そのとおり。そして、犯人がアパートを出て行ったのは犯行の後なので、当然犯人は被害者同様雪道に足跡を残して帰っていったということになる」

「それじゃ、僕達が辿っているアリアドネの糸玉っていうのは――」

「うん、犯人が残していった足跡だよ。つまり、この跡を辿っていけばいずれは犯人のもとへ辿り着くことができるという訳だね」

 天馬は冥介の推理を聞いて、感慨深げに足元の足跡を見下ろした。

 犯人はどうやら人通りの少ないところを選んで歩いているらしい。いまだ足跡は踏み消されることなくくっきりとその痕跡を残している。

(おそらく返り血を浴びたかどうかしてあまり人前に出ることができないのだろう。そういう事情なら、途中で電車やタクシーなどの移動手段を使うはずもない。もしそうならば先生の言うとおり、ほぼ間違いなく犯人のもとへ辿り着けるだろう)

 天馬は興奮を抑えきれなかった。

 もう少しであの残虐な犯行を行った犯人を捕らえることができる――そう考えただけで鼓動が速まる。

 二人は犯人目指して猟犬のように足跡を追い続けた。

 雪道に印されたアリアドネの糸玉は、まだしばらく続いているようだった。


   七


 ようやくアリアドネの糸玉は二人を迷宮の出口まで導いてくれたようだった。

 ある建物の入口で、足跡はぷっつりと途絶えている。

(だけど――)

 天馬は困惑した。

 前方の建物に視線をやる。

 それは、またしてもアパートだった。今度のは二階建ての小ぢんまりとした八部屋ほどの小規模なアパートではあったが、足跡が共通の入口で途切れてしまっているために、これまで辿ってきた足跡がどの部屋の住人のものか特定することはできない。

(いったい、どうすれば……?)

 困惑する天馬をよそに、冥介は余裕の表情でアパートを見上げている。口の端には楽しげな笑みすら浮かべながら――。

「さぁてと、そろそろ仕事を始めようかな」

 そう言うと、ゆったりとした歩調でアパートへと近づいていった。

 天馬には彼の意図がまったく読めない。だが、とりあえず冥介の行動を見届けようと、後に続いた。

「君は、そこで待機。しばらくの間大人しく待っているんだよ?」

 冥介はやんわりとした口調で天馬の行動を抑制する。
「えっ? でも……?」

 困惑顔の天馬に、冥介は優しく笑いかけた。

「大丈夫。あとで全部説明してあげるよ」

 そして、笑みだけを残して再びアパートへと向かって行った。

(先生は何をする気なんだろう?)

 そんな冥介の様子を天馬は固唾を飲んで見守る。冥介の行動の真意が気にはなったが、信頼する師の言葉には逆らう訳にいかなかった。言われたとおり、大人しく冥介の帰還を待つことにする。

 一方、冥介は適当な理由を捏ね上げて各部屋を訪ねて何かを聞いてまわっているらしい。端の部屋から順に扉を叩いては住人と玄関口で何らかのやりとりをしているのが確認できる。声まで聞き取れないのがもどかしい。

(いったい何の話を……? まさか『あなたが犯人ですか?』なんて訊いてまわってるとは思えないけど)

 はちきれそうな好奇心を懸命に抑えながら、天馬は冥介が戻ってくるのを待ち続けた。





 待つこと十数分――。

 ようやくすべての部屋をまわり終えた冥介が天馬のもとへ帰ってきた。その表情はどこか満足げだ。ゆっくりとした歩調で近づいてくるのがもどかしくて、天馬の方から彼に駆け寄った。

「はあ、はあ……先生、収穫は――?」

 乱れた呼吸のままにそう訊ねる。

 待ちきれずに駆け寄って訊ねた天馬に、冥介は安心させるように頷いた。

「すべて予想どおりだよ。犯人はただ一人に確定された」

 はあ〜、と感嘆の息が天馬の口から漏れる。

 いよいよ、事件は最終段階に到達したのだ。

「さあ、行こうか……」

 冥介は再びアパートへ向けて歩き出した。その後ろを、判断に困った天馬がうろうろと行きつ戻りつしている。
 冥介は、そんな天馬を振り返った。

「ほら、ぼやぼやしてると置いてくよ?」

 それからまた歩き出す。

「あ――はいっ!」

 その後を、天馬は元気一杯の足取りで追いかけた。





 冥介は一階の端から二番目の部屋の前で足を止めた。その後に従っていた天馬もそれに倣って歩みを止める。

 こんこん、と柔らかい響きで扉が鳴る。ゆったりとした調子で冥介は扉を優しく叩き続けた。

 八度目ほどで扉が控え目に開いた。

 警戒したように顔を出したのは、あまり見栄えのよくない格好の男だった。その眼光は鋭く険しい。まるで、何かに怯えているかのような瞳だと、天馬はそうも感じた。

「――またあんたか……。しつこいな。さっきも言ったように家はクリーニングなんて必要ない」
 不機嫌そうな声でそう吐き捨てる。

 対する冥介はあくまでにこやかに応対していた。

「いえ、実は僕が用があるのはあなたではなく、あなたのご友人なんですが――お呼びいただけないでしょうか?」

「はんっ! 生憎だがあいつもクリーニングなんか必要ないってよ!」

 威勢良く言い切った男に、冥介は申し訳なさそうに付け加えた。

「すみません。実はクリーニング屋というのは嘘なんです」

「なっ……」

 開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろうか、男はぽかんと口を開いたまま、二人の前にしばし間抜け面を晒し続けていた。と、その顔が突然憤怒の形相にとって替わる。

「糞っ! 俺を馬鹿にしてやがるのかっ!」

「実は僕、こういう者なのですが――」

 切れた相手の態度などものともせず、冥介はマイペースに話を進める。懐から取り出した名刺を男に差し出した。それで、男の勢いも一気に盛り下がる。

「んん? 神聖探偵社所長・御津神冥介ぇ〜?」

 訝る男に冥介は決定的な一言を投げつけた。

「ええ、それであなたのご友人に是非自首をお薦めしようと思いまして――」

 にこやかに眼を細めた冥介のその台詞に、男の表情がさっと変わった。

 一息に蝋のように青褪めた男の表情が、冥介の言葉が核心を突いているという事実を、雄弁に物語っていた。


   八


「でも先生、どうしてあそこの部屋に犯人がいるって判っちゃったんですか?」

 あれから、観念した犯人が冥介の勧めに従って自首し、二人が長い長い事情聴取の果てにようやっと解放された――その後のことである。

 心底不思議そうな様子の天馬に冥介は苦笑して答えた。

「結局はアパートに残された足跡――いや、残されなかった足跡こそが問題だったんだ」

「どういうことです?」

 天馬は温かいココアを注いだマグカップを掌で包んで、ふうと息を吹きかけた。ココアの甘い香りが鼻腔を優しくくすぐる。

「だからね、犯人の帰りの足跡が残っていたにもかかわらず行きの足跡がどこにも見当たらなかったということが問題だったんだよ」

 冥介はマグカップに三杯四杯と山盛りの砂糖を放り込みながら答えた。その様を見て、天馬は顔をしかめる。

「ええと、アパートから出て行った足跡は犯人の帰りの足跡で、アパートに入っていく足跡は被害者が帰宅した時のものだったから――ああ、確かに犯人の行きの足跡がありませんね」

 ずずっとココアを一口啜って、安堵したような息を吐く。

「そうなんだ。ということは、この場合犯人の行きの足跡が存在しないことをどう考えればいいのか?」

 冥介は皿の上のケーキを小さく切り分けて口に運んだ。彼の口からは、ふうと満足の吐息が漏れ出る。

「そうですね。う〜ん、こういうのはどうでしょう? 犯人の足跡がアパート前に残っていなかったのは犯人の侵入が雪が降り止むよりも前だったから――。それならば足跡がなかったことに説明がつきます」

 「ううん、それはなあ――」と、冥介はフォークを咥えたままで唸る。

「――いくらなんでもないかな。犯人が雪が降り止む前にアパートに侵入したとしたら、それから犯行までの数時間犯人は無人のアパート内にじっと留まり続けたことになる。いくらなんでもそれは不自然に過ぎる」

 今度は冥介の言葉に、天馬が不満そうに唸った。

「うぅ〜ん、それじゃあ、どうして犯人の行きの足跡がなかったんですか?」

「そこが、犯人を限定する論理に繋がったんだ。犯人が雪が降り止む前に侵入したのでもなかったとしたら、考えられる可能性は一つしかない。つまり、犯人はアパートに侵入したのではなく、雪が降り止むずっと前からアパート内にいた人物――あのアパートの住人の誰かだったということになるんだ。それならば、犯行が日が落ちてからでも不自然なことではない。犯人はそれまでただ自分の部屋にいただけだったんだからね」

 そこまで喋ると、冥介は最後まで皿の隅に残しておいた苺を最後の一切れと一緒に嬉しそうに頬張った。

「ははぁ――それで、それがどうして犯人の限定に繋がるんですか?」

 「それふぁだね――」と、冥介は口内にケーキを詰め込んだまま、もごもごと話を続けた。

「先生、飲み込んでからでいいですから……」

 呆れたように天馬は息を吐いた。

(駄目だ……。甘い物を前にした途端にこれだもんなあ。――先ほどまでの震えがくるほどの緊張感はいったいどこへ行ってしまったのだろう……)

 ココアでケーキを流し込んで、ようやく冥介は人心地着いたようだった。

「ふう、それでは改めて――。僕達は犯人の足跡を辿ってもう一つのアパートに辿り着いたね? ところが、犯人がどの部屋に入ったのか判らない」
「ええ、確かにそうでした」

「だけど、僕にはその時既に犯人が被害者と同じアパートの住人であることが判っていた。ということは、犯人はこの時友人か誰かを訪ねてあのアパートを訪れたということになる。それなら、話は簡単だろう? 部屋に入れてもらってちょこっと玄関にある靴の数を数えさせてもらえばいいんだ」

「ああ、それで……」

「君も一緒だと話を通し難いからね。それで僕一人で各部屋を確認してまわった――ということだ。そしてその結果、条件に該当する部屋を一つだけ見つけた」

「それが、あの怖い顔をした人のいた部屋だったんですね?」

「まあ、そういうことだね。――ふぁ〜あ、それにしても久々に仕事をしたら疲れたなあ……」

 冥介は腕を伸ばして大きく欠伸した。さらに、眠そうに眼を擦る。

「ふぅ〜う、満腹になったら眠くなってきたよ。――うん、決めた。それじゃあ、僕はしばらく眠らせてもらうよ」

 言うが早いか、冥介は静かな寝息をたて始めた。天馬が制止する暇もあらばこそ。呆れたような天馬の眼の前で、探偵は実に気持ちよさそうな表情で眠っている。

 眼の前で健やかな寝息をたてて眠る師と、その脇に積み上げられたケーキの皿の山を前に、天馬は一つ盛大に溜息を吐いた。

「ふわあ〜ぁ……」

(先生の眠気が伝播したかな?)

 今日はいろいろとあり過ぎた。

 抜き打ちで試験もあったし、そのまま殺人事件の犯人探しもした。それらのイベントで、自分でも気がつかないうちに天馬は心身ともにくたくたになっていた。身体は正直に睡眠を欲する。

 心地よさそうに眠る冥介を横眼に見て、天馬も、少しだけ仮眠をとるのも悪くないと、そう思った。

「おやすみなさい、先生――」

 その日の出来事を頭の中で反芻しながら、天馬は深い深い夢の中へと落ちていく。

(でも、なんだろう? この、気持ちの悪い感じは……)

 意識が途切れる寸前、彼の頭をそんな割り切れない思いが支配していた。


                        ―〈了〉― 




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